敵か味方か、それとも
蝉の鳴き声が、耳を刺すように響いていた。
夏休み。
高校二年の夏は、思ったよりもあっという間に過ぎていく。
ランは部活帰りの坂道を下っていた。
汗でシャツが肌に貼りついて気持ち悪い。
早く家に帰ってシャワーを浴びたい。
そう思っていた矢先――前方に、妙に静かな気配を纏った影を見つけた。
黒井由吏。
二年一組に来た転校生。
柊によれば、彼は「本来いなかったはずの存在」だという。
俺はこの黒井が苦手だった。
廊下ですれ違うたび感じる、あの視線。
柊と話している時、風向きが変わるような不穏さ。
言葉にできない気持ち悪さが、自然と距離を取らせた。
その黒井が、炎天下にもかかわらず、涼しげに立っている。
影の輪郭だけがやけに濃く、現実感がなかった。
声をかけようか迷っていると、ふと黒井が振り返った。
「……夏木君」
落ち着き払った声。
だが笑みは、不自然に張り付いている。
「よっ。何してんだ、こんなとこで」
「なんだろうね……。ここに来れば、君に会えると思って」
「俺に……?」
「うん。良かった。やっぱり僕は、覚えている」
覚えている?
何をだ―――。
ランは眉をひそめた。
柊の友人として何度か言葉を交わした程度の関係。
なのに“会えると分かっていた”ような口ぶりに、背筋がざわつく。
「まあ、部活帰りだしな。この道通るのは普通か。………家の場所、教えたっけ?」
「教えてもらったよ。夏木君は、柊君の為に“長“をしたの?」
「………? いいや。クラスの総意で選んでもらった感じだな」
「そう………。そういうことなんだ」
黒井の声は、どこか遠く、意味深に響いた。
「それで、黒井。わざわざ俺に何の用だ?」
「忠告だよ」
淡々とした声音で、黒井は告げた。
「橘さんには、深入りしないほうがいい」
蝉の声が、途端に遠のいた。
「……は?」
「前みたいに、なる」
ランは思わず目を見開く。
何かを言い返そうとして――
喉の奥で、言葉が凍りついた。
「忠告。それだけだよ」
黒井はそう言い残し、再び前を向いて歩き出した。
ランが言い返すより早く、その姿は坂の向こうに溶けていく。
残されたのは、胸の奥に落ちた、冷たいざわめきだけだった。
――
「寧々!お待たせ!」
「っ………!スズ、静かに!」
図書館の静けさを破る声に、慌てて口元に人差し指を立てる。
待ち合わせて宿題を進める予定だったのに、涼香は最初から全力だった。
「ご、ごめん。ついテンション上がっちゃって……」
申し訳なさそうに頭をかきながら、ペコペコとお辞儀を繰り返す涼香。
その様子に、つい頬がゆるむ。
「寧々、あとどれくらい?」
「んー……もう数学の冊子やったら終わりかな」
「……絶句なんですけど」
「なにそれ」
涼香の大げさな表情に、思わず吹き出す。
「私、一つも終わってないよ~」
「夏休み、あと一週間しかないよ?」
「もう時間止まってほしい! それか最初からやり直したい~」
「はいはい。じゃあ今日で一気に進めよ」
そう促すと、涼香は観念したようにペンを走らせ始めた。
その集中力は意外と続き、気づけば一時間ほど経っていた。
「ふ~……休憩!」
「そうね。図書館の隣にカフェあるし、ちょっと行こっか」
――
カフェに移動すると、宿題よりもおしゃべりがメインになるのは当然の流れだった。
「てか、最近寧々と柊、仲いいじゃん」
ストローをくわえながら、ずっと我慢してた話題を放り投げてくる。
「仲がいいのかは分かんないけど……修学旅行のこともあるし、話す機会は増えたかな」
「柊と仲良くしてくれるのは、とっても嬉しいことでごわす!」
変な口調で言ってフンフンと鼻を鳴らす涼香に、笑いながらも、前から気になっていたことを聞いてみた。
「あのさ……黒井君と話したことある?」
「え? ないかな。見かけたことはあるけど」
「そう……よね」
一瞬胸をなでおろす。けれど、涼香の次の言葉に背筋が固まった。
「でも……視線は感じるね」
「……えっ?」
思わず前のめりになってしまい、慌てて背もたれに戻る。冷静を装いつつ続きを待った。
「い、いつ感じる?」
「んー……“柊”と話してる時かな」
「!!!」
後頭部を殴られたような衝撃だった。
「ど、どうしたの? 立ち上がって」
「ご、ごめん……」
ゆっくり座り直しながら、思考を回転させる。
………
………
ずっと心の奥で感じていた疑念を、どうしても確かめたくなった。
「あのさ。黒井君から柊君に対して………嫌な感情、感じない?」
口に出した瞬間、もう後戻りはできなかった気がした。
涼香はストローをいじりながら、少し考え込む。
「嫌な感情かぁ……“嫌い”とか“憎い”って意味?」
「うん。そういう……負の感情」
「んー……スズはね、それとはちょっと違う気がしたかな」
「違う……?」
「言葉にするの難しいんだけど……“目が離せない”って感じ?」
「目が……離せない」
「そう。気になって、つい“目で追っちゃう”……そんな存在、かな」
人の感情を機敏に読み取れる涼香の事だ。
私とは違う感覚を抱いてくれるとは思っていたが、予想をはるかに超えていた。
「………ありがとう。参考になった」
そう言ってから、話題を切り替えた。
夏休みの思い出や修学旅行の楽しみを語り合い、再び宿題へと戻っていく。
けれど、心のどこかに残った涼香の言葉が、ずっとざわつきをやめなかった。




