第16話
……カチッ。
「あ……、え」
聞き覚えのある、空虚な音。思わず目を開ける。若葉の頭は、弾丸が貫通したりしていなかった。傷一つつくことなく、アイボリーのふわふわの髪を揺らしている。銃からは硝煙も出ていない。……空撃ちをしただけだった。この銃も若葉に渡された銃同様、細工がされて撃てないようになっていたのだ。
「……」
若葉は困惑のまま銃を下ろし、まじまじと見つめた。そして、問うような視線を目の前の少女へと向けた。小さな長は、ティーカップを口元によせ、中のお茶をこくんと飲んだ。空になったカップを、ソーサーへゆっくりと戻す。そして二つの大きな瞳を、じっと若葉へと向けた。……未だに彼女の品評は、続けられているようだった。
(彼女は、私を殺さないといけないはず。この組織の秘密を握り、彼女に向けて引き金まで引いた私を排除しない理由がない。……だけど、彼女は実弾の入っていない銃を使っていた。これじゃあ私を、殺せない)
……なぜ?
目の前の少女は、一向に口を開こうとしない。探るように、その深い色の瞳を向けてくるだけだった。
(……まあ、なんでもいいか)
いずれにせよ、若葉には関係のないことだ。だって若葉はもう、文樺のもとへ行くのだから。
(文樺、気付くのが遅れてごめん。一人にしてごめんね。今から私も行くから)
若葉は銃をデスクへと置いた。こつん、という小さな音は、静かな部屋に嫌に響いた。そしてその手を、横のカップへと、近づける——
静かな部屋を、銃声が劈いた。突然の発砲音は、まるで雷が落ちたかのようだった。同時に陶器の割れる音、水の零れる音が響く。若葉の伸ばしかけた手は止まり、身体は驚愕に強張った。手の先、デスクからは木材のカスと煙が昇っていた。その下のティーカップとソーサーは割れ、上品な形は跡形もなく壊れていた。中のお茶が零れ、広がった先はデスクから滴り落ちている。ソーサーの残骸の下、デスクには、銃弾が埋まっていた。
「いつから気付いていました?」
淡々とした声に、目を見開いたままの顔をあげる。林檎はいつの間にか、その手に銃を握っていた。細工をしていた二挺の銃よりも小型の、銀色のボディが光るリボルバーだった。そこからは、硝煙が昇っていた。銃口は丁度若葉のティーカップがあった場所へと向いている。彼女が撃ったことは、一目瞭然だった。
若葉はパチパチと瞬きを挟み、陶器の残骸へと視線を下げた。少し声色を落とす。
「……私のカップに、毒が入ってるってこと?」
中に入っていたお茶は今もその面積を広げ、デスクの端からぽたぽたと雫を零し続けていた。飴色が、照明を反射して光っている。それを見下ろし、若葉は虚しい笑みを作った。
「君はよくお茶に口をつけているのに、勧めたり感想を零したりすることを全くしなかったでしょ? 君はきっと、私がお茶に注目するような行為を避けていた。それでいて自分はお茶を飲んで、暗に私に飲むように訴えるのと同時に、その安全性を見せつけていた。だから……このお茶は危険だ、って思ってたの。それだけ」
「そんなことより」と続け、若葉は顔をあげた。口角をあげたまま、悲しそうに顔を歪める。
「なんで邪魔したの」
「……」
「君は私に死んで欲しいんじゃなかったの?」
実弾が入った銃が手元にあるのなら、その銃口を若葉へ向け、引き金を引くだけでよかったのだ。それなのに彼女はそれをせず、剰え毒を仕込んだ飲み物を飲もうとした若葉を止めた。秘密を握った若葉を、殺したいはずなのに。
「ずっと思ってたけど……君、やっぱり腑抜け? 全然私のこと、殺さないよね。そんなんじゃ、縹以外も殺せないんじゃない? 私以下だよ、長なんてやめちゃいなよ」
半分自暴自棄になって、わざと挑発するように嘲る。しかし、林檎は澄ました表情を微塵も変えなかった。口を開き、冷静な声色を響かせる。
「あなたはまだ、愚かなままだわ。感情に支配された、哀れな愚者」
林檎はそう言うと、銃を持つ手を静かに下げた。じっと若葉を見つめる。
「あなたには、利用価値がある。……だからこそ、ここで無駄死にさせるのは早計。そう判断いたしました」
「利用価値?」
若葉は眉を寄せた。
「どうせ死ぬなら、わたし達の肉壁になる気はありませんか?」
林檎は口角を上げた。瞳は笑っていない。
「……肉壁? 盾にするってこと?」
「組織のために弾避けになるも良し、特攻隊になるも良し、帰らぬ囮役になるも良し。使い道はいくらでもあります」
くすりと小さく、可愛らしい笑みを零す。
「あなただって死にたいと思っているのでしょう? それなら、双方にメリットがあります。断ることなんてしませんよね」
若葉は一瞬呆けた。そして、困ったようにその眉尻を下げた。
「……なんだ。最初から君は、それが目的だったんだ?」
結局、彼女の思い通りに事を運ばれただけだった。林檎にとっては、ただ使える駒がのこのこと現れたようにしか見えていなかったのだろう。だから若葉に自分へと銃口を向けさせ、秘密を掴ませ、組織にとって殺す理由を作って、逃げられないようにした。若葉が自死を望むことさえ、見越していたのかもしれない。全ては若葉という捨て駒を手に入れ、利用するためだった。
林檎は返事をしなかった。若葉も明確な答えを言わず、口を閉じた。全て仕組まれていたのだとしても、林檎の言った通り、反対する気は起きなかった。文樺の望むことが若葉の心中ならば、その手段がこの組織の肉壁になることであっても、変わらず目的は達成される。断る理由はない。静寂が部屋に戻り、時計の音だけが響いた。
「……あなたは」
林檎はぽつりと零し、そして顔をあげた。貼り付けた笑みは浮かんでいなかった。その瞳は、やはりじっと探るように若葉を射貫いていた。
「答えを見つけるべきです」
「答え?」
「残りの短い時間を使って、あなたが持つ疑問に対する自分なりの答えを掴むべきだと、わたしは考えます」
……文樺が自分に望むものは何なのか。彼女は本当に、自分に心中して貰うことを望んでいるのか。もし復讐でも心中でもないのだとすれば、それは一体何なのか。本当に、そんなものが存在するのか。
「それが——この組織のためにもなります」
林檎は目を細めた。言葉の意味は、よくわからなかった。
林檎は制服のポケットから何かを取り出すと、若葉に向かって投げてみせた。デスクを越して、音を立てて床へと落ちる。若葉は落ちたものをしゃがんで手にとった。折りたたみナイフだった。
「もしその答えが、わたしや縹を殺すことこそ正義だというものだったのなら、その時はいつでも殺せばよいでしょう」
若葉は手の中のものを再び見下ろし、そしてゆっくりと顔をあげた。眉を寄せた、不可解だと言わんばかりの表情がありありと浮かんでいた。
「君、一体何を考えているのか全然わかんないよ」
「よく言われます」
林檎は手で口元を隠すと、上品に笑った。なんだかそれは、不思議と作った笑みには見えなかった。
「……廊下へ出るとエレベーターが見えます。そちらに乗り、一階へ向かってください。降りて右手奥、視界に映った部屋の中で待機していてください。建物を案内する者を手配しておきます」
話はまとまったとばかりに、林檎は事務的に今後の段取りについて説明した。若葉はぎこちないながらも、頷きを返した。なんとか今の状況を受け入れ、ついていこうとしていた。そして、一応深く一礼する。当初想定していた形とは異なるが、この組織とは目的を一致させている。それにこの場で殺されなかっただけであって、立場上は支配下に置かれているも同然だ。組織員になったわけではないが、礼儀は弁えた方がいいだろう。林檎は見慣れた上品で完璧な笑みを貼り付け、そんな若葉を見つめ返すばかりだった。若葉は少し迷ったあと、デスクへと写真を置いた。飛び散ったお茶で濡れないような場所へ、そっとのせる。三人の少女達の眩しい笑みに背中を向け、部屋を後にしようと足を踏み出した。
アンティーク調の扉の前へと辿り着き、開けようと手を伸ばす。部屋を後にする前に、若葉は室内を何とはなしに小さく振り返った。いつの間にか林檎は場所を移動していて、先程まで若葉がいた場所に立っていた。その手にはライターを持っていて、もう片方の手には若葉の置いた写真が握られていた。ぼ、という音とともに、火が揺らめく。炎に照らされた陶磁器のような肌の手、その中の写真に近づけられ、そして、四角形がゆっくりと欠けていった。みるみるうちに白が黒になり、燃え広がっていく。焦げた匂いが漂い、縮れた断片が床へ落ちる。若葉は手を伸ばしかけたまま、茫然としてそれを見つめていた。
やがて、写真は跡形もなく消え去った。燃え滓が床へと落ち、林檎の片手には何も残っていなかった。驚愕の表情を貼り付け固まっている若葉へと、林檎は僅かに顔を向けた。紅色の髪により、影が落ちる。その中で、くすりと、どこまでも上品に微笑んだ。
「——全部、嘘に決まっているでしょう?」
目を細め、新たな駒へと囁くように告げた。
「共に縹を殺しましょうね」
***