第13話
強い意思を宿した瞳で、若葉は林檎を見つめた。林檎はその言葉をきいても、眉一つ動かさなかった。ただ、目の前の少女へ銃口を向けたまま、商品を品定めするような目で見つめ返すばかりだった。そして彼女は、僅かにその口角をあげた。
若葉は一つ深呼吸を挟んだ。自分を落ち着けるように、深く息を吐き出す。そして手にした銃の安全装置を外し、両手でしっかりと握り締めた。
(私の復讐心は本物なの)
復讐を妨げる者を、殺せるくらいに。
鼓動が速くなった。静かな部屋に似合わない程五月蠅い。銃を持つ手が僅かに震えたような気がして、強く握り直す。
(この莫大な怒りや憎しみの前では、人差し指を動かすくらい、容易く造作も無いことだから)
それでも心のどこかで、何かが囁いて止めようとしてくる。葛藤が胸中で暗く渦巻く。本当にこれでいいのだろうか。……わからない。それでも、文樺の復讐を遂げるという意志は本物だ。覚悟だって決まっている。それだけは、確かな事実だ。そしてその想いを示すためには、引き金を引かなければならないのである。
(だったら……殺すだけだよ。例えその相手が、復讐仇じゃなくたって)
呼吸の間隔が短くなってくる。視線の先が意味もなく彷徨う。溢れてくる唾を呑み込んだ。
「……っ」
覚悟を決めた。そして、両手で握った銃を真っ直ぐと構えた。その銃口の先は、窓ではなかった。目の前の幼い長だ。
復讐の想いは本物であり、そのためならなんだってやる。目の前の少女に若葉を迎え入れる気がないのなら、殺すだけだ。そうすれば若葉は生き延び、恩人が傷つくこともない。
文樺の顔が過り、引き金にかけた人差し指が強張る。そして——その指を曲げた。引き金が、いとも簡単に引かれた。若葉は一瞬、泣きそうな顔をした。
カチッ。
空虚な軽い音が、小さく響いた。弾も硝煙も出なかった。若葉は呆然として、自身の持つ銃へ視線を向けた。
「……頭、まわっていませんでしたね」
林檎は銃口を突き付けた姿勢のまま、笑みを深くした。その顔を見て、若葉は悟った。先程の発砲は空撃ちだった。林檎は若葉に対して、細工をした銃を渡していたのだ。……最初から、若葉に人を殺すことなんて、出来なかった。
目の前の少女は、デスクを抜けてゆっくりと若葉へ近づいた。一歩一歩緩慢に歩み、その度に銃口との距離が縮まる。コツ、コツ。若葉は逃げなかった。というより、足が竦んで動けなかった。自分が一体何をしでかしてしまったのか、今置かれている状況がどのようなものなのか。脳が理解していくにつれ、冷や汗が滲んだ。その様子を、林檎は観察し続けていた。視線の僅かな動きさえも逃さない、どこまでも追いかけてくる大きな瞳。貼り付けた薄い笑みが、これ以上ない程悍ましかった。
「あなたは感情に身を任せて動くだけの、組織に相応しくない人間でした。組織の本拠地の情報を知り、そして組織の長へと銃口を向け、引き金を引いた。……あなたは名実ともに、この組織の敵となりました。排除対象です」
林檎は、若葉の前でぴたりと足を止めた。その銃口を、若葉の額にそっと当てる。若葉の頭に、ぞっとするような冷たさが広がった。目の前の林檎は表情を崩さない。至近距離で見ると本当に人形のように美しくて愛らしい顔立ちで、その完璧さは感情が全く読めない不気味さが共存していた。彼女なら表情を変えずに今すぐにでも引き金を引きかねない。若葉の身は竦み、震えていた。言い様の無い死の恐怖が、胸の奥底から這い上がってくる。
(……この子は最初から、私を組織に迎え入れる気なんてなかった。私を排除する大義名分を作るために、嵌めたんだ)
彼女は恩人を殺せと言われた若葉がどのような行動に出るのか、全て読んでいたのだ。細工をした銃を持たせて、わざと自身に向けて引き金を引かせた。若葉を組織にとって、明確な敵に仕立てあげるために。そしてアジトの情報を握った若葉を始末する、対外的に正当な理由を作るために。
若葉は頭が真っ白になって、その目を力の限り瞑った。暗闇の中、額に当てられた硬い感触が、身体を支配するような感覚を覚えた。氷で全身を刺されたような感覚が広がり、ふるりと身の毛がよだった。
(何もかもこの子の思惑通りだったんだ。殺される……!)
若葉の頭は、血をまき散らすことになる。ここで、終わりだ。文樺のために、何も出来ないまま。
「……」
林檎は死に震える若葉を見上げ、笑みを消した。目を瞑っている若葉は、気付かない。林檎は目を細め、目の前の復讐に魂を売った、無謀で憐れな少女を見つめた。
力強く瞑られた若葉の目尻に、みるみるうちに涙が溜まった。大粒の雫となって頬を伝い、零れ落ちていく。
「文樺のために、どうしても……復讐したいんだ。君には伝わってないのかもしれないけど」
文樺のためにやれることは、もうこれしかないのだから。
「ねえ……、どうして、組織に入れてくれないの? 私、あの子を殺す以外なら本当になんでもする! 自分でも道理に合ってないこと言ってるってわかるけど……でも、あの子のことだけはどうしても殺せないよ。それ以外ならなんだってやるから!」
額に当てられた悍ましい感触はそのままで、横から玉を転がすような声がきこえてくることもなかった。若葉は次々と大粒の涙を零しながら、一度嗚咽を漏らした。その間も、一向に返答はなかった。若葉は両の拳を力の限り握った。
「わ……わかった。じゃあ、あの子のこと、殺すから。この組織の子だって、どんな子だって、君の言う子はみんなみんな殺すから。だから、組織に入れて。お願い」
堪え切れない量の涙が溢れて、我先にと頬を落ちていく。泣き叫ぶ声はその痛切さを滲ませて、最後の方は掠れていた。若葉の頭にはもう、文樺のことしかなかった。ここで命を散らしたら、彼女のために何も出来ないまま終わってしまう。それだけは絶対に駄目だ。
「復讐したい気持ちは本物なの。嘘じゃないの……!」
銃弾が若葉の頭を撃ち抜くその瞬間まで、言葉を放つ。若葉は林檎に懇願し続けた。最期の瞬間まで諦めたくなかった。最早自分が何を言っているのかも、よくわからなかった。それでも若葉は、瞑った暗闇の世界の中で文樺の死に顔を描きながら、必死に叫んだ。口の中に入るしょっぱさも、混じる嗚咽も、酸素を吸い込む間すらも、全てが邪魔でもどかしく思えた。
「お願い……!」
慟哭のような声は、静かな部屋に小さく木霊した。銃口を突き付けている少女は、やはりじっと若葉を見つめ続けていた。引き金を引くこともなく、銃を下げることもなかった。泣き続ける少女を、ただひたすらその瞳に映していた。強く目を瞑った若葉は、林檎がどのような表情で若葉を見ていたのか、終ぞ気付くことはなかった。
「やっぱり……あなたは頭がまわっていないわ」
やがて、林檎はそう小さく零した。意味のわからない呟きだった。若葉はしゃくりあげながら、その瞼を恐る恐る開いた。涙が二粒零れると、ぼやけた視界が輪郭を取り戻した。そこには、目を閉じる前と同じ、表情のない人形のような顔があった。大きな瞳で、じっとこちらを見つめている。
そして額から、そっと硬い感触が離れていった。林檎は銃を下ろし、横のデスクへと静かに置いた。背中を向け、デスクの奥へと戻っていく小さな身体。若葉は呆然としてそれを見送ることしか出来なかった。目尻に残っていた涙が零れ落ち、鼻を啜る音が響いた。
セーラー服の袖で目元を拭っていると、奥からカタンと音がきこえてきた。引き出しを開けるような、木の音だった。若葉は腕を下ろして顔をあげた。林檎はデスクの横から何かを取り出していたようで、その小さい手は片手で掴めるサイズの一枚の紙切れを握っていた。……いや、どうやら写真のようだった。
林檎は再びデスクを抜け、若葉のもとへと戻ってきた。その口は閉じられ、一切の言葉を放つことをしない。彼女の表情も、何の感情も読み取れない。彼女が何を考えているのか、若葉には全くわからなかった。林檎は若葉の前で、足を止めた。ふんわりとしたスカートが揺れる。なぜ、殺さずに銃を置いたのか。若葉がそう尋ねるために口を開くより、林檎が手にした写真を差し出した方が早かった。自然と視線が写真に移る。その瞬間、目の前に映る全ての物が歪むような衝撃を覚えた。