スズラン
雨の音が、まだ耳に残っている。
家の玄関を開けた瞬間、
濡れたスニーカーの音がやけに響いた。
「ただいまー」
返事はない。
いつも通りの静かな家だ。
リビングに鞄を放り投げて、
そのままソファに倒れ込む。
天井を見上げると、
部室の天井と、さっきの灰色の空が重なった。
――俺、何もねぇな。
口に出した言葉が、
まだ胸の奥に残っている。
本当に、空っぽだと思っていた。
部活が終わって。
大会も終わって。
三年間続けたものが、一瞬でなくなって。
残ったのは、
進路アンケートの白紙と、
特にやりたいこともない“みじめな自分”だけ。
あの雨の中で、
それを吐き出した。
……なのに。
「私、いるじゃん」
その一言が、
頭から離れない。
柊と同じだった。
あいつも昔、似たような顔で
俺に手を差し出したことがあった。
暗い場所で、
勝手に沈んでいく俺を、引っ張り上げるみたいに。
涼香のあの顔は、
それと同じ光だった。
「反則だろ、あれは……」
あんなタイミングで、
あんな顔で、
あんなこと言われたら。
そりゃ、揺れるに決まってる。
スマホを取り出す。
画面には、
さっき別れたときのトーク画面。
『風邪ひかないでね』
それだけの、短いメッセージ。
少し考えてから、返信する。
『涼香ちゃんもな』
送信ボタンを押したあと、
少しだけ胸が軽くなった気がした。
空っぽだと思ってた場所に、
小さく何かが置かれたような感覚。
まだ名前はつかない。
でも――
「……悪くねぇな」
ぽつりと呟く。
部活が終わっても、
全部が終わったわけじゃない。
そんな気がした夜だった。
――
昼休みの教室。
窓の外では、
夏の風がカーテンを揺らしている。
「ねぇ、ラン君」
廊下の方から顔を出した半袖の涼香が、
小さく手を振った。
「明日、ちょっと時間ある?」
「明日?」
「うん」
ランは少し考えてから答える。
「別にいいけど」
「じゃあ、駅前で待ってて」
それだけ言って、
涼香は友達の元へ戻っていった。
土曜日。
駅前の改札前で、
ランは柱にもたれて待っていた。
数分後、
小走りでやってくる涼香の姿が見える。
「ごめん、待った?」
「いや、今来たとこ」
「ベタなやつ言うじゃん」
「お約束だろ」
二人で笑いながら、改札を抜ける。
向かった先は、
少し離れたショッピングモールだった。
「ここ?」
「うん。ちょっと見たいものあって」
雑貨屋、服屋、
いろんな店を見て回る。
たわいない会話。
笑い声。
空はよく晴れていた。
休日のショッピングモールは、人であふれていた。
家族連れ。
カップル。
友達同士。
どこを見ても、楽しそうな顔ばかりだ。
「やっぱ人多いね」
涼香が少し背伸びをしながら言う。
「土日だしな」
ランはポケットに手を突っ込みながら、ゆっくり歩いていた。
特に目的はない。
ただ、二人でぶらぶらしているだけの時間。
それだけなのに、
今までとは少し違う空気が流れていた。
エスカレーターを降りたところで、
ふと、ランの視線が止まる。
少し離れた場所で、
小さな女の子が男に腕を引かれていた。
「ほら、行くぞ」
「やだ……」
女の子は明らかに嫌がっている。
でも、男は無理やり引っ張っている。
ランは少しだけ眉をひそめた。
(……なんだ?)
反抗期の親子かもしれない。
よくある光景だ。
深く考えすぎるのも、
ただの勘違いかもしれない。
そう考え、ランは視線を外した。
「どうしたの?」
「いや、なんでもねぇ」
そのまま二人は、別のフロアへ向かった。
――
しばらくして。
館内放送が流れた。
『迷子のお知らせをいたします』
軽い電子音のあと、女性の声が続く。
『赤いワンピースを着た、七歳くらいの女の子をお探しの保護者の方が――』
ランの足が止まる。
赤いワンピース。
七歳くらい。
さっきの、あの子と同じだ。
「……ラン君?」
涼香が不思議そうに見る。
ランの表情は、さっきまでと違っていた。
「ちょっと戻るぞ」
「え?」
返事を待たず、
ランは来た道を引き返す。
胸の奥がざわつく。
嫌な予感が、消えない。
さっきの場所に戻る。
もう、誰もいない。
「……いねぇ」
その瞬間。
ガラス越しに見えた。
駐車場の奥。
白いワゴン車。
ドアが開いている。
女の子が押し込まれようとしている。
時間が、急に遅くなる。
「……っ!」
ランの身体が反射的に動く。
「ラン君!?」
涼香の声を背中で聞きながら、
外へ飛び出した。
車はすでに走り出していた。
駐車場の出口へ向かっている。
「くそっ……!」
全力で走る。
でも、距離はある。
このままじゃ、間に合わない。
「どうする………!!」
出口の先は、大きな交差点。
ランは一瞬だけ考えた。
そして――
進路を変えた。
車道を横切り、
交差点の方へ全力で走る。
信号は、もうすぐ青に変わる。
白いワゴンが、交差点へ入ってくる。
ランはその前に飛び出した。
「――止まれ!!」
急ブレーキの音。
タイヤが悲鳴を上げる。
車が目の前で止まった。
ほんの数十センチ。
死ぬかもしれない距離だった。
でも、身体は止まらない。
「どけ!」
「どくのは、お前だ」
そのまま、
ランは後部座席のドアを開けた。
中で震えている女の子。
「もう大丈夫だ」
手を引いて、外へ連れ出す。
「っお前!!」
男がランを掴もうとする。
その手を払いのけ、女の子を抱える。
周囲がざわつき始める。
通行人の視線が集まる。
男は車を発進させ、
そのまま逃げていった。
ナンバーは見えなかった。
でも――
女の子は、助かった。
少し離れた場所で、
警備員と警察に引き渡したあと。
ランは、壁にもたれて息を整えていた。
そこへ、
涼香が駆け寄ってくる。
「ラン君!」
その顔は、青ざめていた。
「……無事だったか?」
「それ、こっちのセリフ!」
珍しく、声が強い。
「なんであんなことしたの!?」
「いや……間に合いそうだったし」
「もし、はねられてたらどうするの!?」
見たことのないくらい表情で、涼香が憤る。
ランは、少し困った顔で笑った。
「まぁ……」
視線を落とす。
「しょーもない俺がさ、
ああいうとこで役に立てるなら、
それでいいかなって――」
次の瞬間。
「ふざけないで!」
涼香の声が、強く響いた。
ランが目を見開く。
「自分のこと、そんな風に言わないでよ!」
涙がにじんでいる。
「しょーもないとか………
そんなこと言う人が、
人助けなんてしないでしょ!」
言葉が、震えている。
その言葉は、
怒りじゃなかった。
“否定”だった。
ランの自己否定を、
真正面から壊しにきていた。
「ラン君がいなくなったら、
悲しむ人がいるのに……」
最後の言葉は、
ほとんど小さな声だった。
ランは、何も言えなくなる。
こんな風に、
誰かに本気で怒られたのは久しぶりだった。
「……悪い」
小さく、謝る。
涼香は、涙を拭いながら言う。
「もう、あんなことしないで」
「……分かった」
少しの沈黙。
そのあと、
ランがぽつりと言う。
「でもさ」
「ん?」
「怖ぇの、少し減った」
ぽつりと言う。
「近くに涼香ちゃんいると」
照れくさそうに、笑う。
涼香の胸が、少しだけ高鳴る。
「……じゃあ、これからも隣にいるよ」
まっすぐ。
揺れない。
柊と同じ光。
でも、
少し違う。
これは俺の為に灯っている光だ。




