第三章 最後の春
誰かに急かされているわけでもないのに、
時間だけが、こちらを待たずに先へ行く。
高校三年生になった。
それだけで、世界が少し静かになる。
進路。
将来。
選択。
どれも昔から知っていた言葉なのに、
この学年になって、初めて“現実の重さ”を持ち始める。
何を選んだとしても、
それを選ばなかった自分には、もう戻れない。
だから、怖い。
だから、人は悩む。
選択そのものよりも、
選び終えたあとに、変更できないことが、何より怖い。
高校三年生――
人生で一番、自分のことを考えることを許された時間だと思う。
逃げてもいい。
迷ってもいい。
でも最後は、自分で決めなきゃいけない。
誰かのせいには、もうできない。
大人になる一歩手前で、
「自分の人生は、自分のものだ」と嫌でも突きつけられる。
だからこの一年は、
楽しいとか、青春とか、
そんな言葉だけじゃ片づけられない。
未来を考えるってことは、
同時に、失う未来を数えることだから。
それでも――
俺はもう、知っている。
怖さを抱えたまま選ぶことが、
弱さじゃないってことを。
逃げないで選び続けることが、
“強さ”だってことを。
高校三年生。
これは、
俺が俺の人生を、
最後まで選び切るための一年だ。
――
春の朝は、少しだけ騒がしい。
窓の外では、校庭の桜がまだ残っていて、
花びらが風に押されて、ゆっくりと地面に落ちていく。
始業式から数日。
教室には、新しい学年特有の落ち着かなさが漂っていた。
席替えは、もう終わっている。
前の席、横の席、
見慣れた顔と、少し距離ができた顔。
柊と寧々は、同じクラス。
ランと涼香は、別のクラス。
前回は、寧々と一度も同じクラスになれなかったのに、
今回は二回連続で同じクラスだ。
しかも――
今回は、ちゃんと付き合っている。
ただし、それは内緒だ。
前と同じ轍は踏みたくない。
だから、公表はしていない。
ランと涼香には、もうバレているけど。
それでも――
同じ教室にいられるだけで、十分だった。
「三年一緒なのでかすぎ」
毎日ランに言っているセリフである。
三回目くらいから、普通に無視されているけど。
「はい、出席取るぞー」
担任の声が響き、
ざわめきが一段階落ちる。
名前が呼ばれて、返事をして。
それだけの、いつも通りの朝。
けれど――
「じゃあ次。進路アンケート配るぞ」
その一言で、空気が変わった。
教卓の上から、白い紙が配られていく。
一枚。
たった一枚の紙。
それなのに、
手に取った瞬間、少しだけ重く感じた。
【卒業後の進路について】
進学。
就職。
未定。
簡単な選択肢。
けれど、その先に続く文字の数は、やけに多い。
志望校。
学部。
理由。
ペンを持つ手が、自然と止まる。
「まだ決まってなくてもいいからなー」
わかばちゃんは、軽い調子で言う。
「今の時点の“気持ち”を書け。
変わる前提でいい」
ふと、遠くを見る。
寧々は、アンケート用紙をじっと見つめていた。
書いていない。
消してもいない。
ただ、見ている。
チャイムが鳴る。
「今日はここまでな。
アンケートは、来週回収する」
ざわっと、教室が動き出す。
椅子を引く音。
笑い声。
次の授業の準備。
日常は、何事もなかったように進んでいく。
柊は、アンケート用紙を二つ折りにして、机にしまった。
何故かまだ書けなかった。
進むべき道もこれからの人生も、決まっている。
でも今は、まだ悩みたい。
寧々と一緒に悩みたい。
『寧々、進路希望書いた?』
一緒に帰れなかったから、家に着いてすぐ電話をかけた。
「ん~……まだ書けてないよ」
「守愛は?」
「俺も。決まってはいるんだどな」
「そうだよね」
何気ない会話。
でも、その何気なさが、どこか心地よかった。
言葉の間に、静かな安心感がある。
少しの沈黙のあと、寧々がぽつりと言った。
「……黒井君は、あれで良かったのかな」
「正解かどうかは、この先で分かるよ」
少しだけ間を置いて、続ける。
「でも……寧々の選択は正しいよ。
今までも、これからも」
あれから黒井は学校を辞めた。
贖罪とか、逃げとかじゃない。
自分の人生を、自分のために生きるために。
まずは身体を治して、そこから新しく始めるらしい。
寧々が、昔世話になった医療関係の知り合いを頼ったと聞いた。
「私ね」
寧々の声が、少しだけ柔らかくなる。
「守愛のためにやってきたことが、
誰かのためにもなってるって思うと……嬉しい」
「やっぱり、国際医療支援とかやりたい?」
昔の寧々なら、迷わず頷いていたはずだ。
でも、返ってきた言葉は違った。
「ううん」
少し笑う気配。
「私は、もう守愛から離れる気ないから」
一瞬、言葉に詰まる。
「……」
「お兄さん。まさか………」
「ずっと恋に落ちてるよ」
「………なにそれ」
小さな笑い声が、電話越しに響く。
二人の会話は、
時が空けた時間を埋めるように、
“愛“をそそぐように紡がれた。
三年生の春は、まだ、穏やかだった。




