甘く苦い夏も、幕を閉じる
朝の光は、あまりにも普通に、変わらず差し込んでいた。
――あんなことを言ったのに。
胸の奥が、火傷のように熱い。落ち着かない。
窓から射しこむ陽の光は、今までと同じでいて、どこか少し違って見えた。
白く、眩しく、まるで俺の浮足立つ心を見透かしているかのようだった。
「………くそ、また寝れなかった」
枕元のスマホには、何の通知もなかった。
着信も、メッセージも、何も。
―――別に期待してたわけじゃない。
そう言い聞かせるたび、余計に胸のざわつきがひどくなる。
(言っちまった。全部)
頭を抱える。脳裏であの言葉が無遠慮に何度も繰り返される。
『好きだ。俺を選んで、幸せになってくれないか』
――言葉が、何度も何度も脳内でリフレインしてくる。
言うつもりなんてなかった。
思っていたわけでも――きっとなかった。
だけど、あの時の寧々の顔を思い出すたびに、心が勝手に疼く。
あの涙。あの痛み。
全部、受け止めたいって、心が勝手に思ってしまった。
そう。
確かに俺は、恋に落ちた。
もう夏が終わるっていうのに、まだまだ暑さはしぶとく残っている。
久しぶりに袖を通す制服の感触が、妙に新鮮だった。
鏡に映る自分の顔は、少しだけ――今までの自分と違って見えた。
“ただのクラスメイト”でもない。
“友を救うヒーロー”でも、もうない。
――“恋”という呪縛に囚われた、ヒロインを奪いに行く“怪盗”になる。
夏木歩の夏が、ここから本気を出す。
そんな音が、確かに聞こえた気がした。
――時は、夏祭りのあの夜に戻る――
「ランっ!!!!!」
最後の花火が夜空に咲いた、少し後。
ランからのメッセージがようやく届き、俺たちは四人で再び顔を揃えた。
「お前、どうしたんだよ。その顔と浴衣………」
「寧々、大丈夫だった?」
柊と涼香が一斉に心配する。
崩れた浴衣、頬に残る痣。
明らかに“何かがあった”ことは一目でわかった。
「なにも、なかったよ」
「何もって………」
寧々とランの二人は、微妙な距離感を保ったまま、何も語らなかった。
それ以上踏み込めない空気が、あたりを包み込む。
まるで、触れたら壊れてしまうシャボン玉の中にいるようだった。
帰り道も、そのまま無言で歩く。
それぞれが、何かを言いかけては、飲み込んで。
「……じゃあ、学校で」
涼香の一言で、静かに散った。
――
その夜、柊はランを公園に呼び出す。
「おい、何があったんだよ」
「……言いたくない」
まともに答える気のない態度に、柊の中の怒りが膨らんでいく。
「は? お前、寧々になんかしたのか?」
「して……ない」
「おいっ!」
怒りに任せてランの胸ぐらを掴む。
崩れかけていた浴衣が、さらに形を失う。
「……気づいたんだよ」
柊の真っ直ぐな瞳に射抜かれ、ランがぽつりと漏らす。
――どうせ、いずれは気づかれることになる。
「は?何に気づいたんだよ」
「……好きなんだよ」
「………は?」
言っている意味が分からなかった。
なぜなら夏木歩は、まだ“恋”を知らないはずだった。
だが、それは間違いだったことに気づく。
最悪な形で。
「橘さんが好きだ。お前には渡さない」
時間が止まったような錯覚。
世界の秒針がギチギチと音を立てて、急に回り出す。
本来なら、もう一周分、かかるはずだった。
ランの初恋までは。
「お、お前はまだ………。まだ恋をしないはずじゃ………」
「!!………」
ランは目を見開いた後、自らに覚悟を問うように、はっきりと告げる。
「お前の事を、俺は守らない」
「守りたいのは、橘さんだ」
「橘寧々の隣に立って、一緒に生きるのは、俺だ!」
そう言い放ち、ランは柊に背を向ける。
――これからは、敵だ。
そう言わんばかりの背中だった。
――――
衝撃で、しばらく動けずにいた。
さっきまで鳴っていた花火の音も、キラキラした空も、もうない。
真っ暗な静けさだけが、柊を包み込んでいた。
「俺は………」
手に持っているものに、視線を落とす。
「ランと一緒にいる方が、幸せなのか………?」
寧々の未来の隣にランがいる。
それを想像するだけで心臓がつぶされる思いだ。
俺は、寧々に嫌われている。
今さら追いかけたって、きっと誰も歓迎しない。
でも、それでも………
寧々には、この世界でも、幸せになってほしい。
それなら――――
桜の花びらのトップがついたネックレスを、ぎゅっと握りしめる。
柊はゆっくりと空を仰ぐ。
グット堪えた目をゆっくりと明けながら、空を見上げる。
曇っていた空の隙間に、かすかに月が覗いていた。
「もう、やり直せない。親友だろうが、好きな人は譲れない」
―――俺は知っている。
「嫌なことは、寝れば忘れる」。
これが“嘘”だということを。
――
本当に嫌なことは、何年経っても、ふとした瞬間に甦る。
ご飯を食べてる時。
テレビで一緒に行った場所が流れた時。
好きだったバンドの音を聴いた時。
記憶が、日常のあらゆる隙間から顔を出す。
思い出すのは、好きだった顔だ。
笑った顔。怒った顔。考え込んだ顔。
――全部、好きだった顔だ。
目の前にプロジェクタ―の様に映し出される。
そして、思い出す度に心臓を握りつぶされる。
握りつぶしているのは過去の自分だと気づいた時、遅すぎる後悔をする。
俺は、あの痛みを知っている。
もう、同じ結末は辿らない。
「俺が……俺が、寧々を幸せにする」
その言葉が、胸の奥に深く刻まれる
柊守愛に好かれることが、橘寧々の幸せかは分からない。
でも、少なくとも――
かつての寧々が好きだった“高校一年の柊”は、諦めるという言葉を知らなかった。
自分の色で、寧々のキャンバスを塗りつぶすために。
もう一度、あの頃の自分を思い出す。
「負けないよ。俺は」
かつての俺と、今の俺は、もう違う。
でも、流れる熱は、変わらずここにある。
ゆっくりとネックレスを首にかける。
それはまるで、自らに課した十字架だった。
――いつか、この想いを渡せるその日まで。




