寒空を抜ける風は、さよならに効く。
大学卒業と就職祝いを兼ねて、恋人の満井眞子と二人で食事へ行った、その帰り道。夜の、だけどまだ寝静まっていない芳日町の大通りをゆっくりぶらぶら二人で歩く。春の訪れを辛抱強く待ち続けている、この狭間のような季節は、雪こそもう降らないもののまだまだ凍えるほどに寒く、厚着の温もりが必要不可欠だ。それでも足りなくて、俺と眞子は手を繋いで半身をくっつけ合っている。アルコールを摂れば体のポカポカ具合もまた違ったかもしれないが、実際アルコールを大量に摂取したいようなムードでもあったんだけど、今日はダメなのだ。アルコールをあんまり摂取してしまっては。酔っ払ってしまっては。
「楽しかったー」と眞子が白い息を吐きながら言う。芳日町の明かりが、眞子の寒そうな息の色を浮かび上がらせる。「楽しかった」
食事に対して『楽しかった』と言うのは、まあなくもないんだろうけど、眞子はたぶん食事を指してだけ言っているのではなさそうだ。
俺も「そうやな」と同意する。「うん。楽しかったわ」
「敬助の訛りにももうすっかり慣れたし」と眞子は笑う。笑顔のまま、進行方向を見つめている。「不思議じゃない? 敬助は訛ってるのに、私はそれを訛りだとは感じてないんだよ?普段。まるで標準語かのように聞いてるし。かといって、私にふと訛りが移っちゃうことはないんだよね。不思議。これだけ聞いてたら、移りそうなもんだけどね」
「そうやな」と俺はまた同意する。「でもそれは俺もおんなじで、鷹座で四年間過ごしても訛りが抜けることはなかったさけな。そういうもんなんやろう」
「そういうもんなんやな」と言って、眞子はイタズラっぽくまた笑う。「移ったりはせんけど、意図的に訛らせることはできるよ。合っとる?この喋り方」
俺は小さく笑う。小さすぎて、呻きのようになってしまったかもしれない。「上手やな。イントネーションもバッチリやわ」
「ふふ」
俺と眞子が付き合い始めたのは二年生の夏休み前くらいだから、二年半……もう三年近くいっしょにいるわけだ。眞子は実家暮らしだけど俺のアパートの部屋に入り浸ることも多く、ごはんを作ってくれたりなどもしていて、相当な時間を共に過ごしている。嫌でも方言だって頭に入ってしまうだろう。耳にこびりつくというか。
「宇羽から鷹座に来とる学生はけっこうおるけど、社会人になってもうたら宇羽弁も貴重になるんじゃないい?」
そもそも会社だと丁寧語が基本だし。
「そうだね」眞子は何も降っていない空を仰ぐ。「でも私は、おばさんになって、おばあさんになって、死ぬそのときまで宇羽弁喋れる自信あるよ」
「自転車みたいなもんけ。一度覚えたら忘れれんてか?」
「自転車みたいなものではないよ」
「ふ。そうなんけ?」
「うん。そんなものとは、全然違う」
「…………」
眞子は俺と手を繋いだまま、それをぶんぶん元気よく振る。「夜の歩道って、なんか好き」
「あんまり先まで見通せんさけ、ずっと歩いていけそうやよな」
「やだあ!」と変な声を上げられる。
「うお、何よ?」びっくりしてしまう。
「やだ、もう。考えることがおんなじなんだもん」と眞子は苦笑する。「薄暗いまま、景色は変わるけど、変わるんだけど、なんかそれがずっと続きそうな気にならない? いろんな建物を通り過ぎるけど、それは景色でしかなくって、私達は目的地に辿り着けないの。でもそれでいいんだ。目的地なんて、別に必要ないから」
「先回りして言ってもうて悪かったな」と俺は茶化す。「ま、三年もいっしょにおったら考え方も似てくるんじゃない?」
自分で言ってて、すぐに違うと思う。いや、違うとわかっていながら俺はなんとなくそう言ってみただけだ。似てきているわけではなく、俺と眞子はもともと気が合っていたのだ。お互いが示し合わせずともお互いが気持ちよく過ごせるような、そういうことを自然とやれたのだ。価値観や考え方が同じだった……というわけでもなく、それぞれの価値観や考え方が相手を自然な形で支えて過ごさせることができたのだ。
夜の歩道は俺も好きだ。今まで明確に好きだとは思わなかったけれど、眞子に言われて、たしかにそういえば好きだなと俺も思った。だけど、夜の歩道だからって実際にはどこまでも続いたりしない。俺は眞子とここを幾度となく歩いたから、暗かろうがなんだろうがここがどの辺りなのかはっきりわかる。あと何分くらいで眞子の家に着くのかも。
夜の歩道は好きだし、芳日町の町並みも好きだし、鷹座自体好きだけど、好きだったけど、本当は今、すべてが嫌いだ。すべてが憎々しい。
俺は志望していた鷹座の企業にすべて落ちた。卒業後も鷹座で、芳日町で生活しようと、できるだけ近隣の企業にたくさんエントリーした。しかしすべてダメだった。幸いにして地元宇羽の企業で、かなり大きいところで内定をもらえたから一命を取り留めることができたが、それがなければ危険なところだった。ともあれ、俺には都会暮らしなんて無理で、田舎へ引っ込むしかないみたいだった。
眞子は鷹座の方で、実家から通えるような企業の内定を勝ち取っていた。理想的な人生の運びだ。危なげがない。
でも、だからこそ俺は、もう眞子といっしょには人生を歩めない。眞子と歩くのはこの芳日町の夜道が最後で、それももう終わろうとしている。今日は大学卒業と就寝祝いを兼ねた最後の晩餐だったのだ。
眞子の自宅に到着してしまう。いずれ挨拶に行くことになるだろうと信じて疑いもしなかった眞子の家……満井家。けっきょく眞子の両親と顔を合わせることもなかった。合わせる必要がなくなってしまった。
俺は明日から、眞子とすら他人だ。
俺はあと数日だけ芳日町に残るが、じきに宇羽県へと舞い戻るので、二人で話し合い、今日を最後としたのだ。明日から別々の人生を生きる。
満井家に近づくにつれて俺達の口数は減っていき、到着後もやはり俺は何も喋らないんだけど、眞子も眞子で家に入るでもなくどうするでもなく、繋いだままの手を繋ぎっぱなしにして立ち尽くす。
最後にキスをするだとか、最後の夜を過ごすだとか、そういうのもやらない。やらないことに決めているのだ。だから俺達はここで手を離し、それぞれの家に帰るしかない。
五分は突っ立ったままだった。五分して、眞子は「行くね」と言う。
俺も簡素に「おう」と応える。涙は出てこない。俺達は既に納得していて、とっくに泣き腫らしてもいる。鷹座の企業にすべて落ちたときも泣いたし、それによって鷹座には残れず宇羽へ帰らざるを得ないことが確定したときも泣いた。そのあとに眞子と会ったときにだって泣いた。正直、もう飽きるくらいに泣いて、涙は出尽くしたのだ。
「元気で。頑張って」と眞子は笑えていないが、笑おうとしているのはわかるので、俺はそれを笑顔として受け取る。「入社したての頃は、たぶんメチャクチャ大変だと思うけど、負けないようにね」
「眞子も」
何が『眞子も』だよと思う。もっと言いたい言葉があるはずだ。もっと言うべき言葉があるはずだ。だけど言葉をなんにも探せなくて、俺は口をもごもごさせるばかりだ。優しい言葉、励ましの言葉、惜しむ言葉、悔やむ言葉、それから恨み言……いろいろあるはずなんだけど、それらはたしかに思いとしてはあるんだけど、言葉にできない。
それでも届くだろうか? 俺が今まで眞子に対してしてきたことの積み重ねが、今このときだけでも、何もせずとも、何も言わずとも、思いとなって眞子に届いてくれないだろうか。届くといい。俺はもう何もできないし、何も言えないんだよ。
眞子は俺を見て、「うん」と頷き、笑う。ようやくちゃんと笑顔だ。「体調にだけはホントに気をつけて。無理しないように」
「眞子もな」俺は少し逡巡してから、いや、逡巡したようなフリをしてから「眞子のこと、本気で大事にしてくれる人といっしょになるんやぞ?」となんとか吐き出す。「幸せになってや。絶対に」
今度は眞子が「敬助もね」とだけ言う。「……じゃあね」
「うん」終わりだ。ここにいつまでも居たって仕方がないのだ。眞子も寒いだろう。俺は手を挙げ「じゃあ。健闘を祈るわ」と最後にふざけることで強がって見せる。
踵を返し、満井家に背を向けて、眞子に背を向けて、歩き出す。一人の帰り道。いつも、デートの帰りは眞子を送ってからアパートへ戻るようにしていたので、この流れは日常的なものだ。だけどその日常も今日までだった。ここからは、本当に一人で歩いていかないといけない。
振り返るとまだ眞子が家の前に立っていて、手を振っている。俺もまた手を挙げて、でももう振り返らないと誓って歩く。
住宅地は、大通りとは打って変わって静かで暗い。夜になると自動車だってほとんど行き交わない。だから聞こえてしまう。眞子が泣きじゃくって鼻を啜って咳き込んでいるのが、ここからでも思いきり聞こえてしまう。でももう戻れない。俺もいつの間にか泣いていて、頬には幾筋もの涙が通っていて夜風に晒されて冷たくて、両目はそれでも次々と溢れてくる涙で沈んでしまっている。涙は枯れ果てたと思っていたのに、まだこんなにも残っていて、まだまだキリがなくて行き先を霞ませる。こんな視界で歩けるはずないだろと腹が立ってしまうくらい何も見えない。
俺は眞子という女の子に慣れすぎてしまっていて、今は気付けないが、きっといずれわかる。そして後悔する。眞子みたいに、ただ自然と笑い合える、支え合える、優しくし合える、そんな女の子、もうどこにもいない。いないとわかっているはずなのに、俺は眞子しか知らなくて、女の子といったら眞子なので、代わりなんてまた見つかるはずだとも思ってしまっている。そう思うしかないし、思わないとやっていられないのだ。生きていけないのだ。こんな世界では、寂しすぎて。
本当は、何がなんでも眞子といっしょにいるべきなのだ。誰が反対しようとも、何がどうなろうとも、俺達は二人で歩んでいく道を泥臭く探すべきだったのだ。どこに住むかではない。どこで働くかでもない。誰と生きるかなのだ。誰と歩くかなのだ。俺にはそれがわからなかった。いや、わかっていたけど恐ろしくて前へ進めなかった。きっと眞子も同じだ。同じだと確信できる。なぜって、俺達はその道について、その可能性について、かたくなに一言たりとも相談し合わなかったのだから。わかっていて、だけどどうにもならないから、敢えて目を逸らしたのだ。
眞子の泣き声がどんどん遠ざかる。おそらく、もう俺から眞子は見えないし、眞子からも俺が見えていないはずだ。家々に阻まれて。
走って眞子のもとへ戻りたい。そのまま眞子をさらって宇羽へ逃げたい。眞子といっしょにいられるなら今、何をしたっていい……と心では思うが、思うだけで、思えば思うほど涙が零れるだけで、俺の足はアパートの方を向いている。俺の体は満井家から遠ざかっている。そうだ。体だけじゃない。
数日後に、俺は思い出が詰まった、慣れ親しんだアパートの部屋を空にして宇羽県へ戻る。鷹座に立ち入ることは二度とないだろうなと思う。四年間、それから眞子と知り合えた三年間、ずっと楽しすぎて、だけどそれはもうこの町にも面影としてしか残らないはずで、辛い。
宇羽県の自宅のリビングでソファに座ってぼんやりしていると、「ちょっと。泣いとるん? 大丈夫う?」と言われる。
俺はハッとなって意識を取り戻す。顔を上げる。夜道でも芳日町でも大学生と社会人との狭間でもなくて、あれから五年が経過していて、俺はもう勤めている企業のとある部署の主任だった。今日は土曜日で、なんにもしたくないからソファに鎮座しているんだった。
あの夜のことは五年経った今でも思い出す。忘れられるはずないだろう。あんなに悲しかったことは社会人になってからだってない。きっと、おじさんになって、おじいさんになって、死ぬそのときまで覚えているだろう。それは自動車の乗り方なんかとは全然違う。
「大好きやった人と別れた日のことを思い出してもうたんや」と俺は説明する。「大丈夫や。心配せんといて」
「私以外にも大好きな人おったんや?敬助。意外」
「社会人になりかけの夜、鷹座でごはんを食べて、二人で手を繋ぎながら夜道を歩いた……」と俺は語り始めようとする。
「それ私のことやん」と眞子に笑われる。「なんでそんなもんで泣いとるんやって。私はここにおるが」
「悲しい気持ちはずっと変わらんやろ」と俺は主張する。「あのとき悲しかったことは間違いないんやから」
「そりゃそうやけど……」と弱りながらも眞子だって目を赤くして鼻を啜り始めているじゃないか。「も、もらい泣き……。そんなこと言われたら、思い出すじゃん……」
「たまには思い出しねや」
「私は……今が幸せならそれでいいし」
二年。二年で俺はダメになり、眞子を訪ねて鷹座へ行った。眞子もダメになっていて、眞子は俺以上にダメで、せっかく入れた会社も辞めてしまっていた。俺よりも眞子が参るのは少し意外だったが、なんにせよ、それだったら連絡してくれればよかったのに……と思うものの、俺だってずっと連絡しなかったのだ。それは、本心に背いて別れたことに対する意地みたいなもんだったんだろう。俺はすぐさま眞子と結婚し、眞子を宇羽県へ連れてきた。
電車で二時間半。そもそもたいした距離じゃないのだ。二人で特急のめまぐるしい車窓を眺めながら、なんで別れたんだっけ?と笑い合った。簡単に会いに来れるじゃないか。だけど、時間が経って少し落ち着いたからこそそう思えたのだ。大学を出て、初めての会社勤めを前にして、これからずっと永久に責任を負っていかなければならない自分の人生を抱え込んで、俺達はいっぱいいっぱいだったのだ。
「学生の頃からやったけど、こうして改めて聞くと、輪をかけて上手くなったな、宇羽弁」と俺は改めて讃える。「地元の人みたいや」
「こっちの方が近所の人らに仲良くしてもらえそうやさけ」と眞子は得意顔で笑う。「敬助の地元、ホントにホントに田舎なんやもんなあ。最初本気でびっくりしたんやけど。私こんなとこ住むんけ?って」
「近所付き合いが面倒な田舎やわな」苦笑する。眞子の場合、来た頃はまだ精神的に不安定だったから余計に大変だったと思う。「無理せんときねや。変な人になんか言われたら俺に言うんやぞ?」
「ありがと。今は楽しいから大丈夫やよ」眞子もソファにお尻を埋め、そのまま俺の方へもたれかかってくる。「ん、敬助……」
「イチャイチャしたい」
「私も」と目を細めてから、思い出したように眞子はちょっと笑う。「イチャイチャってここの言葉やと何?」
「知らん。そんなのあるんかな?」俺は少し考えて、「ちゃんちゃんしたい、とか? 違うか」と適当なことを言う。
「ふうん?」と首を傾げた眞子が今も昔も変わらず可愛くて、俺はただただキスをする。