あなたといたいから、止まってくれ
「やっと着いたぁぁ!!!」
愛知から約三時間。
観光バスを降りた瞬間、潮の匂いが含んだ海風が頬を撫でた。
狭い座席に押し込まれていた身体が、一斉に伸びる。
肩が鳴り、誰かが笑う。
ベイエリアの空は高く、潮の香りが夏の名残を運んでいた。
「お前ら、周りの迷惑になることすんなよー!」
「「はーい!!」」
先生の声と、弾けるような返事。
この街では、学生の騒がしさすら風景の一部だ。
それでも教師という立場上、形だけの注意が飛ぶ。
「じゃ、昼ご飯からグループで分かれて、17時まで自由行動な」
先生の前に綺麗な列になり、座る生徒達。
早く自由にさせてくれ、と言わんばかりに目を輝かせている子供たちを前に口早に説明する。
「柊!行くぞ!!」
石川、井上、そして俺――三人班。
わかばちゃんの説明が終わると同時に、勢いよく走り出す。
「お前ら分かってるな!
迷惑かけた瞬間、先生とドキドキデートになるからな!」
遠くから飛んでくる声。
「おっけー!夜ラーメンいこーぜ!」
「……ばかか」
頭を押さえるわかばちゃん。
それを見て笑う俺たち。
未来に記憶を残す修学旅行が既に始まっている。
――
昼昼の自由行動が終わりに近づいた頃。
柊たちとは別のグループで、
黒井は必死に足を動かしていた。
遅れるわけにはいかない。
立ち止まる理由なんて、どこにもない。
……はずだった。
視界が、ぐらりと揺れる。
胸の奥が、
チリチリと焼けるように痛んだ。
足元がふらつく。
「大丈夫か?」
同じ班の男子の声。
黒井は反射的に口角を上げた。
「うん、ちょっと寝不足で」
――嘘だ。
寝不足なんかじゃない。
本当は、
自分の中で何かが確実に削れていく感覚があった。
手すりに掴まり、呼吸を整えようとする。
けれど空気は、胸の奥で引っかかる。
吸っても、満たされない。
「……少し、休憩してるね」
無理に笑ってそう言うと、彼は人混みから離れた。
「ホテル近いから、先に行ってていいぞ」
「うん、そうする」
そのまま、黒井は一人でホテルへ戻った。
――
部屋のカーテンの隙間から、淡い西日が床を照らしていた。
黒井はベッドに腰を下ろしたまま、しばらく動けない。
遠くで観光バスのクラクションが聞こえる。
笑い声がこもって、壁の向こうで響いている。
なのに、その音がひどく遠い。
まるで――
自分だけが、
この世界から一歩ずれた場所にいるみたいだった。
「……なんで、みんなは……」
声が掠れる。
「あんなに、楽しそうなんだろうな」
誰にともなく呟く。
手首を掴むと、鼓動が早い。
自分の中で時間がどんどん“進んでしまう”、そんな気がして、怖くなる。
――“止まれ”――
そう願った瞬間、
自分でも可笑しくなった。
止まってほしいのは、世界じゃない。
自分の時間だ。
夕陽が沈まなければいい。
夜が来なければいい。
「今日」が、永遠に続けばいい。
明日が来るたびに、
自分の「残り」が減っていくのを知っているから。
「……止まってくれよ」
誰に向けた言葉でもなく、
それでも必死に、声に出す。
「なんでもいいから……」
黒井は、ベッドに背を倒した。
視界の端で、
時計の針が動く。
カチ、カチ。
その音が、
時間ではなく――
命そのものを削る音に聞こえてならなかった。
止まらない。
止められない。




