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奇跡の口紅  作者: つっちーfrom千葉
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奇跡の口紅 第三話(完結)


 性能が大幅に向上した口紅は、さらにグロテスクな色合いとなり、値段は五千ドル程度に設定された。この価格は一般的な正社員の月給の三倍程度であり、すでに、一般庶民には到底手が届かないものとなっていた。それを手にすることのできない市民の国家に対する反感は、さらに強くなった。


 日々の暮らしにも事欠く庶民はどんなに努力しても、これを購入することができない一方で、中産階級以上の金持ちは競ってこの奇跡の口紅を購入していった。一般の市民たちは、大々的に宣伝され発売される、この口紅の性能が向上するごとに、自分たちの資産が目減りしていることに気づいていた。性悪になる効果がいっそう上昇したことで、特に口紅を購入しやすい都市部において、治安の悪さがこれまで以上に目につくようになった。


 勝者と敗者しか存在し得ない経済の論理で考えれば、口紅を手にした者たちの金運を上昇させるということは、これを持たない人々の金運を著しく下げることに等しかった。これにより、経済の二極化はさらに進んでいた。市民によるマナーの悪化も目に付くようになり、公共の施設においても、子供や女性や老人を敬う姿勢はまったく見られなくなっていた。議会では医療や教育にかかわる予算が大幅に削られる法案が次々と可決された。街中では口紅をつけた者たちによる略奪行為が頻繁に起こるようになった。


 各都市の治安はこれまでにないほどに悪化したが、警察官たちはそれを見て見ぬふりをした。犯罪に手を染めた者の数は非常に多く、これを下手に止めようとすると、自分の側がどんな目に遭わされるか分からないからである。警察への信頼が揺らぐにつれて、デパートでは高性能な自家用金庫がよく売れるようになった。家族以外の人間を信用しない風潮が徐々に広がりつつあった。


 この事態を重く見た政治家や官僚たちは、ようやく声明を発表して、中産階級以下の庶民による口紅の購入を一時的に見合わせるように求めた。しかし、その会見はそれほどの効果を上げなかった。それを呼びかける彼らの唇にも、極彩色の口紅がべったりと塗りつけられていたからである。


 口紅を購入できない庶民のモラルについては、それほど変化は見られなかった。彼らは事態の悪化に脅え、ドアに厳重に鍵をかけて家の中に閉じこもり、ただ震えおののいていた。


 自らの金運が上昇したことで、これまでにないほどの多額の貯蓄を手にした上流階級の権力者たちは、ウィズ氏に向けて、さらなる高性能な口紅の開発を求めた。これまでのエンゼルティアーの売り上げにより、今や国家を代表する発明家として名をはせるようになったウィズ氏は、その勢いに乗って、さらに性能の向上した口紅の開発を急いだ。社会の上層にいる人々から大きな期待を受けるということは、こたえられないほど気分のいいものであった。


 間もなく、『50%の金運上昇を見込めるエンゼルティアー』が発表され、これまでの十倍以上の値段で発売されることになった。最新のエンゼルティアーは、市場において人の手を渡るたびに、さらなる高値で取引されるようになり、最終的には一本五十万ドル以上で売りに出された。ダフ屋たちが値段をどれほどの高値に設定しても、それほどの時を待たずして買い主が現れるのだった。周囲にいる人からの期待に何とか応えたいウィズ氏は、自分自身が唇に塗ることさえ恐怖するほどの凶悪性能の口紅を開発せざるを得なくなっていた。


 社会におけるモラルの低下は、政治家や公務員たちの層において特に顕著であった。議会ではついに、一定以上の高額な貯蓄を持つ人々の固定資産税の支払いを完全に免除する法案が可決された。さらに、治安の悪化に対抗すべく、すべての階級において、自分の身を守るための、拳銃などの武器の携帯も許可されることになった。


 エンゼルティアーを購入することのできない一般庶民たちは、すっかり堕落した議会の姿勢に対して強い反発を示したが、庶民の生活を悪化させるための法案が、右から左へと次々に可決されていき、すでに、どうすることもできない状態に陥っていた。口紅の販売停止を陳情することをすでに諦めた市民の一部は、ついに武器を持って立ち上がり、次第に暴徒化するようになった。この頃になると、昼間においても、街のいたるところで銃声が響き渡るようになっていた。国家全体において、殺人や略奪が横行したが、凶悪事件のあまりの多さに、すべての事件を警察が捜査することは、もはや不可能になっていた。国は庶民たちの暴動に対して、機関銃やミサイルを備えた治安部隊を投入することにより、力づくでこれを阻止しようとしたが、人口の多い都市部においては、階層や犯罪歴の有無に関わらず、すべての人に対して銃口が向けられるようになり、もはや、戦時下の様相を呈していた。


 この国の混乱が頂点に達した頃、ウィズ氏は買い物の帰り道に何者かの拳銃によって撃たれ、右脚の太腿に重傷を負った。彼が履いていたズボンは、まるで口紅で塗りたくったように真っ赤に染まった。後の調査で分かったことは、犯人は十七歳の少年。要人暗殺の常連者であり、特に理由もなく富裕層を狙い撃った犯行であった。銃撃に及んだその少年は、他のいくつかの殺人罪にも問われ、その数日後に、治安部隊によって公開処刑された。処刑の様子をテレビで眺めていたウィズ氏の心中は複雑であり、まったく幸福ではなかった。少年が処刑隊に銃殺された瞬間の断末魔の叫びは、彼の心中に長くとどまることになった。


 数年後、首都にあるほとんどの街が廃墟となり、多くの国外逃亡者が出たことにより、国の人口が半分ほどにまで落ち込んでしまった頃、政府はようやくこの口紅の開発と販売を禁止する法令を施行した。


 発明家のウィズ氏は、この頃には自身の栄誉と健康と家族を失っていて、失意の底にあった。この日はひとり瓦礫の山と化した故郷の街を松葉杖をつきながら散策していた。かつては緑に満ちて明るかった街は、今やどこを見ても灰色で、まるでデッサンのように暗く歪んで見えた。春になっても、死の灰に焼かれてしまったこの街の木々には、新芽は育たなかった。あちこちに眼光鋭い浮浪者が佇んでいた。数年に渡る内乱状態と化した街のあちこちには、今も供養されない戦死者の遺体が散乱していた。それは、加害者であり、被害者でもあり、誰の責任かも分からないままに起きた戦争の犠牲者たちでもあった。ウィズ氏は壊れかけのベンチに腰を掛け、死者たちに祈りつつ、自分の発明のどこが悪かったのか、人々の心はなぜこれほどまでに変わってしまったのかを考えていた。


 ふと、道脇に目をやると、どこかで見慣れた小さな物品が捨て去られていた。それはかつて彼自身が発明し、製作して販売した未開封のミラクルティアーであった。彼は痛む腰をかがめてそれを拾い上げた。もっとも初期に発売されたその口紅の性能は、唇を染めた人の金運をわずかに下げつつ、道徳心を引き上げるという慎ましい性能であった。



 ウィズ氏はその製品を懐かしく眺めた。自分がなぜそのような素晴らしい製品を発明することができたのかが、信じられなかった。今となっては、取り戻せない輝かしい日々の発明品であり、あの頃の自分にとっては未来への希望のひとつであった。あの頃は、この世界の未来像がかろうじて明るく見えていたはずだ。この発明には貧しい人々の生活を少しでも楽にしたいという願望が詰まっていた。一番売れなかったこの製品が、今となっては一番輝いて見えた。初めて発明に成功した頃の忘れていた気持ちを取り戻したとき、すっかり荒廃したこの世界が、少しだけ明るく見えてきた。

 最後まで読んで頂いて誠にありがとうございました。また、よろしくお願いいたします。他にもいくつかの完結済みの短編作品があります。もし、気が向かれたら、そちらもぜひ、ご覧ください。2023年10月15日

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