夏が始まる
あの野外学習から、幾分か時が経った。
あの夜、焚き火の灯に照らされた言葉や、胸の奥に刻んだ想いも、少しずつ日常の風景の中へと溶け込んでいった。
季節は巡り、カレンダーの数字だけでなく、生徒たちの表情にも「夏」がしっかりと根を下ろしている。
教室の窓から差し込む陽射しは、まるで「終わり」と「始まり」を告げるように、きらきらとまぶしかった。
「終わったー! ついに終わった! 自由だーっ!」
涼香の叫び声が、静かなホームルームを突き破った。先生も苦笑いしながら、最後の出席簿を閉じる。
「まあ気持ちは分かるけど。夏休みの宿題、忘れるなよー」
「はいはーい! ちゃんとやりまーす!」
実際には、宿題のことなんて誰も頭にない。心はもう、目前に迫る夏休みへと飛び立っていた。
そんな中――
柊は、教室のざわめきの中でふと静かに窓の外を見た。
セミの声、太陽の匂い、教室のどこかで響く笑い声。
あの春、“やり直し”から始まった時間が、ようやくここでひとつの区切りを迎えている。
思い返せば、短いようで長く、長いようで一瞬だったような気もする。
それでも確かに、ひとつひとつ、かけがえのない時間を積み重ねてきた。
「柊君、どうしたの? しんみりしてる?」
ふいに声をかけてきたのは古谷。
「いや、なんかさ……やっと一区切りって感じだなって」
「確かにね。一学期って、あっという間だったよね。……にしても、夏休み、どう過ごす予定?」
「まだ、決めてない。決められてない、ってのが正しいかも」
「そうだよね。部活動も忙しそうだけど……」
「まあな。でも、せっかくの夏だ。ちゃんと味わいたいよな」
その言葉は、ふと風が吹き抜けたように、静かに、けれど確かに心に残った。
教室を走り回る涼香の笑顔。
それを目で追いながら、少しだけ緩んだわかばちゃんの頬。
誰もが少しずつ変わって、でも変わらず、そこにいる。
それぞれの夏が、もうすぐ始まる。
そしてきっと――この夏も、忘れられない何かを残していく。
――
放課後、日が傾き始めた教室。
夏の光が床に長い影を描く頃、ぽつりと問いかける声が響いた。
「橘さんは、夏休みどうするの?」
野外学習で“柊を守る”と誓った橘寧々は、あれから適度な距離を保っていたが、以前感じたような悲壮感はすっかり消えていた。
柊の笑顔を見た、あの帰り道。
その時に、自分が向かうべき場所を見つけたのかもしれない。
今の彼女の表情は、どこか透き通るような、晴れやかさがあった。
「そうねえ… 特にこれといって。でも、部活…かな」
「部活動以外を聞いてんだよ……」
この人、もしかして本当に予定ないのか?
一応、女子高生だよな……?
「でもね、私、夏休み楽しみなのよ。やりたいことあるから」
「そうなんだ。もし柊の事でなんかあったら連絡頂戴。
俺、多分毎日一緒にいるし」
「ええ。じゃあさっそくだけど……部活動の予定表、写真に撮らせて?」
「え? まあいいけど…。はいどうぞ」
ランが戸惑いながら差し出す予定表を、寧々はまるで宝物を扱うように両手で受け取った。
「ありがとう」
その顔に浮かんだのは、夏の陽射しのようにまぶしい笑顔。
もう、それ以上何かを聞く気にはなれなかった。
――
そして、時は少し流れ――夏休みの、ある日の教室。
「ねえ、古谷君。 写真のこと、私に教えてほしいの」
ふいに声をかけてきたのは、寧々だった。
「僕でよければ、全然大丈夫だよ。撮りたいものでもあるの?」
「ええ。……残しておきたいものがあるの」
迷いのないその声に、古谷は笑ってうなずいた。
「任せて。きっと、きれいに残せるから」
それは、この夏に咲く、まだ見ぬ“記憶”の始まりだった。




