第1話
——若葉ちゃん! 文樺ちゃんが、『ブルー』の襲撃に巻き込まれて、殺されたって……!
若葉にとってその知らせは、世界が変わる合図だった。
***
学校のチャイムに混じって、遠方で爆撃の音が響いた。若葉は自席で伸びをしながら、窓の向こうへと顔を向けた。爆撃の音に反応したわけではない。そちらは日常茶飯事である。
(いい天気だな……)
どこまでも広がる青い空に、綿菓子のような白い雲。そろそろ太陽も疲れる時間だというのに、陽は狭い校庭を燦々と照らしていた。陽が差した校庭は抗争の余波で荒れ果てていて、数多の激しい凹凸が浮き彫りになっている。まともに走れる形状をしていないため、学校に通う少女達は「体育」という教科を受けたことがない。
(こんなにいい天気なら、文樺を連れてどこか行こうかな……)
丘の上でもいいし、公園でもいい。お花見でもいいし、ちょっとしたスポーツで遊んでもいい。今日の放課後は、楽しい時間になりそうだ。周りの椅子を引く音達をききながら、若葉はその顔に笑みを浮かべた。
シックなセーラー服のスカートを靡かせて、若葉は階段を降りていく。上履きがとんとんと心地よいリズムを奏でていた。時折同じセーラー服姿の少女達とすれ違うが、どの生徒も若葉より背が低かった。というのも、若葉は学年の中では年齢が高い方だからである。学年は、学校に通い出した年で分類される。そのため学生達の年端は様々だ。同じ学年だからといって、同じ年というわけでもない。非常に幼い子もいれば、たまに若葉より年上の子もいる。若葉は隣の家の文樺が通い出すのを待ち、文樺に合わせて登校し始めた。そのため、もともと高めの身長と合わせて、若葉より背が高い同級生はごくわずかであり、お目にかかることは滅多になかった。若葉はピンと背筋を伸ばしたまま、すれ違う生徒の背中を横目で追った。階段を走っていないか、前方不注意になっていないか、転びそうになっていないか。若葉は学年で年齢が高い方であるがゆえに、自然と他の年下の少女達をそっと見守る習慣がついてしまっている。もし困っていたり怪我をしたりしていた場合、すぐに手を差し伸べられるように。そんな心積もりを、常にしている。若葉は上っていく背中に異常がないことを確認し、視線を前へと戻した。
階段を最後まで降り切り、廊下へと出る。人影はなかった。校舎の奥へ進む度に、辺りは少しずつ薄暗くなっていく。まるで喧騒を忘れた辺鄙な地に足を踏み入れ、秘密基地を探しているかのようだ。廊下は静まり返っていて、上履きの音だけが小さく響いていた。若葉は目当ての扉を見つけ、足を止めた。扉をスライドさせて、中へと入る。その頭上、鎖に繋がれて下がるプレートには、『図書室』という文字が躍っていた。
「文樺」
本がずらりと並ぶ区画と距離を離し、大きな机が並ぶ学習エリアへと歩みを進める。艶やかな黒髪のセミロングが垂れているのを見つけて、若葉は小さく声を掛けた。彼女は集中していたらしく、突然の声にびくりと肩を震わせた。そろそろと顔をあげ、相手の顔を確認する。困ったような警戒したような顔が、その途端微笑みに変わった。
「若葉ちゃん」
「これからどっか行かない? 外見てみてよ、すっごくいい天気」
図書室の大きな窓を指差す。つられるようにして、文樺の顔が同じ方向を向く。顔をあげた彼女の下には、ノートが広げられていた。その隣には図書室の本が二冊程開いてある。何やら本の内容をノートに書き写していたようだった。
「『脳深部刺激療法』……?」
「わっ」
若葉が声に出してノートに書かれた単語を読むと、文樺は慌てて腕で覆ってノートを隠した。恥ずかしそうに視線を逸らす。
「文樺、また医学書読んでたんだ。相変わらず勉強熱心だねえ」
「うう……」
文樺は覆った腕に顔を突っ伏した。見られたくないらしい。
「恥ずかしがる必要ないのに。医術を学ぶなんて、すごく立派なことなんだから」
若葉は大きな机へスカート越しに尻を乗せた。お行儀が悪かろうが、この図書室には文樺と若葉しかいないため、注意する者は現れない。
「そ、そんなことより……。出かけるんだよね? どこ行こうか?」
「文樺はどこか行きたいところとか、やりたいこととかある?」
「ううん。若葉ちゃんが行きたいところなら、どこでも……」
文樺は顔をあげ、小さくはにかんだ。
「そう? じゃあ~……ドーナッツでも買って、公園行こっか」
「いいね! ドーナッツ、今週新作が出たばっかりなんだよ」
文樺はにこやかに同意すると、ノートと本を閉じ始めた。置かれていた筆記用具をポーチへ戻し、腰を浮かせて椅子を引いた。
「一冊借りていくから、少し待ってて貰ってもいいかな?」
「こんな分厚い本持って帰るの?」
若葉は信じられないという顔で医学書を見下ろした。
「ううん、それは本棚に返すよ。借りるのは小説の文庫だから、私でも持って帰れるやつだよ。すずちゃんがおすすめしてくれたの」
ノートとポーチを鞄に入れると、文樺はそれを肩に掛けた。医学書へと手が伸ばされるのを見て、若葉は先んじてその分厚い二冊を掠め取った。
「あっ」
「どこに返すの?」
胸に抱え、机から降りる。降りた衝撃で本の重さが直に両腕へと伝わり、少し痛かった。
「えっと、あそこ……。……ありがとう、若葉ちゃん」
「文樺の腕じゃあこんなの持ったら折れちゃうよ」
文樺はふふ、と笑って、「折れないよ」と可笑しそうに言った。そのまま本棚へと歩き出した文樺の後ろを、若葉も本を抱えてついていく。場所を教えて貰い、無事に二冊の本を返した。その後文樺は貸出手続きを終え、一冊の文庫本を鞄の中に仕舞った。本好き仲間から薦められたという小説は、タイトルからしてファンタジーもののようだった。
二人は図書室を後にすると、校舎を出た。校門を抜け、大通りを道なりに歩く。街路樹の下の木漏れ日を潜りながら、若葉と文樺は他愛のない話を咲かせ合った。今日の授業は眠かったとか、昨日読んだ小説が面白かったとか。何組の誰々が学校に来なくなったとか、最近誕生した新しい組織が猛威を振るっているらしいとか。今月は二度も担任が変わったとか、スーパーに並ばなくなった食材が増えたとか。先週見た野良猫が可愛かったとか、コンビニの新商品の苺チョコが美味しかったとか。そんなどうでもいい話も、文樺となら無限に話せるのだ。
やがてドーナッツショップのファンシーな外装が見えてきて、二人は中へと入った。若葉は店に入るなり、文樺に教えて貰った新商品をトレイに乗せた。チョコのコーティングに様々なナッツが散りばめられていて、見た目にも華やかだった。文樺へと振り返ると、彼女は中腰になってドーナッツの収まった棚と睨めっこをしていた。その顔は授業中のように真剣だった。若葉はその横にやってくると、手持無沙汰にトングをかちかちと鳴らした。
「……」
複数のドーナッツに目移りしながらも、文樺は真剣な表情を崩さない。彼女はどのドーナッツを選ぶかでひどく悩んでいるようだった。そして若葉にはそれが手に取るようにわかった。彼女はいつもそうだ。小さいことにもいつも真剣、真面目でこだわりが強い。若葉は何も声を掛けなかった。黙って横に立って、漆黒の大きな瞳が瞬くのと、結ばれた桃色の艶めく唇が尖るのと、少し膨らんだ頬が赤らむ様子をじっと見つめた。
「これにする」
やがて、文樺はドーナッツショップの看板商品をトレイに乗せた。リング状の、シンプルなケーキドーナッツだ。今回は新商品は諦めたらしい。
「ふーん」
若葉はおざなりな返事を零しながら、新商品の苺チョコレートの入ったフレンチ・クルーラーをトングで掴んだ。文樺が悩んでいたときに視線が向かっていた先の一つだ。トレイの上、先客の隣へとドーナッツを乗せた時、文樺がそれを見て「あっ」と声をあげた。
「……若葉ちゃん」
「二人で半分こしよーよ。私、どうしてもこれも食べてみたくって。駄目?」
文樺は困惑した表情のまま、口をまごつかせた。やがて決まり悪そうに視線を一度逸らした。そして、表情を柔らかくする。
「……ありがとう、若葉ちゃん」
「なんで文樺がお礼言うのさ。私が我儘言っただけなのに」
若葉は肩を竦め、苦笑を漏らした。しかし文樺にはお見通しのようだった。文樺は嬉しそうに新商品を眺めたが、それ以上言葉にすることはしなかった。若葉は「お会計しよっか」と言ってレジへと歩みを進めた。文樺もその後ろへ続き、二人はセルフレジで会計を済ませた。人口は減る一方の今の時代、店員がいるお店などほぼほぼないため、必然的にレジは全てセルフレジなのだ。二人は店を出ると、再び尽きない話を再開させ、公園への道を進んでいった。のんびりとした足取りで、午後の緩やかな時間が流れる街中を歩く。ドーナッツショップの箱を揺らしながら、隣で文樺が笑みを零した。若葉はその光景に、自然と表情が緩むのを感じた。