抜身刀の菊之丞 後編
襲い来る野武士や刺客を斬り捨てて進み、一行は夜の森の中へと辿り着いた。
「今夜はここで野宿だな…菊丸達の寝床を用意する、左近次、火を頼めるか」
「おぅ、任せろ!」
一行は荷物を下ろし、左近次が焚火の準備をして、菊之丞と恭弥が菊丸と三太夫の寝床を用意する。
「さ、菊丸、おっさん」
「ありがとうございます、菊之丞様、恭弥様」
菊丸が二人に礼を言う中、三太夫は自分の羽織を脱ぎ、周囲を確認していた銀次に差し出した。
「銀次殿、今宵は些か冷える…寝床が用意出来なかった代わりに、どうか使って欲しい」
「大丈夫だよおっちゃん、野宿に関しちゃ俺や兄貴達の方が慣れてる、おっちゃんこそ慣れてないんだろうから、風邪引かねぇように羽織っておきな」
「しかし…」
「いいからいいから! ここに来る途中で川が見えた、飲めるか確認してくる!」
銀次は笑って走り去る。
「三太夫の旦那は、何かと銀次を気に掛けておるな」
「ええ…」
左近次と菊丸が話す横で、菊之丞が銀次を追い掛けようとすると恭弥が止め、恭弥が銀次を追い、左近次が菊之丞の隣に立つ。
「ここは恭弥に任せろ、菊の字」
「左近次…」
「こういう時はな、案外不仲な奴の方が、本音を引き出せるものよ」
川の側、しゃがみ込む銀次の後ろに恭弥が現れる。
「んー…飲めなくはねぇけど、あまり綺麗ではないな、菊丸と三太夫のおっちゃんには合わねぇかも」
「…獣が一丁前に、悩み事か」
恭弥の言葉を聞き、銀次は立ち上がり振り向く。
「はぁ? 俺が悩んでるって? 隠居生活で目が悪くなったのかよ、恭弥!」
「俺は菊之丞のように甘くはない…俺の前では、偽る必要は無いぞ」
銀次は恭弥を見つめ、いつも笑みを浮かべていた口元が歪み、顔を背けてしゃがみ込む。
「…なぁ恭弥…自分の子って、可愛いもんか?」
「何?」
「俺は…俺は忍の生まれだから、可愛がられたことなんか無かった…道具として育てられて、けど出来損ないだって捨てられた…俺には、親の愛ってもんが分からない」
恭弥は静かに銀次を見つめる。
「…左近次のおっさんから逃げた時にさ、三太夫のおっちゃんと二人きりになったんだ」
走って来た銀次は後ろを確認し、息を切らす三太夫の背中を摩る。
「走らせてごめんな、おっちゃん! 大丈夫か?」
「え、ええ…こちらこそ、こんな老体と逃げることになってしまい…」
「いやいや! 左近次のおっさんはどうも苦手でさぁ、俺も兄貴もつい逃げるのが癖になってて! ごめんな?」
銀次は茶屋を見付け、三太夫を座らせるとお茶と団子を注文した。
「俺の奢りだ、少し休もう」
「いや、金なら私が!」
「このくらいの金なら持ってるから大丈夫だよ! おっちゃんは息を整えることに専念してくれ」
「すみません…お優しいですな、銀次殿は」
「そんなんじゃねぇよ、俺は人間の限界が感覚的に分かるからさ、おっちゃんが相当疲れてるのも分かるだけだ」
お茶と団子が運ばれ、銀次は団子を食べる。
「うん! 美味い! 女将さん! 美味しいよ!」
「ありがとうございます」
「銀次殿は、いつも美味しそうに食べますね」
「そう?」
お茶を一口飲み、三太夫は銀次を見る。
「つかぬことを聞くが、銀次殿は坊ちゃんと私を国へ送り届けた後、何処か行くあてはあるのだろうか?」
「俺? 別に無いよ? 帰る家は無いし、その日暮らしをしてきたからさ」
「…ならば国に着いたら、私の家で暮らさんか?」
三太夫の提案を聞き、驚いた銀次は喉に団子を詰まらせる。
「ッ…!」
「銀次殿!?」
胸を叩きながらお茶を飲み干し、団子を飲み込んだ銀次は咳き込む。
「ゴホッゴホッ! あーびっくりした…!」
「驚かせてしまったようだな、申し訳ない」
「本当だぜおっちゃん! そういう冗談は良くないぜ?」
「いや、冗談ではなく、本気で申しておる」
三太夫は背筋を正し、銀次に向かい合う。
「銀次殿…この旅が終わったら、私の息子として、共に生きてくれぬか?」
「…息子?」
「私は、子供が作れぬ身体でな…数年前に妻を病気で亡くし、今は寂しい人生を過ごしている…しかしこの旅で銀次殿と出会い、共に過ごして来て思うのだ…息子が居たら、このようなものなのだろうかと」
三太夫は両手で銀次の手を握る。
「飯と寝床を心配する必要は無い、私が用意しよう…どうだろうか?」
「どうって…言われても…」
「あ…そうだな! 突然このようなことを言われても困るだろう! しかし、私は本気だ…国まではまだまだ距離がある…それまでに、考えてみてはくれぬだろうか?」
銀次は三太夫に握られた手を見つめる。
「…あ! 銀次殿!」
三太夫は銀次の背後に立つ左近次に気付き、手を離して声を上げた。
「…誰かにあんな風に言われたの、初めてで…作り慣れたはずの笑顔が、作れなかった…」
銀次は川の水面を見つめて話す。
「…なぁ恭弥、兄貴が〝折れちまった〟日のこと、覚えてるか?」
「…ああ」
「あの時、兄貴言ってたよな…「俺は侍じゃない、ただの人殺しだ」って…俺はあれを聞いた時、何を分かり切ってることを言ってるんだろうって思ってた」
銀次は自分の両手を見つめる。
「…けどあの時…三太夫のおっちゃんに手を握られた時…自分の手が、とんでもなく汚いと思ったんだ…この手は、殺した奴らの血で汚れてる」
銀次は両手を川に入れる。
「洗っても洗っても…この汚れは、こびり着いちまってちっとも取れねぇ…こんな俺が、どうやっておっちゃんの隣で生きればいいんだ?」
銀次は怯えた表情で恭弥を見上げる。
「おっちゃんの言葉は、心底嬉しかった…俺のことを本気で考えてくれてるんだって分かったから…けど…俺が側に居たら、あの人を穢しちまうんじゃねぇかな…!?」
「…出会ったばかりのお前は、まるで獣のようだった」
恭弥は銀次の隣に立つ。
「本能のままに人を殺し、その時その時を生きていて、危険に怯みもしない…そんなお前が恐ろしい故に、嫌っていた」
「…なるほどな…今なら、お前の態度に納得出来るよ」
「だが、今のお前は嫌いではない」
恭弥は銀次を真っ直ぐ見つめる。
「今のお前は…人に見えるぞ」
恭弥の言葉に、銀次は目を伏せた。
焚火の側、菊之丞が仮眠を取る横で、菊丸と三太夫は左近次の話を聞いていた。
「ほぉ! 左近次殿には、ご子息が三人も居られたのか!」
「ええ、しかし先の大戦で、皆命を落としましてな…その後出会った菊之丞達が丁度息子達と同じ歳の頃で…故に、父親風を吹かせている次第です」
「そのようなことがあったのですね…」
「父親…私は生憎、子供には恵まれませんでしたので…銀次殿に、強引な手を使ってしまい申し訳ない」
「三太夫の旦那、よもや貴殿は、銀次を息子として迎えるおつもりか?」
「え、本当ですか、三太夫殿?」
「ええ、お話は持ち掛けました…銀次殿を見ていると、息子を持つのも良いものではと思わせてくれるのです! なので旅が終われば、共に暮らさないかと…」
「そのお気持ちは、銀次が咎人であろうと変わらぬか?」
左近次は真剣な目で三太夫を見つめる。
「え?」
「三太夫殿…儂らは人を大勢殺した、その罪を背負う咎人だ…大戦に勝ち、英雄扱いをされはするが…どれだけ良く言われようと、儂らは所詮は人殺しなのです」
「左近次様、そのような悲しいことを…」
「菊之丞が、侍を名乗らぬ理由をお聞きには?」
左近次に訊ねられ、菊丸は首を横に振る。
「…菊之丞は、とても強い男だった…此奴が居らねば、あの戦は勝てなかったと言っても過言ではない…しかしそんな菊之丞は、一度心が折れてしまっている」
「心が?」
「…戦の終結が近かった時の出来事だ…布で顔を隠した兵士と戦い、菊之丞は其奴を斬り、顔の布を剥いだ…何を見たと思う?」
菊丸と三太夫は顔を見合わせる。
「…弟の面影を持つ、男の顔だ」
「え…?」
「長く離れていたから、気付かなかったのも仕方がなかろう…菊之丞は、何よりも大切だった弟を手に掛けてしまったのだ…あの時の菊之丞の取り乱しようは、今も脳裏を離れない…泣き叫び、弟であろう男の血が付いた刀を自らの手で拭い…掌が切れて血が流れようと、拭い続けていた」
左近次は菊之丞を見る。
「…その後の菊之丞は…まるで廃人だった」
「廃人…」
「それから直ぐに戦は終わりを迎えたので、儂らだけで終わらせることが出来たがな…菊之丞は手当を受けた両手を見つめ、静かに言った…自分は侍ではない、ただの人殺しだと」
菊之丞の側には、抜身の刀が置かれている。
「かつて、此奴に剣術を教えた侍が言っていたそうです…「刀は侍の誇りだ、己が刃を鞘に納めることで、我らは獣ではなく侍であれる」と…故に菊之丞は自分の刀を持つことをやめ…他者から奪い、鞘を捨てた抜身刀で戦うのです」
左近次の話を聞き、菊丸は涙を流す。
「菊丸様?」
「若…?」
「ッ…私はッ…私は、愚か者だ! 菊之丞様に、あまりにも無責任なことを言ってしまった…! 彼の過去も知らずに…!」
「…菊丸様、どうか顔を上げられよ」
俯いて嗚咽を漏らす菊丸の肩に、左近次が触れる。
「菊丸様、儂は貴殿に感謝を述べたい」
「ッ…え…?」
「久しぶりに会った菊之丞の顔は別人のようだった…菊之丞の目は、かつての侍の目をしていたのだ…貴殿との出会いが、菊之丞に何か変化を齎してくれたのやもしれん」
「そんな…私は、半ば強引に菊之丞様に護衛をして貰っているだけで…!」
「菊丸様…どうか菊之丞を、よろしく頼む」
左近次は菊丸に頭を下げる。
「左近次様…」
「菊之丞は今、かつての菊之丞に戻ろうとしている…その為には貴殿の存在が不可欠だ! どうか…どうか、菊之丞を支えてやって欲しい!」
「止めろ、左近次」
菊之丞は立ち上がり、左近次を見る。
「余計なお節介だ…これ以上は、本気で怒るぞ」
「…分かった」
「菊之丞様…」
「寝ろ、菊丸…明日には国境だ、きちんと備えろ」
菊之丞が去り、菊丸は懐から風車を取り出して見つめる。
数日後、菊花の国の国境近くの集落に着き、菊之丞は三太夫を見る。
「三太夫のおっさん、もう直ぐ国境だが、俺達はどこまで行けばいい?」
「少し待たれよ…おおい! お連れしたぞ!」
三太夫が声を上げると、集落から人々が現れた。
「勝島殿だ…」
「勝島殿が戻られたぞ!」
「菊丸様は見付かったのか?」
三太夫は菊丸の背を押す。
「待たせたな、皆の者…この方こそ、菊花の国の後継者である菊丸様だ!」
三太夫の言葉を聞き、人々は喜びの声を上げた。
「菊丸様がお着きになった!」
「よくぞご無事で!」
「これで国は安泰だぁ!」
「有難いことだ! 有難いことだぁ…!」
人々は菊丸に頭を下げ、一人の若い侍が三太夫に声を掛ける。
「叔父上」
「おお、源蔵! お前も無事であったか!」
「はい、この通りに」
「皆様、ご紹介しましょう、こちらは私の甥の源蔵です」
「勝島源蔵と申します、菊丸様と叔父上をここまで護衛していただき、感謝致します」
源蔵と呼ばれた侍が頭を下げ、銀次は源蔵を上から下まで眺める。
「三太夫のおっさん、あんた勝島って言うのか」
「ええ…勝島三太夫、先代の殿に仕えていた家臣の一人にございます」
「叔父上は殿からの信頼も厚く、いわば腹心と呼ばれるお方でした」
「良さないか源蔵、かつての話だ」
「いいえ叔父上、我々は貴方が直接菊丸様を迎えに行かれると言い出した時は、肝が冷えたものです」
銀次は左近次の袖を引く。
「なぁなぁ、腹心って?」
「あ? ああ…殿様に心底信頼されてたってことだよ、三太夫の旦那は、それだけ人望のあるお方だったというわけだ」
「菊丸様がお着きになった今、国の安泰へとまた一歩近付いた…皆の者、菊丸様を無事、国までお連れするぞ!」
「「「おぉ!」」」
人々が声を上げる中、源蔵は菊之丞達を見る。
「お力添えに感謝致します、旅の方々…ここからは、我らにお任せ頂きたい」
「…何?」
「え、源蔵殿?」
「ここからは国の者としての務め…菊丸様は、我らが無事に菊花の城へとお連れ致します…報酬は用意してあります」
源蔵が言うと、数人の村人が菊之丞達に銭袋を差し出す。
「源蔵! 何を!?」
「叔父上、菊丸様の兄君達は、国外の人間である野武士を雇っております…彼らには申し訳ないが、国民が彼らを恐れるやも知れません」
「しかし!」
「分かった、俺達は此処でお役御免だ」
菊之丞は銭袋を受け取る。
「菊之丞様!?」
「菊の字」
「菊之丞」
「兄貴…」
「仕方がねぇさ、国の連中からすれば、俺達も野武士と同じ余所者だ…遠ざけるのは当然だろうよ」
菊之丞が背を向け、恭弥と左近次も銭袋を受け取る。
「恭弥様! 左近次様!」
「菊之丞が此処までだと言うならば、それに従おう」
「…銀の字」
左近次に呼ばれた銀次は、差し出された銭袋を押し返す。
「俺はいいや…無駄遣いするのが目に見えてるからさ!」
「銀次殿!」
三太夫が銀次の前に立つ。
「銀次殿…考えて頂けただろうか?」
「…ああ…忘れてた! 俺としては無しだわ、無し! 一つの場所に留まるなんてガラじゃねぇよ! ごめんな!」
銀次が背を向け、三太夫は俯く。
「菊之丞様!」
菊丸は菊之丞の袖を引く。
「菊之丞様…私は…私は…!」
「菊丸」
菊之丞は振り向くと、懐にしまっていた赤色の風車を取り出し、菊丸に差し出した。
菊丸が風車を受け取り、菊之丞は微笑む。
「…達者でな、菊丸」
一言告げて菊之丞が歩き出し、銀次達も菊之丞に続いた。
「ッ…」
菊丸はその場に膝を着き、嗚咽を漏らす。
集落から外れた林の中、菊之丞達は足を止めた。
「…呆気ない終わりだったな…お前ら、これからどうするんだ?」
「俺は、はなの元へ帰る」
「儂は大道芸をしながら旅を続けるつもりだ! これが案外、面白くてな!」
「俺は取り敢えず、今夜の寝床でも探そうかなぁ」
銀次が頭の後ろで手を組んで言うと、恭弥が銀次の隣に立った。
「怖くなったか、情けない」
「…は…?」
「先代の腹心だったと聞いて怖気付いたのだろう、だから三太夫殿の話を断った」
「恭の字! 蒸し返してやるな!」
左近次が諌めるが、恭弥は銀次の胸倉を掴む。
「身分が違いすぎて怖くなったか、腰抜けめ」
「恭弥!」
「…じゃあ…どうすりゃあ良かったんだよ…」
弱々しい声で呟き、銀次は恭弥の腕を掴む。
「あの人は…あの人はお天道様の下で生きる人だろ…俺はその逆…闇の中でしか生きられねぇんだよ…どう頑張ったって! あの人の隣なんて歩けねぇだろうよ!」
恭弥の手を外し、銀次はその場に崩れ落ちる。
「ッ…兄貴の言葉の意味が、今なら分かる…分かりたくなんてなかった…! こんな苦しい思いするくらいなら…獣のままで居たかった!」
銀次が嗚咽を漏らし、菊之丞は銀次に駆け寄って両肩を掴み、顔を上げさせる。
「銀次、こっちを見ろ…俺を見るんだ!」
銀次は菊之丞を見る。
「辛いよな、苦しいよな…陽の下に出るのは、自分の穢れを晒すようで怖いよな…! 俺だって怖い…!」
「…兄貴…」
「けどな、銀次…お前は後悔しないでくれ! 俺と同じ過ちは犯すな…自分の心の声を、しっかり聞いてやってくれ…!」
「…心の…声…?」
「菊之丞!」
恭弥が指差した先、集落から火の手が上がるのが見えた。
「集落が、燃えてる!?」
「敵の攻撃か…! 菊丸に気付かれている!」
「菊丸…!」
菊之丞は集落へと駆け出す。
「菊之丞!」
「菊の字!」
「兄貴ぃ!」
集落で火の手が上がり、人々は逃げ惑っていた。
逃げ惑う人の中で、源蔵が菊丸に駆け寄る。
「もう敵の手が…! 菊丸様! ご無事ですか!?」
「私は無事です! 三太夫殿は!?」
「叔父上も無事です!」
人々の悲鳴が聞こえる中、菊丸は風車を握り締める。
「皆さん! 慌てないで! 燃えている家屋に人が居ないか確かめ、鎮火に努めましょう! 怪我を負った者はなるべく安全な場所へ! 手当をしてください!」
「菊丸様…!」
「諦めてはなりません! 我らの故郷は…我らの国は、もう目の前です!」
菊丸が人々を鼓舞し、人々は建物の鎮火の為に駆け回る。
「源蔵殿! 三太夫殿が忍の者に!」
「何だって!? 叔父上!」
数人の忍が三太夫を拘束し、その側に忍の頭領である寅次が刀を抜いて立つ。
「先代の隠し子をこちらに渡せ、さもなくば、この老人の命は無い」
「三太夫殿!」
「若! こいつの口車に乗ってはいけない! 私は大丈夫です!」
「ふん、強がりおって…流石は咎人を息子になどと言った老耄だ、肝が据わっている」
三太夫は寅次を見る。
「白狼の銀次…彼奴は飯と寝床さえ与えれば、躊躇なく人を殺める殺戮人形よ…獣どころか獣以下、実に便利な道具だ」
「…獣以下…?」
源蔵は刀を抜き構える。
「…その発言、取り消せ…」
「何?」
「あの子は道具でも獣でもない…一人の人の子だ! 侮辱は許さんぞ!」
三太夫が声を荒げ、寅次は三太夫を蹴り倒す。
「ぐっ!」
「三太夫殿!」
「叔父上! 貴様ぁ!」
「くだらぬ意地を張りおって…先程の見ていたぞ老耄、彼奴は結局貴様から逃げたではないか、そんな奴を何故庇う?」
「ッ…あの子は…愛され方を知らぬのだ…私が怯えさせてしまった…」
三太夫は身体を起こす。
「旅の間、あの子は何度も私の身体を気遣ってくれていた…性根は優しい子なのだ…! 貴様らなどには分かるまい!」
「何度でも言ってやろう! 忍である以上、彼奴も咎人だ…貴様がどれだけ彼奴を買い被ろうと、人殺しの業が彼奴には伸し掛かる! 彼奴はもう堕ちた魂だ…そんな奴を庇って何になる!?」
「あの子が堕ちるのならば! 私も共に堕ちよう!」
三太夫は寅次を睨み付ける。
「あの子の業を、私も共に背負おうではないか! あの子が陽の光を恐れるならば、私が代わりにあの子を照らそう…あの子が己が業に押し潰されそうになれば、私がそっと支えよう…! 生半可な覚悟で、人の人生を預かれるか!!」
「…どこまで行っても哀れな男だ…死ねぇ!」
「三太夫殿!」
「叔父上!」
寅次が刀を振り被る。
三太夫の前に飛び出した銀次が、寅次が振り下ろした刀を忍者刀で受け止めた。
「!?」
「銀次殿!?」
「ごめん…ごめんなおっちゃん!」
寅次を振り払い、銀次は三太夫を背後に庇いながら忍達を遠ざける。
「俺、おっちゃんに一緒に暮らそうって言われて、初めて自分の手の汚さに気付いた…こんな手でおっちゃんに触れちゃいけねぇ、穢しちゃいけねぇって思って! だから…おっちゃんを突っ撥ねた…」
「銀次殿…」
「けど…おっちゃんはこんな俺の手でも、握っててくれるって言うのか…」
銀次は三太夫を見る。
「こんな俺でも…人として、見てくれるのか?」
「…当たり前だ…銀次殿…いや、銀次…お前は私の息子だ、血の繋がりなど無くとも、どれだけお前の手が汚れていようと…私はお前を、息子と呼ぶぞ」
三太夫は銀次に優しく微笑み掛けた。
「何をくだらねぇことをベラベラと!」
「白狼の銀次を討ち取れば、俺らの名も上がるかもな!」
「その馬鹿な老耄と共に、死に晒せぇ!!」
忍達が二人に斬り掛かるが、銀次が目にも止まらぬ速さで忍達を斬り捨てた。
「速い…! 流石は白狼というわけか!」
「違う…白狼の銀次は…獣は、もう居ねぇ」
立ち上がった銀次は寅次に向き直り、忍者刀を構える。
「俺は勝島三太夫の息子…勝島銀次だ! いざ、参る!!」
銀次と寅次の刀が交わる。
「源蔵! おっちゃ…親父は俺が守る! 菊丸を連れて逃げろ!!」
「銀次殿…!」
「…承知しました…頼みましたよ、兄上! 参りましょう、菊丸様!」
源蔵は菊丸の手を引いて走り出す。
「愚かな…貴様ごときが私に勝てるとでも?」
「勝ってやるよ! 俺はもう迷わねぇ! 元々うじうじ考えるのなんて性に合わねぇんだよ! 俺を息子と呼んでくれる人が居るなら…俺はその人の為に生きるぜ!」
銀次は寅次に向かって行く。
源蔵は菊丸を連れて走る。
「早く! こちらへ!」
しかし野武士が現れて二人を囲み、一人の武士が現れる。
「往生際が悪いですなぁ…此方は手練れが大勢ですが、其方はまともに戦えるのは貴方ぐらいだ…その上、貴方…その歳では、戦場を知らぬでしょう?」
「貴様…何者だ!?」
「おっと…これは名乗り遅れました…某の名は鬼沢鉄平…隠し子殿、貴殿には人質になって貰いたい」
「人質?」
「ええ…貴殿を人質に取ればあの男…菊之丞が必ず現れる筈だ」
「菊之丞様を知っているのですか?」
「ええ、勿論…あの男は大戦で、某に唯一、傷を負わせた男だ」
鉄平は頬の傷を撫で、楽しそうに笑う。
「あの男との斬り合いはまさに命の削り合い…いやぁ愉しかったものだぁ! しかし上の命令で、敵陣の士気を下げろと言われましてなぁ…某は奴の弱点を調べ、そこを突いた」
「弱点…?」
「あの男に、生き別れの弟が居ることはご存知か? 幼くして別れたならば、今の弟の顔は分かるまい…だから適当な若者を当てがい、奴に斬らせた」
菊丸は目を見開く。
「いやぁ! 弟を斬ったと思い込んだ奴の取り乱しようは傑作でしたなぁ!? 子供のように泣き喚き、刀に付いた血を拭い落とそうと必死で! 笑いが止まりませんでしたよ!」
「貴方が…貴方があの人の心を!」
「しかし、その後の奴が廃人のようになってしまったのは残念だった…某はまだまだ、奴と殺し合いがしたかったというのに」
「ッ…貴方は、獣だ…!」
「何とでも宣ってください、某にとって、命の削り合いは最も生を感じる行為なのですよ…相手が強ければ強い程、某の魂が震えるのです」
鉄平は刀を抜く。
「しかし、菊之丞を超える強者には未だ出会えずでしてなぁ…この暫くの間、旅をする貴殿達の動向は部下に偵察させていました…菊之丞は今、かつての侍の姿を取り戻そうとしている! 某に傷を負わせ、勝ち逃げしたあの頃にねぇ! そのきっかけは…どうやら貴殿のようだ、隠し子殿」
「菊丸様! お逃げを!」
源蔵が鉄平に斬り掛かるが、鉄平は源蔵を容易く躱し源蔵の左肩を斬り付ける。
「ぐあっ!」
「源蔵殿!!」
「さぁ、大人しくして貰いましょうか…ああ、ですが抵抗してくれても構いませんよ? 傷付けられた貴殿を見て、菊之丞がどうするか…見ものだなぁ」
野武士達に壁際へと追いやられ、菊丸は腰の刀を掴む。
「おっと! 戦いますか? 面白い!」
刀の柄を握り直し、抜こうとした瞬間、菊丸は懐に入れていた、菊之丞から受け取った赤色の風車に気付く。
《お前は人を斬るな》
《根から優しいお前の手に、血の色は似合わねぇ…誰かの命を奪うなんざ、して欲しくねぇ》
《お前がその刀を振るうことが無かったこと…俺は、心の底から良かったと思ってる》
刀の柄から手を離し、菊丸は風車を取り出す。
《腰抜けだと、笑いませんか?》
《笑わねぇ、お前はそれで良いんだ…人を傷付けるのが心底嫌いで、皆に幸せになって欲しいと願う優しいお前は…その綺麗な手のまま、綺麗な国を作ってくれ》
菊丸は刀を鞘に納めたまま腰から抜き、地面に置き座った。
「…どういうおつもりで?」
「私は、誰も斬りません…言われたのです、綺麗な国を作ってくれと」
菊丸は、鉄平を真っ直ぐと見る。
「私は…菊花の国を継ぎ、生まれ変わらせる! 貴様の策になど乗らぬぞ! 侍の誇りを持たぬ獣よ!」
「菊丸様…!」
「…愚かなお方だ…構わん、抵抗出来ないようにしろ」
野武士達が刀を抜き構え、菊丸は真っ直ぐと前を見据える。
《その代わり、お前やお前の国に手を出そうとする輩が現れたら…》
野武士が菊丸に斬り掛かろうとしたその時、雄叫びを上げた菊之丞が抜身刀で野武士達を斬り捨て、菊丸の前に立った。
《俺が何処からでも駆け付ける、俺がお前の代わりに刀を振るう》
「無事か、菊丸!」
「菊之丞様!」
「来たか…菊之丞!」
菊之丞は鉄平を睨み付ける。
「菊丸! 刀は抜いたか!?」
「…いいえ」
「人を斬ったか!?」
「…いいえ!」
「…よし…それで良い!」
菊之丞が刀を構える。
怪我を負った源蔵を左近次が手当し、肩を貸して立ち上がらせる。
「菊の字! こっちは生きてるぞ!」
「左近次様!」
「左近次! 銀次の方頼んだ!」
「おうよぉ! 任せなぁ!」
左近次が源蔵を運んでいき、恭弥が菊之丞の隣に現れる。
「菊之丞」
「恭弥…菊丸を頼む」
「…承知した」
「菊之丞様!」
恭弥は菊丸の腕を引き走り去る。
「くくく…再び戦える日を楽しみにしていたぞ…菊之丞!」
「…悪いが、俺はお前なんざ知らねぇ…とっとと終わらせるぞ」
菊之丞と鉄平は向かい合う。
「そうだろうなぁ…あの頃の貴様は、目の前の敵など見てはいなかった…いつも遠くを見つめて、何かを探し求めていた…ああ、哀れだなぁ菊之丞…弟を斬ったと思い込み、侍であることを辞めたお前が、今更、侍の真似事か!」
鉄平は笑い声を上げる。
「良いことを教えてやろう、菊之丞…貴様が斬ったのは弟ではない…某が適当に選んだ駒だ、それにまんまと嵌まりおって!」
「…知ってたさ」
菊之丞が静かに告げ、鉄平の笑みが消える。
「…何…?」
「あれが弟じゃねぇことぐらい分かってた…あいつは虫も殺せない程に優しい奴だった…戦場に居る筈がねぇ」
「知っていただと…? では、お前のあの取り乱しようは何だったのだ!」
「…気付いちまったのさ…己の業に」
菊之丞は自分の手を見つめる。
「…弟を連れ戻すと、その為ならどんなこともしてやると思って駆け抜けて来た…けれど立ち止まったあの時、自分の手を…赤黒い血に染まった手を見て、気付いちまった…俺はもう…あいつに触れることは出来ねぇと…こんな手じゃあ、あいつの頭を撫でてやることも出来ねぇ…抱き締めてやることも出来ねぇ! 俺は…俺はただの人殺しだ」
「…それが、貴様が折れた真の理由か」
「ああ…元から侍のつもりなんざ無かったが、己の業に気付いてからは、刀を鞘に納める気にはならなかった…俺は獣と同じだ…獣が牙や爪を隠すか?」
鉄平は菊之丞を見つめる。
「…つまらん…堕ちたものよな菊之丞…貴様はただの獣か…獣の貴様を斬るなど、何の面白みも無い!」
「何とでも言え…お前が菊丸に…菊丸の国に刃を向けるなら、俺はお前を斬るまでだ!」
「ほざけ獣風情がぁ!!」
菊之丞と鉄平の斬り合いが始まる。
二人の刀が交わる音が響き、二人は傷を負っていく。
何度も刀を交え、先に膝を着いたのは菊之丞だった。
「弱い…弱いぞ菊之丞! 今の貴様は最早抜け殻だ、獣ですらない! こんな腕で、よくもまぁあの小僧を護るなどと抜かしたものだ!」
「…俺だって…こんなことになるつもりは無かったさ…けどあいつが…菊丸が! 俺の目を侍の目だと言いやがった!」
菊之丞は刀を支えにして立ち上がる。
「本当に馬鹿な奴だ…正直者で、無鉄砲で無垢で…だから俺なんかを、侍だと思ってやがる」
「ふん…確かに馬鹿な小僧だ!」
「けどなぁ! そんなあいつが、俺を侍だと言ったんだ! 俺は…あいつの思いに応えなきゃならねぇ!」
菊之丞は再び刀を構える。
「あいつが俺を侍と呼ぶならば、俺は偽りでも侍になる…侍として! お前を斬る!」
「菊之丞ぉ!!」
再び刀が数度交わり、鉄平が菊之丞を蹴り飛ばし、菊之丞は刀を落とす。
鉄平が菊之丞に向けて振り被り、振り下ろした刀を、菊之丞の前に出た菊丸が鞘に納めたままの刀で受け止めた。
「菊丸!」
「貴様ぁ!」
「ッ…菊之丞さん! 斬って!」
菊之丞は菊丸が持つ鞘から刀を抜き、鉄平を斬り付けた。
「がっ…!」
深傷を負いながら鉄平が再び刀を振り被るが、菊之丞が素早くもう一撃を入れた。
鉄平が倒れ、菊之丞も倒れそうになると、菊丸が菊之丞を抱き止めた。
「菊之丞さん!」
「菊丸…お前…」
支え切れず、菊丸は菊之丞を抱き締めたまま両膝を着く。
「菊之丞さん…ありがとう…!」
「菊丸…」
「貴方のお陰で、私は故郷に戻って来れた…あの日、貴方に出会えたから…私は今、ここに居る!」
菊丸は菊之丞を強く抱き締める。
「今度は私の番です…約束します…平和で、貴方に綺麗だと思って貰える国を、必ず作ります!」
「…そうか…」
菊之丞はゆっくりと右手を上げ、菊丸の背中に回した。
その後、菊之丞達を引き連れた菊丸は菊花の国の城へと辿り着き、新たな殿になることを誓った。
腹違いの兄達は国を追放され、雇われていた野武士達も、菊之丞達により追い出された。
忍達もいつの間にか姿を消し、銀次が対峙した頭領の寅次は、不穏な笑みを溢してから去っていった。
多くの者が傷付いた心と身体を癒し、再び、菊花の国が動き出す時が来た。
城と国が見渡せる丘の上、左近次と恭弥が銀次を挟んで立っており、左近次は綺麗な着物に身を包む銀次を指差して大笑いをしていた。
「なっはっはっはっ! 何だ銀の字! お前全然似合わんなぁ!」
「うるせぇよおっさん! 似合ってねぇことは俺が一番知ってるっての!」
「馬子にも衣装という言葉があるが、お前の場合は、猿に烏帽子だな」
「んだとてめぇ!」
恭弥に掴み掛かろうとする銀次を左近次が襟を掴んで止めていると、三太夫と源蔵が現れる。
「兄上、新しいお召し物はいかがですか?」
「ああ…落ち着かねぇけど、悪くはない」
「それは良かった、叔父上が兄上に着せるからと仕立て直させた物ですから」
「あ、それからさ、源蔵…その兄上って呼び方、やめてくれねぇかな?」
銀次の頼みに、源蔵はきょとんとする。
「え、何故ですか? 銀次殿は叔父上の息子となられたのですから、私にとっては兄上ではありませんか」
「あーそれがなんかこそばゆいんだって!」
「銀次の奴、三太夫の旦那と源蔵殿の勢いに押されているな」
左近次が楽しそうに恭弥に話し、恭弥は銀次を見る。
「銀次」
「何だよ!」
銀次が振り向き、恭弥は微笑む。
「お前と、漸く対等になれた気がする」
「…笑った…恭弥が笑った!?」
銀次は恭弥を指差して驚く。
「えっ俺に笑い掛けた!? いっつも仏頂面で俺のこと睨み付けてた恭弥が!?」
「案外根に持つ男だな…いずれ、はなとうたを連れてこの国を訪れる、その時までに案内が出来るように、国のことを知っておけ」
「お…おぅ! 任せとけ!」
「こうして見ると、恭弥殿と銀次は案外、仲がよろしいですな」
左近次の隣に立った三太夫は、二人を見て微笑ましそうに言う。
「そういえば、菊の字と菊丸様は?」
「彼方で話しておいでですよ、話したいことが山程あるかと思い、二人きりにしてあげようと思いまして」
「ああ、なるほど」
四人から少し離れた場所、綺麗な着物に身を包んだ菊丸と、鞘付きの刀を腰に携えた菊之丞は丘からの景色を眺めていた。
「美しい国だなぁ…」
「三太夫殿の話では、時期になると、菊の花が沢山咲くそうですよ」
「なるほど、だから菊花の国か」
菊之丞と菊丸は向き合い、菊丸は頭を下げる。
「菊之丞さん…本当に…本当に、ありがとうございました」
「…大変なのはここからだぜ、菊丸…お前は国の主として、やらなきゃならねぇことが沢山あるんだ! 生半可な覚悟じゃ出来ねぇ…ちゃんと、覚悟は決まってるのか?」
「勿論です…平和な国を築きます、私の人生を賭けて」
「困った時は呼べよ、必ず駆け付ける」
「はい!」
菊丸が真っ直ぐな目で答え、菊之丞は頷く。
「それにしても菊之丞さん…本当に報酬がそれだけでよろしいのですか?」
菊丸が指差す、菊之丞が腰に差した刀は、橙色の鞘に納まっている。
「ん? ああ」
「私が護身用として持っていた物でしょう? 国の腕の良い刀鍛冶の方に打ち直して頂きましたから、斬れ味に問題は無いと思いますが…やはり、新しく造られた方が…」
「いいや、これで良い…こいつが良いんだ」
菊之丞は刀の柄を撫でる。
「…でも菊之丞さん…鞘付きの刀を持ってしまったら、もう「抜身刀の菊之丞」とは呼ばれませんね?」
「あ? どうでもいいってのそんなの、周りが勝手に呼んでただけで…」
「となるとやはり、新しい呼び名が必要ですよね…」
「って聞けよ!」
菊丸は考える仕草をした後、思い付いたように菊之丞の胸元を指差す。
「「風車の菊之丞」なんてどうでしょう? ほら、刺青もありますし!」
「雑だな! 思いつきにも程があんだろ!」
菊丸が楽しそうに笑い、菊之丞は背を向ける。
「…菊之丞さん!」
声を上げ、菊丸は深呼吸をする。
「…私は…私は、本当は!」
「菊丸」
振り向いた菊之丞は菊丸に向き直り、菊丸の手を取ると、懐から取り出した、橙色の風車を握らせる。
風車を見てから顔を上げた菊丸の頭を、菊之丞は優しく撫でた。
「…達者で暮らせ…立派な男になれよ」
菊之丞が真っ直ぐと見つめ、菊丸は頷く。
「…菊之丞さんも…どうか、元気で」
菊丸の言葉に菊之丞は頷き、再び背を向け、今度こそ歩き出した。
「おいおい、待てよ菊の字! 菊丸様、銀次、皆さん、どうかお達者で! 菊の字〜!」
走ってきた左近次は、菊丸や三太夫達に頭を下げてから菊之丞を追い掛ける。
恭弥は菊丸の横に立つ。
「かつての非礼を詫びよう…良き君主となれ」
「…はい」
恭弥も去っていき、菊丸は三人に向けて頭を下げた。
顔を上げた菊丸の横に、今度は銀次が立つ。
「菊丸、言わなくていいのか? 何なら俺が、兄貴を連れ戻して…」
「いいえ、銀次殿…あの人は、分かってくれています」
銀次に笑って答え、菊丸は風車を指で回す。
菊之丞は橙色の風車に息を吹き掛けて回しながら歩き、左近次は菊之丞に訊ねる。
「菊の字、何ならお前さん、国に残っても良かったんじゃねぇか?」
「俺も左近次と同じ意見だ、菊丸もお前を快く受け入れよう」
「…馬鹿言え、俺は人斬りだ…弟が夢の国を造る邪魔なんざ出来るかよ」
「何だぁ!? 気付いとったのかお前さん!」
左近次が前に回り込み、菊之丞は遠くなった菊花の国を見る。
「当たり前だろ、弟が分からねぇ兄貴が居るかよ」
「お前らしいな…いつから気付いていたんだ?」
「…弟は風車が大好きでなぁ…俺が何度、これは息を吹き掛けて回すと教えても…いつもこうやって、指でゆっくり回すんだ」
菊之丞は、風車を指でゆっくりと回す。
「…それで? これからどうする?」
「そうさなぁ…また、旅でも始めるかぁ」
菊之丞は風車を腰に差し、刀の鞘に触れる。
「そういや菊の字、それは菊丸様の刀だな? お前が鞘付きの刀を持つとは面白い!」
「ああ…こればっかりは、無くす訳にはいかねぇな」
三人が向かい合い、互いに頭を下げ、恭弥と左近次が別方向へと走り去る。
かつて、一つの国があった。
年若い君主が治めるその国は争いが無く、民が身分を気にせず助け合う、平和で美しい国だった。
その国に脅威が迫ると、四人の戦人が現れ、幾度と国を救った。
忍の技を持つ、君主の腹心の息子。
長槍を振り回し、敵を薙ぎ倒す怪力の槍兵。
舞うように刀を振るい、静かに敵を斬り刻む剣士。
中でも一際強さを放っていたのは、自らを侍崩れと名乗る男だった。
両の掌に深い傷を刻み、向かい来る敵を瞬く間に斬り捨てる強さを持つ男。
腰に刀と風車を差す男は、人々から「風車の菊之丞」と呼ばれた。
終




