銀次、参る! 前編
「抜身刀の菊之丞」の続編。
前作から三年の月日が経った菊花の国。
菊花に身を置いた銀次が自らの在り方に悩み、過去に触れていく物語。
「獣」として生きてきた彼は、果たして「人」となれるのだろうか。
平屋が続く町並み、一軒の屋根の上に影があった。
全身を黒い衣服で覆い、頭も布で覆った男が眠っている。
側には数匹の猫が丸まり眠っていた。
「あ! こんな所に居た!」
声を上げたのは、梯子に登り屋根の上を覗く一人の年若い侍だ。
「まったく! 今日は公務の日だと言ってあるのに…すみませんおばさん! 直ぐ連れて行きますから!」
「いえいえお気になさらず! それよりも源蔵様、どうか気を付けてください!」
「そうですよ源蔵様! 慣れぬ梯子でそこまで上がって…言ってくだされば私が見ましたのに!」
ハシゴの下で老夫婦が若侍に声を掛ける。
「いいえ! これは弟としての務めです! 公務を忘れている兄を見付け出し、連れ戻すのが私の…」
その時、猫が一匹起きて若侍の方へ跳び、若侍が驚いた拍子に梯子が屋根から外れる。
「わっ…!」
「「源蔵様!!」」
すると若侍の着物の胸元と、飛び跳ねた猫を眠っていた筈の男が掴んだ。
「っと…危ねぇなぁ、無茶は良くないぜ? 源蔵」
猫を屋根に下ろし、被っていた布を脱いで縫い付けてある衣服に下げた男の髪が、陽の光を浴びて銀色に煌めく。
「…そう思うならこんな所に居ないでください! 兄上!」
胸倉を掴まれたままの若侍が怒鳴り、兄と呼ばれた銀髪の男は、赤い瞳をパチリと瞬かせる。
「…あ! ひょっとして時間か!?」
「そうです! 叔父上がカンカンですよ!」
「いっけねぇ忘れてた! ありがとう源蔵!」
銀髪の男は梯子を屋根に掛け、若侍の横から地面へ飛び降りる。
「悪いなおっちゃん! 昼寝させてくれてありがとな!」
「お気を付けて、銀次様」
「あ! 待ってください、兄上!」
若侍は梯子を降り、走り出した男を追い掛ける。
「ふふふ…本当に仲が良いこと!」
「ああ、全くだ…血の繋がりが無いなんて嘘みたいだな」
「源蔵様は、いつも銀次様に振り回されているなぁ」
町の人々は二人を見て微笑む。
銀次と呼ばれる銀髪の男は、身軽に通行人達を避け、時には屋根の上を飛び交いながら進んでいく。
源蔵と呼ばれる若侍は、素早い銀次を見失わないように必死で走り追い掛ける。
聳え立つ城の近くの屋敷に着き、銀次は屋敷の戸を開ける。
「ごめん親父! 遅くなっ…」
次の瞬間、飛んできた草鞋が銀次の顔面に直撃し、銀次は倒れる。
「遅い! この馬鹿息子が!」
「ッてぇ…! ごめんってぇぇ」
屋敷の中に居た男、勝島三太夫は、草鞋が直撃した鼻を押さえながら起き上がる銀次の前に腕組みをして立つ。
「どうせ手伝い終わりに眠りこけていたんだろう? 今日は何処の手伝いだ?」
「えっと…小梅の婆ちゃん家の猫が逃げたって聞いて探して届けただろ? 後、三郎爺ちゃん家の屋根が一昨日の強風で剥がれた部分があるって言うから直して、ついでに周りの家の屋根も確認して…」
「まったく…銀次、公務の日は待機していて貰えぬか? お前が皆が心配で見廻りをしてくれるのはとても助かっておるが…」
「ごめん…いまいち公務って慣れなくて…」
「兄上!」
息を切らした源蔵が屋敷に着いた。
「おお源蔵、いつも銀次のお目付けありがとう」
「いえ…結局置いて行かれてますし…」
「悪い源蔵! 大丈夫か?」
「やはり、私如きでは、元忍である兄上の素早さには敵いませんね…」
源蔵は息を整える。
「さぁ銀次、服を着替えてくれ、隣国からお越しくださった客人を出迎えねば」
「はーい!」
銀次は使用人が差し出す着物を受け取り屋敷の奥へ向かう。
「やれやれ…」
「叔父上、やはり公務なら私が…」
「そうもいかんのだ源蔵、血の繋がりは無くとも銀次は私の息子…殿の家臣として、息子には立派に勤めを果たして貰わぬと」
「それは分かりますが…」
「親父〜! これどうやって着けるんだっけ!?」
「何! またか銀次!」
三太夫も奥へ向かい、源蔵はその様子を眺めた後、外を見る。
(しかし兄上は…堅苦しい公務より、自由に空を駆けている方が似合っている)
城の大広間、座って待つ家臣達の中、三太夫の隣には着物を纏った銀次が座っている。
中央には隣国の殿に仕える家臣が座っており、三太夫の隣に座る銀次を一瞥し、派手な着物の袖で口元を覆う。
「あの者、銀次殿を睨み付けたぞ」
「あの男は勝島殿とは昔から反りが合わぬ男だからな…粗探しをしているのであろう」
他の家臣達はヒソヒソと話す。
「…久しいですなぁ勝島殿、菊花の国の君主が変わられて早三年…国は廃れておらぬようで安心しましたぞ?」
「は、三島殿…確かに新たな主君は未だ歳若くはありますが、誰よりも国を想っておいででございます」
三島と呼んだ隣国の家臣に三太夫が頭を下げて答えると、三島は銀次を見てニヤリと笑う。
「ところで…隣のその野犬は、御子息ですかな?」
目を伏せていた銀次の手が微かに揺れる。
「…野犬、でございますか?」
「近臣の息子にしては、些か獣臭いように思いますが…ちゃんと湯浴みはしておられるのでしょうか?」
三島が見下したように言い、銀次は拳を握り締める。
「彼奴、銀次殿に失礼な…!」
「勝島殿か、銀次殿を怒らせようとしているのだろう…捻くれた狸爺め!」
「そういえば、勝島殿には御子がいらっしゃらなかったなぁ…とはいえ、よりにもよってこんな野犬を養子にするなど…」
三島が銀次の侮辱を続け、三太夫の額に青筋が浮かんだその時。
「私の為に仕えてくれている者を、貶めるような発言はお控え頂きたい」
声に顔を上げると、上段の間に立つ菊丸の姿があった。
菊丸の姿を捉え、家臣達は頭を下げる。
「…これはこれは…お久しぶりでございます、お変わりありませんようで」
「そちらも、勝島殿を目の敵にするのは相変わらずのようですね」
座った菊丸は、涼しい笑顔を三島に向けて言い放った。
「そ、そんな滅相も…!」
「では、何故貴方は銀次殿に失礼な発言を繰り返すのでしょう? 彼はかつて、私をこの国まで送り届けてくれた恩人の一人…彼が居なければ、私はここに座ってはいなかったでしょう」
菊丸に微笑み掛けられ、銀次は頬をひくつかせる。
「そんな銀次殿を侮辱するということは…我が菊花の国を侮辱している、と捉えますが、構いませんか?」
「そ、それは…」
「私にとってこの国に住む者は、皆が大切な私の一部です…私の大切な者達を愚弄するとはどういうことか…努々、忘れることのなきように頼みます」
菊丸が微笑み、三島は黙り込んでしまった。
(菊丸…庇ってくれるのは嬉しいけど、やり過ぎだって…)
銀次は心の中で盛大に溜息を吐いた。
公務が終わり、勝島邸に戻った銀次は早々に着替え、床に大の字に寝転がった。
「はぁぁぁ…」
「大きな溜息ですね、兄上」
仰向けに寝転がる銀次を、たすき掛けをした源蔵が覗き込む。
「当ててみましょうか? 恐らく三島殿が兄上を悪く言って、叔父上がお怒りになる前に…菊丸様が三島殿に鶴の一声を放った、どうでしょう?」
「正解…親父が憤慨する前に入ってくれたのは助かったが、菊丸の奴も大概だよなぁ…」
「〝菊丸様〟ですよ兄上…他の家臣の方々が居る前では、気を付けてくださいね?」
「へーい」
銀次は起き上がり、たすき掛けを外す源蔵を見る。
「薪割りしてたのか?」
「ええ、風呂を沸かす分が足りなかったので」
「源蔵、そういう雑用は俺がやるって! その分鍛錬に打ち込んでくれって、いつも言ってんだろ?」
「薪割りもなかなか良い鍛錬になるのですよ、刀を真っ直ぐに振り下ろす動作に近いんです」
「けどさ、刀って素直に真っ直ぐ下ろす機会ってなくね? 隙が多いだろ? 振り下ろしてる動作の時に脇から入れられたら終わりだろ」
「それは兄上の武器が忍者刀だから出る考えなのですよ、兄上は一撃の重さより、連続の斬撃に重きを置いてしまっているんです」
「そうかなぁ?」
「また今度、お互いの剣術を学びましょう! 私も兄上のように、細かい連撃というものが出来るようになりたいです!」
二人が楽しそうに話すのを、三太夫は廊下から微笑ましく見守っていた。
夜遅く、自室の布団の中で眠っていた銀次は悪夢に魘される。
人の形をした泥が脚に絡み付き、銀次を責め立てる。
「人殺し」
「殺しておいてのうのうと生きるのか」
「お前の罪は消えない」
銀次は忍者刀で泥を斬り払うが、次から次へと絡み付く。
やがて泥より重い何かが忍者刀に突き刺さる感覚があり、銀次は振り返る。
そこには、銀次が握る忍者刀が胸に突き刺さった源蔵の姿があった。
飛び起きて、銀次は周囲を見回し、両手で顔を覆う。
「ッ…くそ…!」
銀次は立ち上がると、物音を立てずに自室を出て、足音も立てずに屋敷の縁側にやって来た。
銀次が縁側に腰掛けて月を眺めていると、深夜故になるべく小さくした足音が聞こえ、銀次は振り返った。
「あ…やはり兄上でしたか」
廊下の曲がり角から顔を覗かせたのは寝巻き姿の源蔵で、源蔵は銀次に近寄る。
「源蔵、どうした?」
「それはこちらの台詞です、お部屋から出て行かれたようでしたので、どうしたのかと心配で…」
「よく分かったな、普通の人みたいに聞こえない筈だぞ? 俺の足音は」
「聞こえなくても分かります、何となくですが…眠れないのですか?」
「…ああ…少し、気分の悪い夢を見た」
銀次が答えると、源蔵は銀次の隣に腰掛ける。
「では、私も夜更かしにお付き合いします」
「はぁ?」
「兄上が起きているなら、私も起きてます…だから…どうか、一人にならないでください」
源蔵に真っ直ぐと見つめられ、銀次は目を逸らして月を見る。
「…今日は満月だな…源蔵は、満月と三日月ならどっちが好きだ?」
「え? そうですね…やはり満月でしょうか? まん丸の月が夜空を照らすのは、見事だと思います」
「そうか…俺は、三日月の方が好きだな」
「そうなんですか?」
「ああ…欠けているからこそ、惹かれるというか…後、三日月を見ると、何かを思い出しそうな気がするんだ」
「思い出す?」
「ああ、何を思い出すのかは俺もよく分かんねぇけど…何か、ガキの頃のことのような…」
「兄上の幼少期、ですか?」
「うん…ま、そんな気がしてるだけなんだがな!」
笑って答えた銀次は再び月を見上げ、源蔵も見上げる。
暫く眺めていると、肩に重さが掛かり、見ると源蔵が、銀次の肩に寄り掛かり眠っていた。
「起きてるって自分で言った癖に…」
銀次は呆れながら源蔵の頭を撫で、ふと自分の手を見る。
一瞬、自分の手が血塗れに見え、硬く握り締めた。
「…罪は、消えない…」
翌日、銀次は菊丸から裏御殿に呼び出された。
「菊花の風車祭り?」
「はい、新しい催しです」
菊丸は手元の書物に目を通しながら答える。
「もう直ぐ国中の菊が見頃でしょう? 菊の花と風車を共に観れる行事を行いたいと思いまして」
「菊丸にしては随分、私情が入った催しだな? 風車は兄貴と菊丸の思い出の品だからだろ?」
「おや、最近は国の皆も気に入っているのですよ? 私が持ち歩いているのも有るのでしょうが…やはり、我が国の英雄の通り名ですからね」
菊丸は楽しげに笑う。
「英雄ねぇ…そんな扱いされてるって知ったら、嫌がると思うなぁ兄貴は」
「ええ、不服そうな返事を貰いましたよ」
「えっ」
菊丸が読んでいたのは手紙で、銀次に掲げて見せる。
「招待の手紙を送ったんです、勿論、左近次様と恭弥様にも」
「うっわ…手回し早いな菊丸」
「一国を背負う身としては、判断が遅くては駄目ですからね」
菊丸は悪戯っぽく笑う。
「…お前、その顔で何人か女落とせるんじゃね?」
「え?」
「お前もそろそろ嫁さん貰った方が良いぜ? 一国を背負うなら、跡取り産まなきゃなんない訳だし」
「う…分かってはいるのですが…」
菊丸が苦笑いを浮かべ、銀次は笑う。
「そういう銀次殿こそ、三太夫殿からその手のお話は出ているのでは?」
「ん? あー…何とか躱してるよ」
「興味がありませんか?」
「…俺は、子供を作るべき人間では無いと思うんだ」
「…はい?」
「親父…三太夫のおっちゃんのお陰で、父親がどんなもんかは何となく分かってきたつもりだ…でも俺は、家族が分からねぇ」
銀次は目を伏せる。
「何より俺は、沢山の人を殺してきた男だ…こんな血を、次の世代に継がせるべきじゃねぇと思ってる」
「…銀次殿…」
「勝島の血筋なら源蔵の奴が居るしな、親父には悪いが…汚れた俺の血は、俺の代で…」
「銀次殿」
強く名前を呼ばれ、見ると菊丸が凛とした表情で銀次を見つめている。
「貴方は私の家臣です…私の子が後を継いだ時には、貴方の血を継ぐ子に、側に居て欲しい」
「菊丸…」
「自分が汚れているなんて、言わないでください…三太夫殿も源蔵殿も…勿論私だって、貴方が自分を卑下することを望みません」
菊丸は優しく微笑む。
「さ! 祭りの準備に取り掛かりましょう! 皆さんから了承の返事が届いておりますから、おもてなしもきちんとしなければ!」
菊丸が意気揚々と言い、銀次は苦笑いを浮かべる。
(こういう時の菊丸って、兄貴にそっくりだよな…)
祭りの準備が始まって数日、銀次は屋根の上を駆け回っていた。
飛び降りた先に運んできた木材を置き、頼まれた届け物を抱えて再び屋根に飛び乗る。
「銀次様が居ると、準備が捗るなぁ」
「ええ、毎日のように屋根を駆け回って…」
「しかし、お疲れにならないのだろうか…」
「今度来たら、何か差し入れましょうか」
「いや、それなら源蔵様に任せよう」
「ええ、ええ、源蔵様はいつも銀次様を気に掛けておいでですからねぇ」
銀次が駆け抜ける中、源蔵が声を張り上げる。
「兄上ー! 昼餉の支度が出来ましたよー!」
源蔵の声を聞き、銀次は身軽に方向転換をして源蔵が居る勝島邸の庭へ降り立つ。
「ありがとうな、源蔵」
「兄上、ここ数日は朝から晩まで走りっぱなしではありませんか! たまにはゆっくり休んでください!」
「このくらいどうってことねぇんだが…心配してくれてありがとうな」
縁側に腰掛け、銀次は握り飯を食べる。
「うん、美味い!」
「お茶をどうぞ」
「ありがとう」
銀次がお茶を啜り、銀次の隣に腰掛けた源蔵は銀次を見つめる。
「…兄上」
「んー?」
銀次は源蔵を見る。
「兄上は、私のことをどうお思いですか?」
「…え?」
源蔵は真剣な目で銀次を見つめる。
「私は、兄として貴方のことをお慕いしております…けれど貴方は…私に、あまり心を開いていない気がします」
「そんなことは…」
源蔵の目を見て、銀次は一度口を閉じてから、再び開く。
「俺は慕われるような人間じゃない」
「え…」
「俺は咎人だ、知ってるだろう…本当なら、お前や親父の側に居るべき人間じゃない」
湯呑みを置き、銀次は立ち上がる。
「…夢を見るんだ、過去に殺した奴らに責められる夢を…お前は咎人だ、お前の罪は消えないと…そして、夢の最後ではいつも…お前や親父が、血塗れに…」
「兄上…」
「頼む、俺を兄なんて呼ばないでくれ」
銀次は源蔵に背を向けたまま、拳を握り締める。
「お前にそう呼ばれる度、俺は…俺は、消えてしまいたくなる」
源蔵は目を見開く。
「おーっ! 見付けたぞ!!」
大きな声に、銀次と源蔵が驚き見ると、左近次が立っていた。
「えっおっさん!?」
「久しいのぉ銀の字!」
駆け寄った左近次は銀次を抱え上げくるくると回る。
「のわっ!? 何で居んだよ!? 祭りはまだ先なのに!」
「何か手伝えればと思ってな! 儂らにも出来ることがあるだろうと!」
「儂らって…」
「邪魔をする」
声に見れば、恭弥が妻のはなと娘のうたを連れて立っていた。
「恭弥!?」
「久しいな、銀次…元気そうだな」
「そっちこそ!」
左近次が銀次を下ろし、はなに手を引かれるうたに気付いた銀次は、うたの側に近付きしゃがむ。
「ひょっとしてこの子…」
「うただ、大きくなっただろう?」
「うたちゃん!? 子供って三年でこんなに大きくなるの!?」
「ああ、俺も驚いている」
恭弥が笑みを溢し、銀次はうたに笑い掛ける。
「初めましてうたちゃん! つっても赤ちゃんの時に一度会ってるけど…俺は銀次、うたちゃんの父ちゃんの友達だ!」
「…ぎん?」
「銀次だ、うた」
「良いって恭弥! ぎんで良いぜうたちゃん! よろしくな!」
うたが源蔵を見上げ、銀次は源蔵の隣に立つ。
「こっちは源蔵! 俺の…」
「弟です!」
見ると、源蔵は眉間を寄せ悔しそうに目を伏せている。
「あ…」
「…銀の字、喧嘩でもしたのか?」
「いやぁ…あはは…」
銀次は気まずそうに頭を掻き、ハッとする。
「あっ! 二人が居るってことはまさか…!」
「ん? おお、当然来てるぞ?」
「早々に弟の所へ向かったがな」
「やっぱり!? そりゃまずい!」
「何?」
「源蔵! 俺ちょっと行ってくる!」
「えっ兄上!」
銀次は屋根に飛び乗って駆けていく。
「どうしたんだあいつ?」
「ぎん、はやい!」
「そうね、速いわね」
はながうたに笑い掛け、恭弥は源蔵を見つめる。
裏御殿、銀次は菊丸の自室の襖を勢い良く開けた。
「兄貴!!」
「ん? おお、銀次か!」
そこには座る菊丸と、菊丸の腿に頭を乗せて寝転がりながら酒を煽る菊之丞の姿があった。
「ちょっ! 一国の主に膝枕させるとか!」
「久々に会って硬いこと言うなよ銀次、菊丸の了承済みだぜ?」
「菊丸! 兄貴を甘やかすな!」
「すみません…この三年の間に取り組み始めたお酒の味見を頼んだのですが、随分と気分が高揚してしまったようで…」
苦笑いを浮かべつつ、菊丸は菊之丞の頭を撫でる。
「兄貴! あんたと菊丸の関係は知らない奴が殆どなんだから勝手なことすんなよ! 俺や親父以外の奴に見付かったら、菊丸が実は男色家だったとか妙な噂立つかもだろ!?」
「えっ!?」
「大袈裟だなぁ銀次は」
菊之丞は起き上がり、手に持つぐい呑みを菊丸に差し出す。
菊丸がぐい呑みに酒を注ぎ、菊之丞は満足げに酒を飲む。
「しかし美味い酒だなぁ、菊花の国は米が美味いが、まさかそれで酒を造るとは、考えたな菊丸!」
「菊之丞様、実はお酒の発案をしたのは、銀次殿なのですよ」
「え、銀次が?」
「ちょっ! 菊丸!」
「食事の席でふと溢されたのです、それを家臣の一人である桐生殿が面白いと、瞬く間に話を進めて…もう少し手を加えて、他国で売る手筈です」
銀次が止めるのを聞かずに、菊丸は自慢げに話す。
「ほー、銀次が発案か…お前、案外上手くやってるじゃねぇか」
「んなの偶然だっての! 偶々、桐生殿が拾ってくれただけで…」
「かーっ! 〝殿〟だって! あの銀次が面白い呼び方をしやがる!」
「揶揄うなよ兄貴!」
銀次は顔を赤く染め、菊丸が持つ酒器を取り上げる。
「タダ酒飲みに来た訳じゃないだろ! 親父に言って兄貴にしか出来ない仕事、して貰うからな!」
「はぁ!? 俺は客だろう!?」
「恭弥と左近次のおっさんは手伝ってくれるって! ほら行くぞ兄貴! 先ずは頭から水ぶっ掛けて、酔い覚ましてやる!」
「ちょっ! 銀次ぃ!」
銀次は菊之丞の着物の襟を掴み、引き摺って出ていく。
二人を見送り、菊丸は楽しげに笑った。
「せっかく菊丸と水入らずだったのによぉ…」
菊之丞は頭の後ろで手を組み、不満げに銀次の隣を歩く。
「菊丸…様だって暇じゃねぇんだ、兄貴に構ってばかり居られないんだっての!」
「お前まだ慣れてないんだな、無理してねぇか?」
「な、慣れてないけど、頑張ってるんだよ!」
「おお、銀次殿!」
一人の家臣が銀次を見付けて声を掛ける。
「これこれは、桐生殿」
「お、この人が…」
「おや、お客人か?」
「紹介致します、桐生殿…こちらは菊之丞殿です」
「初めまして、菊之丞と申します」
「菊之丞…もしや、〝風車の菊之丞〟その人でございますか!?」
桐生と呼ばれた家臣は菊之丞を見て驚く。
「お噂は予々聞いております! 菊丸様を菊花の国まで送り届け、菊丸様が危機に頻せば、たとえ火の中水の中! 颯爽と駆け付けお助けしてくださる武人だと!」
「銀次、何か話がでかくなってねぇか?」
「まぁ、噂話ってそんなもんだから…」
「申し遅れました! 私は桐生辰造と申します! 一年ほど前に父の後を継ぎ、現在は菊丸様に仕える家臣の一人でございます!」
「ああ、話は聞いてるぜ…あんたが造った酒も飲ませて貰った、いやー美味かった!」
菊之丞の言葉に、桐生は目を輝かせる。
「これは嬉しいお言葉だ…何を隠そう、銀次殿がぽろりと溢した一言のお陰! これ程上手く行くとは私も思わず、銀次殿には頭が上がりません!」
「桐生殿! 俺は大したことは…!」
「またまたご謙遜を! 菊之丞様、銀次殿の活躍は是非、国の人々にお聞きを! 皆、彼に助けられておるのです!」
「あーもう! 桐生殿! 菊丸様の命により、菊之丞殿を我が勝島邸にお連れせねばなりませんので、これにて!」
「おお! そうでございましたか! これは失礼を! では祭りが始まった時にまた!」
桐生が頭を下げて去り、銀次はしゃがみ込んで溜息を吐く。
「はぁ…疲れる…」
「大丈夫か?」
「あんまり…他人にここまで気を遣ったこと無いから、やり方が分かんなくてさ…」
「ま、これは慣れてくしかねぇわな」
菊之丞が銀次に手を差し出し、銀次はその手を握り立ち上がる。
二人の様子を、源蔵が離れた場所から見ていた。
勝島邸、夕餉の席で酒を飲み気分が高揚している左近次が言った。
「ですから祭りの日は、是非儂にも大道芸を披露させていただきたい! 刃を潰した長槍の大立ち回りをお見せしよう! なかなか好評なのですぞ?」
「それは面白い、左近次殿の槍の扱いは実に見事ですからな」
「恭弥はどうするんだ?」
「俺は舞を…はなの三味線に合わせてだ」
「ああ、お前の剣技は舞みたいだもんな…それはまた見栄えが良さそうだ」
銀次は隣で静かに食事をする源蔵を盗み見る。
「菊之丞、お前はどうする?」
「俺は銀次と源蔵と共に菊丸の護衛だ」
「兄貴、護衛なら俺達だけで…」
「んな気にすんなって! 菊丸の様子を見る口実にもなるしな! あいつが無理してたら支えてやりてぇからよ」
「…ご馳走様です」
源蔵は箸を置き、膳を持って立ち上がる。
「何だ源蔵、もう良いのか?」
「はい…私は先に休ませていただきます、どうぞお楽しみください」
源蔵が部屋を出ていき、銀次は後を追う。
「待てよ、源蔵!」
銀次に呼び止められ、源蔵は振り返る。
「いつもより食ってないだろ? それに、いつもなら飯の時は話し掛けてきて…具合が悪いのか?」
「…何ともありません…どうぞ私のことはお気になさらず、菊之丞様達と楽しんでください」
「源蔵…」
源蔵は微笑んだ後、目を伏せる。
「…すみません…皆さんの仲が良さそうな様子を見ていると、少し居心地が…」
「え…」
「…兄上は私の前で…あんなに、気を許した顔はされたことがありません…お気付きでしたか?」
銀次は息を呑み、源蔵は去る。
「…」
銀次は俯き、菊之丞達は様子を見ていた。
「あー…ありゃ結構まずいな」
「だろう? どうにか出来んか菊の字」
「そう言われてもなぁ…俺は兄弟喧嘩なんてしたことねぇし…」
「…三太夫殿」
恭弥は三太夫に声を掛ける。
「明日、俺と菊之丞に西の国境の様子を見て来て欲しいとの依頼だったな」
「え? ええ…何やら近頃、彼方の方では野伏だ何だと物騒な噂が絶えませんので…」
「その依頼、銀次と源蔵の同行を許して貰えるか」
「恭弥?」
「同じ仕事を全うして、二人の蟠りを解く…どうだろうか?」
三太夫は複雑そうに微笑む。
「菊之丞殿、ご迷惑でなければ同行させてやってください」
「おっさん…」
「源蔵は、私の死んだ弟の忘れ形見です…あの子は我慢強く、滅多に我儘を言わない子で…少し、心の距離を感じておりました」
三太夫は目を伏せる。
「しかし…銀次を息子と迎え入れてから、源蔵は銀次を兄と慕い、銀次には我儘を言ったりして…そんな姿を見れて、私は本当に嬉しくて…二人にはこれからも、仲良く過ごして欲しいのです」
「三太夫殿…」
「…分かった、二人のことは任せてくれ」
菊之丞は頷く。
「大丈夫か? 菊の字」
「銀次も慣れない環境に気が立ってるしな、少し面倒を見てやりたい」
「ありがとうございます、菊之丞殿」
「気にすんなおっさん…あんたの息子二人、この菊之丞が預かった」
菊之丞の言葉に三太夫は目を見開き、照れくさそうに笑った。
翌日、菊之丞は恭弥、銀次、源蔵と共に西の国境へ向かって歩いていた。
「兄貴、この先にある川辺は岩場が滑りやすい、気を付けてくれ」
「分かった、ありがとな銀次」
川辺に着き、菊之丞と恭弥は岩場を降りる。
「…わっ!」
源蔵が足を滑らせ、銀次が受け止める。
「っと…大丈夫か?」
「は、はい…すみません…」
源蔵が目を伏せ、銀次は源蔵を離し頭を掻く。
(これは…思ったより難しいかもな…)
「源蔵、髪に葉が…」
恭弥が源蔵の髪に着いた木の葉を取ろうと手を伸ばすと、銀次が恭弥の腕を掴んだ。
「!」
「…あ…えっと、ごめん…?」
恭弥の腕を離し、銀次は首を傾げる。
「心配せずとも、お前の弟を傷付けたりはしない」
「あ、うん…恭弥がそんなことしないとは分かってる筈なんだけど…ごめんな?」
「いや、気にするな」
菊之丞は銀次を静かに見つめる。
国境に着き、源蔵が地図を開く。
「ここが件の国境ですね…ここを越えて北に向かうと、〝死児間の谷〟という危険な谷があるそうです」
「しじま?」
「はい、死児間の谷…そこではかつて、忌み子とされた子供が、高い崖の上から川へと投げ捨てられていたと言われています」
「…何と恐ろしく、悍ましい場所だ」
恭弥は眉間を寄せ、銀次は頭を押さえる。
「銀次、どうした?」
「…死児間の谷…?」
頭に痛みが走り、銀次は目を瞑る。
「銀次?」
「大丈夫か?」
「ッ…ごめん、急に頭が…」
銀次は痛みを振り払うように頭を振る。
その時、菊之丞と恭弥は口を閉じ、周囲を見回した。
「お二人とも?」
「…恭弥…」
「ああ…構えろ、銀次」
菊之丞と恭弥は刀を抜く
次の瞬間、四人に向かって四方から複数の苦無が飛んできて、菊之丞と恭弥は即座に斬り捨てた。
「兄上!!」
源蔵の声に見ると、源蔵を庇い忍者刀を振るった銀次の肩に苦無が一本刺さっていた。
「「銀次!」」
「ッ…ごめん…油断した…!」
「兄上! すみません、私のせいで…!」
「大丈夫…源蔵は怪我無いか?」
「はい…!」
風が強く吹き、数人の忍達が現れ四人を囲む。
「忍…」
「…こいつら…三年前の奴らだ!」
苦無を抜いた銀次が言うと、かつて銀次と刃を交わした忍の頭領、寅次が現れた。
「久しいな白狼…怠けた生活故に、腕が鈍ったのではあるまいか?」
「てめぇ…!」
「なるほど…この辺りの物騒な噂はお前らのことか」
「かつての戦に負けた残党が…俺達に斬られに来たか」
菊之丞と恭弥は刀を構え直す。
「ふん…貴様らに用は無い…儂が用があるのは…」
寅次がゆっくりと、銀次を指差す。
「貴様だ、白狼」
「俺…?」
次の瞬間、寅次が銀次の懐目掛けて飛び込み刀を突き立てた。
「銀次!!」
「ッ…ぎぃぃ…!」
銀次はギリギリで忍者刀で攻撃を防いでおり、そのまま後方の林へと吹き飛ぶ。
寅次は一度着地し、地面を蹴ると銀次を追って林へ入る。
「兄上!」
「銀次を引き離す気か…!」
「恭弥! 先ずはこいつらを蹴散らす! 源蔵! 刀を構えろ!」
「はい!」
林の中、起き上がった銀次の前に寅次が立つ。
「暫くは邪魔も入らんだろう…貴様に話がある、白狼」
「その呼び方止めろ! 俺はもう獣じゃねぇ! それにお前の手下なんて、兄貴達の相手にならねぇよ!」
「うむ、奴らは所詮時間稼ぎの駒にしかならんだろうな、分かっておる」
「は…?」
「我が忍の里も、随分と荒んでしまったものよ…かつては闇夜を駆ける獣と恐れられた我が一族が、今では儂の後継に相応しい者が一人も居らぬ、使えぬ駒の集まりだ」
寅次の言葉を聞き、銀次は頭を押さえる。
《儂の後継に相応しい者が一人も居らぬ…》
(…知ってる…今の言葉…何処で聞いた…?)
「儂の後継に相応しかったのは唯一人…儂の実子の中で生き残った龍次のみであった」
寅次は頭巾を取り、銀次を見る。
「儂と同じ髪、同じ目を持った…虎を越えて龍となった神童よ」
寅次は真っ白な髪に赤い瞳をしており、銀次は目を見開く。
《出来損ないは、斬り捨てる》
脳裏に目の前の寅次と良く似た男の姿が過り、銀次はその場に膝を着き頭を抱える。
(何だこれ…! 頭が、痛い…!)
「龍次は本当に素晴らしい殺戮兵器だった、儂の後を継ぎ、我ら忍の時代を創り上げることも可能だっただろう…しかし、奴は変わった…息子が産まれてな」
寅次は銀次を見つめ、にんまりと不気味に笑う。
「見れば見る程、良く似ている…貴様はまるで龍次の生き写しだ、白狼」
「ッ…何を、言って…」
「己の出生を知りたくはないか?」
銀次は寅次を睨み付ける。
「貴様の父の名は、龍次…儂の息子だった男…つまり貴様は…儂の孫だ」
「…は…」
頭に割れそうな程の激痛を感じ、銀次は叫び声を上げる。
「ッぁぁあああッ!!」
《出来損ないは要らん、子供を捨てろ龍次》
《この子に手を出すな…殺すぞ!》
力強い腕に抱えられ、林の中を駆け抜けていく感覚。
《ごめんな、ごめんな銀次! こんな血生臭い家の子にしちまって…俺なんかの子にしちまって!》
幼い銀次は自分を抱える人物を見上げる。
《銀次…》
銀次を抱える人物の口元が動き、銀次に何かを伝える。
「ああ…ああぁぁッ!!」
「くくく…まさかあの出来損ないが! 生き延び続けておるとは! こいつは傑作だ!」
頭の痛みに苦しみ叫ぶ銀次を見下ろし、寅次は楽しげに笑う。
「しかもその出来損ないは、今や我が一族で誰よりも忍の技を継いでおる! お前こそ儂の後継に相応しいぞ、銀次!」
高らかに笑う寅次の後ろ、刀を振り被った源蔵が斬り掛かるが、寅次は素早く躱す。
「チッ…」
「兄上!!」
源蔵は銀次に駆け寄る。
「兄上! どうされたのですか!? 兄上!」
「ぁぁぁぁ…!」
源蔵が声を掛けるが、銀次は苦しげな声を漏らすのみだ。
「邪魔をするな小僧…戦の匂いもせぬ青二才に用は無い」
「貴様…兄上に何を!?」
源蔵が刀を構え、寅次は笑う。
「兄だと…? くくくっ! 何と愚かな小僧だ! 獣を兄などと!」
「何…?」
「よく聞け小僧…お前が兄と呼ぶ其奴は、儂の血縁だ…儂の孫だ」
源蔵は目を見開く。
「其奴には、儂と同じ人殺しの穢れた血が流れておるのだ…貴様らのような人も斬ったことがない者共とは違う! 其奴はこの儂の後を継ぎ、忍の世を創り上げるのだ!」
寅次は声高らかに言う。
「…兄上…銀次殿が、お前の…」
源蔵は一度銀次を見た後、刀を握り直し、寅次を睨み付けた。
「それが、どうした!?」
「…何…?」
「貴様の血を継いでいるから何だ…穢れた血だと? ふざけるな! 兄上を侮辱することは私が許さない! 失せろ下郎が!!」
源蔵が怒鳴り、寅次の顔から表情が抜ける。
「…呆れた…貴様もあの老耄と同じか」
寅次の身体が微かに揺れたと認識した瞬間、寅次の姿が消える。
次の瞬間、源蔵の左腕が飛んだ。
「…え…?」
源蔵の左腕が地面に落ち、源蔵は斬られた左腕の傷口を押さえて倒れる。
「ッ…ぅ…ぐああぁぁッ!!」
「あ…ぁぁ…ぁぁあ…!」
源蔵が痛みに悲鳴を上げ、銀次は這って源蔵に近付く。
「源蔵…源蔵!」
「貴様のせいだ、銀次」
銀次が顔を上げると、寅次が銀次を見下ろしていた。
「貴様がくだらぬ夢を見るから…この餓鬼は今、侍の夢を絶たれたのだ」
銀次は目を見開く。
(…俺の、せい…?)
「せめてもの救いだ…楽にしてやろうぞ」
寅次は刀を振り翳す。
しかし菊之丞と恭弥が斬り掛かり、寅次は跳んで二人の攻撃を躱した。
「チッ」
「てめぇ! くそ忍者!!」
菊之丞と恭弥から距離を取り、寅次は銀次を見て笑う。
「死児間の谷で待っておるぞ、銀次…貴様には残されておらぬのだ…儂の後を継ぐ以外の道はな」
風が強く吹き、寅次の姿が消える。
「菊之丞! 源蔵が!」
「源蔵!」
菊之丞は懐から取り出した手拭いを使い、源蔵の左腕の止血を行う。
左腕を失い血塗れの源蔵を見て、銀次は青褪める。
《兄上は忍として、私は侍として…共に菊花の国を守っていきましょう!》
(俺のせい…俺のせいで、源蔵が…)
過呼吸を起こし始めた銀次を、恭弥が抱き締める。
「深く吐け、無理に吸うな…呼吸を整えろ」
恭弥が懸命に声を掛ける間も、銀次は源蔵から目を離せなかった。
勝島邸、布団に横たわる源蔵の看護の為、使用人達がバタバタと走り回る。
「銀次が、あの忍の血筋だと!?」
部屋の端で、左近次は菊之丞達の話を聞き驚く。
「ああ、銀次が話してくれた」
「銀次も奴から聞かされたらしく、酷く混乱していた」
「そりゃあそうだ…あいつは親に捨てられたって話だろう? それが突然、血縁など…」
恭弥は廊下を歩いてきた三太夫に気付き、三太夫の前に立ち頭を下げる。
「三太夫殿、源蔵の怪我は俺のせいだ、申し訳ない」
「恭弥殿…」
「いや、俺のせいだおっさん…預かっておきながら、守りきれなかった」
菊之丞も三太夫に頭を下げる。
「どうか顔をお上げください、お二人は銀次達を連れて戻って来てくれました…それで十分です」
「三太夫殿…」
左近次は、三太夫が持つ盆の上に乗せられたお茶と握り飯を見る。
「旦那、もしやそれは、銀次の?」
「ええ、戻って来てからまだ、一度も食事を口にしていないので…お腹を空かせているのではと…」
お辞儀をして、三太夫は銀次の部屋へ向かう。
「…菊之丞、銀次はどうすると思う」
「恐らく、奴の狙いは銀次を誘き出すこと…ここに居るべきじゃないと銀次に思わせ、国を出るように仕向けたんだろう」
「銀次は国の者としての務めで元々疲弊していた、そこへ此度の追い討ち…張り詰められた糸が、いつ切れてもおかしくないぞ」
「ああ…糸が切れた時…銀次は儂達も知らぬ、怪物になってしまうかもしれん」
恭弥と左近次が心配そうにする中、菊之丞は二人の肩を叩く。
「ま、大丈夫だろ! 俺は菊丸の所戻るわ」
「え、菊の字!?」
菊之丞は屋敷を出ていく。
「あいつ、こんな時に呑気な…!」
「…菊之丞は、いつも甘いが…場合によっては、ああして手を差し伸べるのを止めていたな」
「ん? そう言われれば、そんな気が…」
「…恐らくこれは…銀次自身で乗り越えねばならない問題なのだろう」
深夜、忍装束姿の銀次は自室で忍者刀を眺めていた。
「…」
忍者刀を鞘に納め、腰に携えると、銀次は音を立てずに自室を出た。
屋敷の外に出て、銀次は門に目を向けて驚く。
「…やはり、黙って行く気でしたか」
そこには源蔵が立っていた。
「源蔵…お前何して…!」
「それはこちらの台詞です! こんな夜中に抜け出して…死児間の谷に向かう気なのでしょう?」
「…お前には、関係無い」
出て行こうとする銀次の前に、源蔵は立ちはだかる。
「退け」
「退きません、どうしても行くと言うのなら…私も同行します」
「…はぁ?」
「私も腹が立っているのです、腕を斬り落とされ、勝ち誇った顔をした奴に、一矢報いてやりたいのです!」
「お前…片腕を失ったんだぞ? その身体で国境を越える距離…無茶に決まってんだろ!」
「では、銀次殿が私を背負って、連れて行ってください」
「お前なぁ!」
「置いて行くのなら、今この場で大声を出しましょう…今夜は左近次殿がお泊まりです、直ぐにお気付き頂けるかと」
源蔵がニヤリと笑い、銀次は舌打ちを打つ。
「お前…」
「…奴と決着を付けて、戻らないつもりなのでしょう?」
源蔵は真っ直ぐと銀次を見る。
「奴との決着がどのような結果になろうと…貴方はもう二度と、私や叔父上の前には現れない…そういうおつもりでしょう?」
「…」
「私は、叔父上から貴方のお目付けを命じられています…全てが終われば、引き摺ってでも貴方をここへ連れ戻します」
源蔵がハッキリと言い、銀次は頭を掻き毟った。
「分かった、勝手にしろ! 後でおっちゃんに叱られても知らねぇからな?」
「叱られる時は一緒にですよ、兄上」
源蔵が笑って言い、銀次は溜息を吐く。
後編へ続く




