一人にはしない
広場では、水鉄砲祭りと花火大会が始まりつつあった。
夜の帳の下、笑い声と水しぶきが交差し、夜空にはかすかな火の粉が舞いはじめている。
そのとき、涼香のスマホに一件の通知が入った。柊からの「ありがとう」のメッセージ。
──「水鉄砲と寧々を展望台に連れてく私に何かおごってね!」
涼香はそう返して、約束の場所へと向かった。
「お待たせ!!」
「早かったね、それじゃいこっか」
「うん!」
展望台へ向かうには、体育館脇の階段を上り、別館に移動する必要がある。
そこから、螺旋階段を登った先に、小さな展望スペースがあった。
まるで秘密基地のように狭いその場所は、しかし一周すれば、広場と施設全体を見渡すことができた。
そこには、ひとつだけ設置された望遠鏡があり、星や遠くの景色を覗くことができる。
「ねえ、寧々の初恋って、いつだった?」
目的地へと歩く間、ふとした思いつきで涼香が尋ねた。
涼香はまだ恋を知らず、幼なじみ同士でも恋愛の話はあまりしたことがなかった。
「急だね」と寧々は笑った。
「そうだなぁ……初恋か。今の私は、まだ恋をしたことない……かな」
「“今”って?」
言い回しに違和感を覚えた涼香は、素直に疑問をぶつける。
「誰か気になる人がいて、これから好きになる……とか?」
「これから先も、たぶん――いないと思う」
笑みの奥で、目だけが冷たく細められた。
突き放すようなその表情に、涼香はなおさら気になってしまい、問いを続けた。
「お風呂で言ってた、高校生が子どもっぽいって。それで恋ができないの?」
「そうだよ。私は理想が高くて、高校生にはいないかなーって思ってる」
「寧々が好きになる人って、どんな人?」
んーっと私の好きな人って確かにどんな人だろう、と考えてしまった。
「 ……私を、おいていかない人かな 」
小さくこぼれた独白。
その一言は、まるで心の奥に鍵をかけた記憶が、うっかりこぼれ落ちたみたいだった。
「おいていかない?」
疑問を募らせる涼香に、寧々は笑って取り繕う。
「ごめんね、変な言い方して。 私とずっと一緒にいてくれる人ってこと。
さ、着いたよ!」
話はうやむやにされ、涼香もそれ以上問い返すことができなかった。
「すごいね!!一望できるじゃん!!!!」
展望台から見える景色に、涼香は歓声を上げた。
一方、寧々は望遠鏡を覗いて、黙々と星を見ていた。静かに、けれど真剣な表情で。
退屈になった涼香は展望台を一周し、遠くの広場に目をやる。すると、光が弾けるような風景が目に飛び込んできた。
「ね、ねねね!! なんかすごい光ってるよあそこ!!」
「ん?後でもいい?」
望遠鏡に夢中の寧々は、そっけなく返す。
「ちょっと! 見てくれないならスズ見たいから代わって!」
「もう……どこ……え? 」
目の前に広がるのは、煌めく火花。
夜空を彩る打ち上げ花火、そして水鉄砲で笑い合う生徒たちの姿。
その光景を見た途端、寧々の中の「時」が音もなく止まった。
世界は、まるで水の中に沈んだように、静かに、緩やかに遠ざかっていく。
呼吸すら、うまくできない。
この世界の空気が、自分のものではないと感じた。
火の粉が、空に咲いては、ふわりと消えていく。
その一粒一粒が、過去の記憶を掬い上げる。
柔らかくて、温かくて、でもどうしても手が届かない。
遠くで誰かが笑っている。
それが、かつての自分の笑い声に聞こえた。
あの日、あの夜、あなたの隣で笑っていた自分の、幻のような記憶。
――私は、もう、あそこにはいられない。
焼けるように胸が痛いのに、泣けなかった。
「なに!なに!何だった!!」
さっきから興奮している涼香に代わることにした。
「ええええええええ、花火してんじゃん!!水鉄砲も!!」
「めちゃめちゃたのしそうじゃん!!寧々行こうよ!!」
「 ……私はいかない 」
その言葉で、空気が凍りつくのがわかった。
涼香が偶然見つけた光景。それが意図的ではないことは分かる。
でも行くわけにはいかない──守愛の思惑通りになってしまう気がするから。
「なんで、そこまでして、行こうとしないの?」
涼香の言葉は、疑問というより、苦しみに寄り添うものだった。
「私は、ああいうのが嫌いなの。花火だって、先生に許可を取ってないと思う」
「真面目にしてる人が、損をするみたいで、嫌い」
それは、言い訳のように聞こえた。
言い聞かせているようにも聞こえた。
「寧々は、本当に花火を否定してる?違うよね」
「柊が関係してるからじゃないの?柊のこと、そんなに嫌い?
性格?行動?どこが嫌いなの?」
「そう、全部……全部、嫌いなの」
その言葉に、涼香は涙を浮かべた。
「嘘つかないでよ……親友でしょ、私たち」
「嘘じゃない!!……だから、もうその人の話、しないで!!」
「なんで……そんなに辛そうなのに」
その涙が、熱くなりすぎた空気を静かに冷ました。
「寧々が辛いなら、私も辛い」
その言葉に、寧々の瞳からも自然と涙がこぼれた。
未来から来た自分。親友と距離を取り、孤独を選んだ寧々の胸に、それは鋭く刺さった。
「……違うの。涼香は悪くない
でも、私は本当に──柊守愛とは関わらない」
そのときだった。
「ごめんね、俺も混ざてくれる、その話」
展望台のドアが軋んで開く。
「「え?」」
二人同時に振り向く。
「関わらないようにするって、”無関心を貫く”ってこと?」
開口一番、橘寧々に話しかける夏木歩。
「……そうよ、あなたが言ったのよ―― 一番嫌われる方法を」
「そうだね。俺が言ったよ。 そうすることで、橘さんが救われると思ってたからね。
でも、それは俺が間違えてた。だから、共犯者にはなれない」
「なんで…あなたが言ったことじゃない。悪役になるって」
ランが一歩踏み込む。月光が背中を縁取る。
「 だって、橘さんは”悪役”じゃなくて――ヒロインでしょ? 」
言葉を失う寧々。
「ね、ね、スズなんにもわかんないんだけど………」
「涼香さん、ごめん。急に現れて。
でも、約束するよ。俺が橘さんを広場に連れていく。」
「だから、先に広場で楽しんでおいてほしい」
とびっきり優しい笑顔で言われた涼香は、もしかしたら自分はこの会話に必要がないのかもしれない、と気づいた。
「わ、分かった。でもでも、寧々に怖いことは言わないでね!!」
こんな時にまで、親友の事を気遣える目の前の女の子にびっくりしたが、力強く頷きながら、
「分かった。安心して」
その顔を見た涼香は、「先言ってるね」と寧々に言ってから展望台から出ていった。
涼香が去ったあと、寧々はそっとつぶやいた。
「助かるわ。私、あなたと話したら、何を言ってしまうか分からない」
「じゃ、単刀直入に言わしてもらうね」
「橘さんは、柊に嫌われたいんだよね」
「ええ、嫌われたいのよ」
「ちがうよね。柊に嫌われたいんじゃなくて………」
夏木歩はこの物語の本幹に、第三者でたどり着くことができない部分に、足を踏み入れようとしている。
「 ”柊守愛に嫌われている橘寧々”でいたいんだよね 」
「 しかも、それは―― 」
夏木歩の言葉は、まるで鍵のかかった扉をノックする音だった。
寧々がずっと誰にも明かさなかった願い。
それは、愛の裏側にある——祈りのような嘘だった。
「 柊のために、だよね? 」




