抜身刀の菊之丞 前編
自らを侍崩れと名乗る、一人の男が居た。
両の掌に深い傷を刻み、向かい来る敵を瞬く間に斬り捨てる強さを持つ男。
胸元に風車の刺青を入れ、抜身刀を持つ男を人は、「抜身刀の菊之丞」と呼ぶ。
ある町の中、人々が行き交う中、一人の青年は周囲を見回しながら歩いていた。
「坊ちゃん! お待ちを、坊ちゃん!」
青年に追い付いた男は息を切らし、背中の荷物を背負い直す。
「お一人になられてはなりませぬ! いつどこから賊が狙ってくるか…!」
「声が大きいですよ、三太夫殿」
青年が言うと、三太夫と呼ばれた男は口を押さえる。
「しかし坊ちゃん、何故おかしな噂がある侍を探すのです? 「抜身刀を持ち歩き、胸元に風車の刺青がある侍崩れ」など…きっと恐ろしい人斬りに違いありません! ここは、真っ当な侍を雇うべきです!」
「いいえ三太夫殿、私はその方にお願いしたいのです…噂ではこの町に居るそうです、探しましょう」
「坊ちゃん!」
青年が顔を覆うように被る襟巻きを直していると、一人の浪人が青年とぶつかった。
「ッ」
「おい坊主! おめぇどこに目ぇ付けてやがるんだぁ?」
浪人が青年達に詰め寄ると、仲間の浪人達が二人を囲んだ。
「失礼、余所見をしていました…以後、気を付けます」
「何だお前? どっかのお坊ちゃんか?」
「謝れば済むと思ってんのかぁ?」
「なかなか良いなりしてんなぁ…なぁ坊主、銭を恵んでくれねぇか?」
ぶつかった浪人は青年に詰め寄る。
「はい?」
「ぶつかった詫びとして金置いてけって言ってんだよ!」
「そんな! 何と無礼な…! 坊ちゃん、聞く必要はありません! 参りましょう!」
「おいおい! 勝手なこと抜かすなよこのジジィが!」
青年を連れてその場を去ろうとした三太夫の襟首を仲間の浪人が掴み、引っ張った拍子に三太夫が転ぶ。
「わぁっ!」
「三太夫殿!」
青年は三太夫に駆け寄り、三太夫を転ばせた浪人を見る。
「謝ってください」
「はぁ?」
「先ほどぶつかったのは私の不注意だ、しかし貴方が三太夫殿を転ばせたのはわざとでしょう! 謝罪を求める!」
「けっ! このガキ偉そうに!」
「構うか、身ぐるみ剥いでその辺に捨て置くぞ!」
「坊ちゃん!」
浪人達が刀を抜き、青年と三太夫は身を寄せ合い浪人達を見る。
その時、浪人の一人に足元がおぼつかない男がぶつかった。
「イテッ!」
「おっと…これは失敬! 邪魔をした」
黒髪を後頭部で緩く結い、赤と白の着流し姿の男は浪人に謝り、左手に持っていた酒器を傾け酒を煽る。
「てめぇ! どこ見て歩いてやがる!」
「いやぁすまんすまん! どうもこの酒で悪酔いしてしまったようで、ご覧の通り足元がおぼつかん! どうか勘弁して欲しい」
「何をぅ!?」
そこで浪人は、男が右手に抜身の刀を握っていることに気付く。
「何だお前? 鞘も無しに刀を持ち歩いてるのか?」
「ん? これか? これは拾い物で俺の物ではない、鞘も見当たらなくてな」
青年は男を見つめる。
「おい、そんな酔っ払い放っといて、このガキ共から金巻き上げんぞ!」
「おぅ!」
「ひぃぃっ!」
浪人達が再び二人を囲もうとすると、男は浪人の肩を掴んだ。
「なぁ旦那、少し前から見ていたが…ぶつかったのはあんたからだったろう?」
「何…?」
「居るんだよなぁ、金目の物を持ってそうな弱者に自らぶつかり、脅して金銭を奪う侍崩れが…戦も無いこの時代、仕える主君も居ない連中はやることがみみっちぃなぁ?」
「何だとてめぇ!」
「酔っ払いが! サッサとどっか行け!」
肩を掴まれた浪人が男を突き飛ばそうとすると、男は瞬時に浪人の背後に立ち、首元に刀の刃を当てる。
「「「!」」」
「ひぃっ!」
「まったく…弱者を虐めて強者の侍気取りか…反吐が出るな、貴様ら」
男は他の浪人達を鋭く睨み付け、捕まえていた浪人の背を蹴飛ばした。
「うおっ!」
「舐めた真似を…構わねぇ、叩っ斬るぞ!」
浪人達が刀を構えると、男は刀と酒器を地面に置く。
「どういうつもりだ!?」
「貴様らに刀など必要ない、素手で十分だ」
「てめぇっ!!」
浪人達が男に向かっていく。
男は一人目の攻撃を躱すと、二人目の浪人の鳩尾に拳を入れ、倒れるとすかさず三人目の浪人の首に手刀を入れ気絶させる。
仲間の二人が倒れ、最初に攻撃を躱された浪人は男に睨まれ、短く悲鳴を上げて逃げ去った。
「つ、強い…」
「…はっ! 弱い奴ほど良く吠えるとはこのことだ」
男が酒器を拾い上げ、青年は立ち上がり男に向かい合うと頭を下げた。
「ありがとうございます! お陰で助かりました!」
「あ? 誰だお前さん?」
「えっ…あの、今助けていただいて…」
「助ける? 俺がお前を? 馬鹿も休み休み言え兄ちゃん! 俺はただの酔いどれだ、売られた喧嘩を買ったまで! 人助けなんざガラじゃないんだよ」
「それでも、助けられたのは事実です…ありがとうございました」
青年を一瞥し、男は酒を煽る。
その際に、男の胸元に風車の刺青が見え、青年は目を見開く。
「風車の刺青…もしや…もしや貴方様は、菊之丞様ではありませんか?」
「…あ? 何で俺の名前なんか知ってる?」
「坊ちゃん! まさかこの方が?」
「間違いありません…この方が、抜身刀の菊之丞様です!」
青年が三太夫に答え、菊之丞と呼ばれた男は首を傾げる。
青年は顔を隠していた襟巻きを解き、癖のある髪を撫で直しながら菊之丞に向き合う。
「菊之丞様! 私は菊丸と申します…貴方にお頼みしたいことがあり、行方を探しておりました!」
「いけません坊ちゃん! よくご覧ください! この方は飲んだくれですよ!? とても坊ちゃんをお守り出来るとは思えません!」
「何だ、頼みとは護衛か?」
「はい! 菊花の国まで、私の護衛をお願いしたいのです!」
菊丸と名乗った青年が再び頭を下げるが、菊之丞は酒を煽りながらその横を通り過ぎた。
「あの、菊之丞様?」
「他を当たれ兄ちゃん…それから、もう少し汚れた格好をした方が良い…小綺麗なせいで、こいつらみたいな金目当ての連中が寄り付きやすいからな」
菊之丞は背を向けたまま菊丸に忠告をし、そのまま去っていった。
「あ…」
「坊ちゃん! やはりあんな酔っ払い頼りになりません! ちゃんとした侍を探しましょう!」
「しかし三太夫殿…」
三太夫を見た菊丸は、菊之丞が置いていった刀に気付く。
「あの方、刀をお忘れに…菊之丞様! お待ちください!」
「坊ちゃん!」
菊丸が刀を持って走り出し、三太夫は菊丸を追い掛ける。
ある飲み屋、菊之丞は飲み屋の娘に店の外へ追い出された。
「いい加減にしなこの穀潰し! いつまで経ってもツケも払わず飲み食いしやがって!」
「ってぇなぁ…良いじゃねぇか、おみつ! 俺とお前ら親子の仲だろう?」
「確かにあんたには店に押し入りがやって来た時に助けられたさ…けど、あんまりツケにされちゃあ商売にならないのさ! かつての腕を使って、稼ぎでもしたらどうだい?」
「けっ! 嫌なこった! 俺はもう、侍はやめたんだよ」
菊之丞は追い出された拍子に転んでいたが、起き上がらずに寝転がる。
「何を偉そうに! 他に稼ぐ術なんてないだろう?」
そこへ菊丸と三太夫が現れ、菊丸は菊之丞に気付く。
「とにかく金が無いなら出す酒は無いよ、きちんとツケ払うまで、うちの店には入れないからね!」
「なっ! おみつ!」
「あの!」
菊丸が声を上げ、二人に駆け寄る。
「兄ちゃん、さっきの…」
「菊之丞様、刀をお忘れでしたので」
刀を菊之丞の側に置き、菊丸はおみつと向かい合う。
「店員さん、菊之丞様のツケはお幾らで? 私に払わせて下さい」
「え?」
「ちょっ坊ちゃん何を!?」
「先ほど助けて頂いたお礼がまだですので…よろしいでしょうか?」
「は、はぁ…代金が貰えるなら、うちは構わないけど…」
「ありがとうございます」
菊丸が代金を払う横で、菊之丞は刀を手に取り眺める。
「お節介な兄ちゃんだなぁ…わざわざ置いてきたもんを届けるなんざ」
「え…置いてきた?」
払い終わった菊丸は、菊之丞の側にしゃがむ。
「刀は侍の誇りと聞きます、大切な物なのでしょう?」
「違うよお兄さん、元々その刀は拾い物なのさ」
勘定が終わったおみつが菊丸に答える。
「え…本当に拾い物だったのですか?」
「ああそうさ! この人がお侍だったのは昔のこと、今じゃ見ての通りの飲んだくれなんですよ」
「おみつ! 余計なこと言うな!」
菊之丞は立ち上がり、菊丸を睨む。
「ったく…見ず知らずの酔っ払いのツケを払うなんざ、お人好しにも程がある!」
「何を言いますか! 私は貴方に命を救われた身…何かしらのお礼をせねば、私の気が済みません」
「坊ちゃん! もう行きましょう? こんな所で時間を潰している場合じゃありません! 早く真っ当なお侍さんを雇って、菊花の国へ参りませんと…!」
三太夫は菊丸に駆け寄り急かす。
「…なぁおっさん、どうして護衛が必要なんだ?」
菊之丞は三太夫に訊ねる。
「どうしてだって? この方は!」
「私の家は、菊花の国で商いをしているのです…父が少々恨みを買いやすい人で、父に恨みを持つ者が荒くれ者を雇い、一人息子である私を狙っているのです」
三太夫の言葉を遮り、菊丸が答える。
「父の後を継ぐ為、菊花の国に戻らねばならなくなり…しかし相手がどこから襲って来るか分からぬ上に、私も三太夫殿も戦う術が無く…なので、我々を守ってくれるお侍様を探しているのです」
「ほぉ…随分と難儀な道だな、後継なんてやめたらどうだ? 国に向かわなければ命も狙われない」
「いえ! 私にはやらねばならぬことがあります…先ほどは、本当にありがとうございました! これ以上はご迷惑をお掛け出来ません…三太夫殿、行きましょう」
「ええ、ええ! こんな侍崩れ、もう放っておきましょう!」
菊丸と三太夫が去ろうとしたが、菊之丞は呼び止める。
「待て兄ちゃん! 一つ聞かせて貰えるか」
「はい?」
「お前、何故俺に声を掛けた?」
「え?」
「この町には俺や先程の浪人達の他にも、侍や侍崩れは居た筈だ…そんな中でお前は、何故俺に声を掛けたんだ?」
「それは…噂を聞いていたのです、胸元に風車の刺青があり、抜身刀を持つ、腕の立つ侍が居ると…貴方なら、きっと助けてくださるのではと!」
「そんな噂になってるのか…で? 噂の男は飲んだくれのろくでなしだったわけだ」
「確かに、これ程酔っておられる方とは思いませんでした…しかし貴方は浪人三人を素手で倒した、きっと噂以上にお強いのでしょう…それに、貴方の目…」
「目?」
菊丸は菊之丞を真っ直ぐと見つめる。
「貴方の目は…決して折れぬ刀のように強い、侍の目です」
菊之丞は目を見張り、次にバツが悪そうに頭を掻いて顔を逸らす。
「…あー…! おみつ! 悪いが当分は店には来ねぇ! 親父によろしくな」
「あいよ、どうか気を付けてね」
「え?」
「菊丸と言ったな…ツケを払って貰った礼だ、菊花の国、そこに着くまでは護衛してやらぁ」
「え…本当ですか!?」
「ああ…さっきの手助けの礼としちゃ、どう考えても兄ちゃんの方が損してるからな…借りがあるのは落ち着かねぇんだ」
「あ…私は、そのようなつもりで払った訳では…」
「とにかく、頂戴した金の分は働いてやる…よろしくな、おっさんも」
菊之丞が酒を煽り、三太夫は菊丸の袖を引いた。
「坊ちゃん、本当によろしいのですか?」
「大丈夫です、三太夫殿…この方ならば、きっと…」
隣町に着き、菊之丞達は飯屋に入る。
「この店は大食いの挑戦者をいつも募集していてな、よく挑む者を見るが、完食出来た者は見たことが無いな」
「そうなのですか…世の中には面白いことを考える方が居るものですね」
「はっ! 兄ちゃんさては箱入りか? 随分と青臭い考えだ」
「口が過ぎますぞ菊之丞殿! 坊ちゃんは貴方を雇っているのですぞ!」
「三太夫殿、落ち着いてください」
三人が話しながら席に着く中、店の一角に出来た人集りから話し声が聞こえた。
「すげぇなあの兄ちゃん! あんなにでかい丼の米を平らげたぞ!」
「さっき町中で見掛けたが、あいつ猿みたいに身軽だったぞ」
「あれは異国の血か? 銀の髪に真っ赤な目をしてやがる」
話し声を聞き、菊之丞は指を折って確認する。
「大食らいで、猿みたいに身軽で、銀髪に赤目…?」
「菊之丞殿?」
「…お二人さん、店を変えるぞ」
「え、まだ席に着いたばかりじゃありませんか」
「悪いことは言わねぇ、ここを出るぞ!」
菊之丞が立ち上がったのと、人集りから一際大きな声が上がったのは同時だった。
「ご馳走様でした! いやー美味かった! 腕が良いね大将!」
「いやぁこれ程に見事な食いっぷりを見せられちゃ悔しくもならねぇなぁ、ほら、報酬の銭を持ってけ!」
人集りから出てきた跳ねた銀髪に赤い瞳の青年は、店主が差し出した銭袋を見て首を傾げる。
「報酬?」
「何だお前さん、銭が欲しかったんじゃないのか?」
「滅相もない! ここの大盛りは完食出来ればタダだと聞いて来たんだ! 美味い飯を食わせて貰えた、俺はこれで十分! 大事な銭は、大将の懐にお納めください」
青年は銭袋を押し返し、店主の手にしっかりと握らせる。
「本当に美味い飯だった! またこの町に来た時は寄らせて貰います!」
店主にお辞儀をして、振り向いた青年は菊之丞を見付けると、指差して声を上げた。
「あーっ!! 兄貴が居る!」
「菊之丞様、お知り合いですか?」
菊丸が菊之丞に訊ねる中、青年は身軽に跳ね菊之丞達が座る席の上に飛び乗った。
「やっぱり菊之丞の兄貴じゃないか! いやーまた兄貴に会えるなんて、嬉しいなぁ!」
青年が嬉しそうに言うと、菊之丞は青年の頭を引っ叩く。
「あだっ!」
「ここは飯を食う場所だ、土足で乗り上げるな銀次」
「あ! これは失礼! すみません大将!」
席から降りた青年は店主に謝りながら席を拭いて菊之丞の隣に座り、菊之丞は溜息を吐きながら再び座る。
「菊之丞様、こちらの方は…?」
「おっ兄貴に連れが居るとは珍しい! 初めまして、俺は銀次と言います! 兄貴には大戦の時に、何度も命を救われたもんです!」
「大戦って…菊之丞殿、先の大戦に参加されていたのですか?」
三太夫が菊之丞に訊ねる。
「菊之丞の兄貴は凄いんだぜ! 齢十五で刀を握り、大戦では迫り来る敵をバッタバッタと斬り倒す大立ち回りを何度も見せてくれた! 兄貴の強さは本物だ!」
「その良く回る口を閉じろ銀次! 大体どうしてお前がここに居る?」
「俺? 俺はこの店で腹いっぱい飯を食えると聞いて! 知ってるか兄貴? ここの大盛りを完食出来ればタダなんだタダ! 無一文の俺には有難いもんだよ!」
目を輝かせて話す銀次を菊丸は見つめる。
「銀次様は、なんだかとても気持ちが良いお方ですね」
「様!? そんな堅苦しい呼び方! 兄貴の連れだ、気軽に銀次と呼んでくれ! それで、そっちのお名前は?」
「あ、ご挨拶が遅れました、私は菊丸と申します、こちらはお付きの三太夫殿です」
「三太夫と申します」
菊丸と三太夫は頭を下げる。
「菊丸に三太夫のおっちゃんか…兄貴、同じ菊同士仲良くしてるのか?」
「んなわけねぇだろ、護衛として雇われたんだ! 菊花の国までこの二人を送り届けることになってる」
「えっ菊花の国!? 兄貴、今あの国に近付くのは良くねぇよ!」
「あ?」
「聞いた話なんだがな? 数ヶ月前に、長く国を治めてた殿様が亡くなったらしくてな、今あの国では権力争いが絶えないそうだ」
「権力争いって…後継者は決まってなかったのか?」
「それが居ることには居るらしいんだが…殿様は爺ちゃんだったんだが、まーお盛んだったようでなぁ、まだ二十そこそこの若い隠し子が居たことが分かったらしく、殿様はそいつを後継者に選んだらしい! 他の息子連中は勿論納得なんかしねぇ! その隠し子が国に戻れば殿様になるのが決まってるから、国に着く前に殺してやろうって、主君を無くした野武士連中を雇って躍起になってるって話だ」
「そりゃまた物騒な話だな…菊丸、これでも国に行くつもりか?」
「はい、あの国は私の故郷ですから」
菊丸は笑って答える。
「それで? その隠し子ってのはどんな奴なんだ?」
「それが何の情報も掴めないんだよ、殿様は本当はその子を国のいざこざに巻き込みたくなくて、あちこちを転々とさせてたらしいから…けれど死期が迫って、後継にすべきはその子だと考えたらしく、遺言を遺したと」
「転々とねぇ…それは狙う側もやりづらそうだな…そうだ銀次、お前も一緒に菊丸達を菊花の国まで護衛しないか?」
店員が運んできたお茶を一口飲み、菊之丞は銀次に訊ねる。
「え、俺も?」
「これも何かの縁だ、どうせ暇だろ?」
「酷いな兄貴、否定はしないけど」
「菊之丞様のお仲間の方ならば心強い! 報酬はきちんとご用意致します! お願い出来ませんか?」
銀次は腕を組んで考える仕草をしてから、ニコッと笑う。
「断る!」
「えぇっ!?」
「俺は銭に興味が無い、大戦に参加したのだって、飯と寝床が確保されるからってだけだからな!」
「そんな…」
「駄目だ菊丸、頼み方がなってない」
「というと?」
菊之丞は銀次の肩に腕を回す。
「いいか銀次、この依頼引き受ければ、この三太夫のおっさんがお前の飯と寝床を必ず用意してくれるぞ」
「えっ!?」
「えっ本当に!?」
「ああ嘘じゃねぇ、三太夫のおっさんは菊丸の為なら金は惜しまねぇよ、なぁおっさん?」
菊之丞と銀次に見つめられ、三太夫は頭を抱える。
「くぅ〜…! 分かりましたよ! 銀次殿の寝床と食事は必ず用意します! この三太夫、約束しましょう!」
「おおっ! ありがとう三太夫のおっちゃん!」
銀次は三太夫の両手を握って大喜びをする。
「三太夫殿、お金なら私が…」
「いいえ坊ちゃん! 私もそれなりに蓄えがあります、銀次殿の宿代と食事代は私がお支払い致します!」
「だとよ、良かったな銀次」
「やったー! これで暫くは岩の上や木の上で寝なくて済む!」
「そんな所で寝ていたのか?」
大喜びをする銀次と呆れ顔の菊之丞が、突然黙り店の外へ目を向ける。
「どうされました?」
「…店を出るぞ」
「え?」
「大将! また来るね!」
菊之丞と銀次が菊丸と三太夫を促して外へ出ると、数人の荒くれ者が待ち構えていた。
「何者だお前ら」
「そこの侍崩れ、悪いことは言わん、その小僧と爺を置いて去れ」
「ほぉ…お前らが雇われた連中か…下がれ、菊丸」
菊之丞が菊丸を庇い刀を構えると、銀次が前に出た。
「ここは俺に任せて貰おう! 三太夫のおっちゃん、雇われたからにはきちんと働くぜ! 兄貴は二人を連れて逃げろ、俺が時間を稼ぐ!」
「いいのか、銀次」
「おうよ! この〝白狼の銀次〟…務めを果たします! いざ参る!」
銀次は腰に携えていた忍者刀を抜き、向かってきた荒くれ者達の攻撃を流す。
「行くぞ、二人とも!」
「しかし菊之丞様!」
「安心しろ、銀次はこの程度の奴らに負けはしねぇ!」
菊之丞が菊丸の手を引き、三人はその場を走り去る。
銀次は三人を追おうとした荒くれ者の前に回り込み、攻撃を身軽に躱しながら足止めする。
「そろそろいいかな…ではこれにて、御免!」
銀次が煙玉を取り出して地面に叩き付け、周囲に煙が立ち込めると、銀次はその場を走り去った。
町から少し離れた林の中、駆けてきた菊之丞達は息を整える。
「追っ手は居ない、ここまで来れば大丈夫だろう」
「ですが菊之丞様、銀次殿がお一人で…!」
「んな心配するな、あいつなら大丈夫だ」
その時、菊之丞達の前に銀次が現れた。
「あ! 遅いぜ兄貴達!」
「銀次殿!?」
「もう、先に逃げたのに俺より遅いってどういうこと? お陰で待ちくたびれて寝そうだったぜ?」
「お前なぁ、元忍のお前に速さで勝てるわけねぇだろ?」
「え、銀次殿が元忍!?」
「おう! 俺は忍の里の生まれでな! まぁ出来損ないだって、十の時に親父に崖から捨てられてからは、叩き込まれた技を使って生きてきたもんだ! まぁ俺は飯と寝床が貰えれば何でも良かったから、特に気にしたことも無いけどな!」
銀次は笑って答えると、菊之丞に駆け寄る。
「良い所に逃げ込んだな兄貴、この林は日が暮れると真っ暗で、夜目が効かない連中を撒くにはぴったりだ! 俺が案内する!」
「銀次、お前に再会して嬉しく思う日が来るとはな」
「酷いな兄貴! あ、林を抜ければ宿屋もある、そこから二日ほどで、隣町に着くぜ」
「分かった…菊丸、三太夫のおっさん、銀次が林の中を案内してくれる、逸れないように手を繋いでいくぞ」
「はい!」
菊之丞が手を差し出し、菊丸はその手をしっかりと握る。
ある屋敷の中、行燈のみで照らされた部屋に一つの人影が浮かぶ。
「菊丸を手助けする者が現れたそうだ、一人は抜身刀を持つ侍崩れ、もう一人は忍の技を持つ、銀髪に赤目の若造だ」
刀を持つ男が部屋に現れて言い、次に忍装束の男が現れる。
「銀髪に赤目…〝白狼〟か…よもや生き延びていようとは」
「何だ寅次殿、知っておるのか?」
「何、少しな…白狼は儂がやろう、侍崩れは貴様に譲るぞ、鉄平」
「それは有難い、そろそろ人を斬りたくてウズウズしていたのだ」
「ふん、戦狂いが」
寅次と呼ばれた忍は人影の前に膝を着き頭を下げ、立ち上がると部屋を出ていく。
「しかし貴殿も必死だなぁ、我が身可愛さに、会ったことも無い腹違いの弟を手に掛けようなど…」
鉄平と呼ばれた男は人影を一瞥した後、左頬の傷を撫でながら刀を抜いて刀身を眺める。
「最近は骨のある者が居らず、某の刀も物足りなさを感じておる…貴様のような者は何処に居るのだろうなぁ? 菊之丞」
隣町に着き、菊之丞と三太夫の前を菊丸と銀次が歩く。
「へぇ…銀次殿のその髪色と瞳は、生まれ付きのものなのですか」
「ああ、そのせいかあまり陽の光に当たると調子が悪くなっちまうもんだから、こうして頭に被る為の布を服に縫い付けてんだ」
「それは不便ですね…」
「そうでもねぇよ? 俺は元忍だから、戦場でも闇夜での隠密が殆どだったし…それに兄貴にな、雪国の兎みたいだと言われてからは、面白い容姿だと思うようになった!」
「兎?」
「知ってるか? 雪国の兎は毛色が真っ白で、目が真っ赤なんだと! あまりに面白いから、〝白狼〟じゃなくて〝白兎〟と名乗ろうかと言ったら、何故か周りから止められた」
「あははっ! それは確かに少し愛らし過ぎますね!」
菊之丞と三太夫は楽しそうに話す二人を見つめる。
「あんなに笑顔の坊ちゃんを見るのは久しぶりです…菊之丞殿達に会うまでは、常に警戒ばかりでしたので…」
「ま、命を狙われてると知ってて笑える奴なんて普通じゃねぇからな…追っ手が手練れならば尚更だ」
三太夫は菊之丞を見て、菊之丞も静かに三太夫を見つめ返す。
「一介の商人の息子を殺すのに雇ったとしては手練れが多すぎる…おっさん、何を隠してやがる?」
「そんな…我々に隠し事など…!」
「なぁおっさん…ひょっとして…」
「兄貴!」
菊之丞の言葉を遮り、銀次が菊丸の手を引いて二人に駆け寄る。
「聞いてくれよ! 菊丸は今二十二なんだってさ、俺の三つ下だ!」
「ほー…なら、俺とは八歳差だな」
「そうなのですね…じゃあ、私も「兄貴」とお呼びしましょうか?」
「おっいいなそれ!」
「止めろ小っ恥ずかしい、それに俺達は菊花の国に着くまでの繋がりだ、馴れ合う気はねぇ」
「そんな…菊同士、仲良くしましょうよ?」
「チッ…銀次、てめぇ余計な事吹き込みやがって」
「えー? 兄貴だって満更でもないくせに!」
三人が話していると、銀次がふと声を上げた。
「あ、そういえば兄貴、この町って恭弥が住んでるんじゃなかったっけ?」
「あ? …ああ、そういやこの辺りか?」
「どなたですか?」
「かつての戦仲間だ、戦が終わってからは音沙汰も無かったが…一度貰った手紙で、この辺りで暮らしてると聞いたな」
「恭弥様…どのような方なのですか?」
「寡黙で真面目な奴だ、剣術の腕も文句の付け所がなく、静かに自分の任務に取り組む男だった…ああ、後、銀次とは犬猿の仲だ」
「あっちが勝手に俺を嫌ってんだよ! いっつも凛としてやがって、いけ好かない色男だ!」
「お前も嫌ってんじゃねぇかよ」
菊之丞が拗ねる銀次の頭を撫でたと同時に、大きな声が菊之丞と銀次の名を呼んだ。
「菊之丞! 銀次!」
大声に見ると、槍を振り回す男が一同の元に向かってきていた。
「えっ! 何事!?」
「お知り合いですか!?」
「「あっ」」
男を見た後、菊之丞と銀次は目を合わせる。
「俺は西に逃げる」
「じゃあ俺は東」
確認を取った後、銀次は東へ走り出し、菊之丞は菊丸の腕を掴んで西へ走り出した。
「菊之丞様!?」
「坊ちゃん!?」
出遅れた三太夫の側に男が立ち、三太夫は思わず尻餅を着く。
「旦那ぁ…あの二人と知り合いかぁ?」
「ひぃ…!」
すると戻って来た銀次が男の肩を軽く叩き、男が振り返ると目の前で両手を叩いたので男は怯んだ。
「うおっ」
「行くよおっちゃん!」
「待てやごらぁ!」
男が怯んだ隙に銀次が三太夫の手を引いて走り出し、男は再び槍を振り回しながら銀次を追い掛けた。
逃げ切った菊之丞と菊丸は足を止めて、息を整える。
「はー…何とか撒いたみたいだな」
「よろしかったのですか? お二人の名前を呼ばれていましたが…」
「ああ、あいつと関わると碌なことがねぇからな…」
「そうなのですか…?」
風車売りを見付け、菊丸は駆け寄って二本の風車を買う。
「どうぞ、菊之丞様」
「あ?」
「お好きでしょう? 風車」
菊丸が菊之丞に赤色の風車を渡し、菊丸は自分が持つ黄色の風車を指で回す。
「刺青を入れる程だなんて…随分可愛らしい物がお好きなのですね、菊之丞様は」
「…俺じゃない…弟が好きだったんだ」
菊之丞は息を吹き掛けて風車を回す。
「弟さんが、いらっしゃったのですか?」
「血は繋がっていないがな…俺は戦孤児の一人だった、その日その日を生きる為に盗みもしたし、死体漁りもした…ある日、一人の餓鬼が増えてな、そいつがまぁ鈍臭くて、仕方なしに面倒を見ていたんだが…兄ちゃん兄ちゃんと後を着いて回って来て…気が付きゃ、弟として可愛がっていた」
「そうだったんですね…」
「…だが、俺が十五の時、弟は人攫いに攫われた」
「え?」
「泣き叫んで助けを求める弟に、俺は何もしてやれなかった…それからは弟を捜し続け、必ず助ける為にと、盗んだ刀を振り続けてきた…それがいつの間にか、侍として大戦に参加していて…それでも弟は見付からず、俺も今ではこの有り様だ…こんな情けない姿、弟には見せられねぇな」
菊丸は一度目を伏せた後、菊之丞を見つめる。
「弟さんは、きっと貴方を誇りに思いますよ」
「…そうだろうか…」
「そうですよ! 兄と慕う方が、ずっと自分を捜していてくれたなんて…再び会いたいと思ってくれていたなんて、嬉しいに決まってます」
菊之丞は菊丸を見る。
「やっぱり貴方に護衛をお願いして良かった…貴方は優しく、強いお方だ」
「…買い被りすぎだ…」
「見付けたぞぉ!」
声に見ると、先ほどの槍の男が銀次の首根っこを掴んで立っていた。
「銀次!」
「銀次殿!?」
「悪い兄貴、捕まったー」
「すみません銀次殿! 私の足が遅いばかりに…!」
「ううん、三太夫のおっちゃんは悪くないよ、油断してた俺が悪い」
「銀次を離してやってくれ、左近次!」
菊之丞が左近次と呼んだ男は銀次を離すと、銀次に拳骨を喰らわせた。
鈍い音が聞こえて、銀次は頭を押さえてしゃがみ込む。
「久しいなぁ菊之丞! して、儂を見て逃げた理由を聞こうか?」
左近次は笑顔を浮かべて菊之丞の側に立ち、菊之丞は顔を逸らす。
「久しぶりの再会なのに顔を背けるとはつれないなぁ菊の字、それ程までに儂との再会は嫌なものか?」
「いや…お前会うと直ぐ父親ヅラするからよ」
「なっはっはっ! なるほどなぁ!」
左近次は声を上げて笑った後、銀次と同様に菊之丞にも拳骨を喰らわせた。
「っ…!」
「菊之丞様!」
頭を押さえて悶える菊之丞に菊丸が駆け寄る。
「ったく! お前ら親父への態度がなってねぇなぁ! ここは再会の抱擁をするとこだろう!」
「「親父じゃねぇ!」」
「左近次のおっさんが勝手に俺らを息子扱いしてるだけじゃんか!」
「そうだそうだ! おめぇは大戦で共に戦ってた時から俺達を息子だ父と呼べだと喧しくて敵わなかった!」
「何をぅ!?」
「まぁまぁ! 皆様、落ち着いて!」
菊丸が菊之丞と左近次の間に立ち、左近次は菊丸に気付く。
「おお、貴殿が三太夫の旦那が話しておられた菊丸様だな、これはご挨拶もせずに失礼を! 儂は島田左近次と申す者、長槍で戦い続けた武骨者だが、よろしければ以後お見知り置きを」
「これはご丁寧に…菊丸と申します、菊之丞様と銀次殿には、国に帰るまでの護衛を頼んでいる身です」
「ふむ、それも三太夫の旦那から聞いている…菊之丞、銀次、せっかくの機会だ、お前達も共に来ないか? 恭弥の家に」
「恭弥の?」
「左近次、お前恭弥に会いに来たのか?」
「ああ、以前手紙を貰ってな、知っているか? あの恭弥に子供が産まれたそうだ」
「「恭弥に子供!?」」
菊之丞と銀次は声を揃える。
「はー! あの恭弥に子供かぁ!」
「俺は相手が居たことすら初耳なんだけど! 誰だよその物好きは!」
「なっはっはっ! 銀の字は恭弥とは会えば喧嘩ばかりだったからなぁ、知らないのも無理は無い! なかなか暇が取れず遅くなったが、これから祝いの品を届けようとしていた所よ!」
「しかし、それが何で俺達を追い掛けることになるんだ?」
「それはお前菊の字、顔を見た途端、他で聞いて来たお前らの噂を思い出してのぉ、一度お灸を据えるべきかと思ったのだ」
「噂って?」
銀次は不思議そうに首を傾げる。
「先ず銀の字、お前あちこちの町で食い逃げをしていると聞くぞ! ただでさえその目立つ容姿だ、噂を聞いて直ぐお前のことだと分かったぞ!」
「はぁっ!? 何だよそれ! 俺は大食い挑戦者を求めてる店しか行かねぇよ! 大体の店が完食出来ればタダだからな!」
「ふむ、まぁこちらの噂は多少の齟齬があるとは思っていたがな…しかし菊の字、お前の噂は良くない! 抜身刀を持ち歩く呑んだくれの侍崩れの噂だ、しかもその侍崩れ、どこにでも刀を置いていくから処分に困るとの話だ!」
「何だそりゃ、俺は刀は…あれ、刀は何処だ?」
菊之丞は自分の刀が無いことに気付く。
「兄貴、刀ならさっき置いて来てただろ」
「はぁっ!? 銀次、何でお前言わねぇんだよ!」
「えっ? 敢えて置いて来たのかと思って…」
「刀…菊之丞様は、何故ご自分の刀を持ち歩かないのですか?」
菊丸が訊ねると、菊之丞はバツが悪そうに顔を逸らす。
「あー…腰に差しておくのが嫌なんだよ、それだけだ」
「はぁ…」
「おっと! あまり待たせると恭弥の機嫌を損ねる! 儂はそろそろ行くぞ、どうする菊の字?」
左近次は槍と荷物を持ち直す。
「そうだなぁ…よし、俺達も行く」
「えーっ!? 恭弥に会いに行くの!?」
「そう言うなよ銀次、嫌なら口を聞かなければいい、な?」
菊之丞に肩を叩かれ、銀次は不服そうに顔を歪める。
町から少し外れた場所に建つ一軒の平屋、中には赤子をあやす襟足が長い茶髪の男と、洗濯物を畳む長い黒髪の女が座っていた。
「…お前さん、お見えになりましたよ」
「ん…そうか」
男は赤子を抱えて立ち上がり、土間に降りて戸を開けた。
「おっと!」
戸を叩こうとしていた左近次は驚いて手を引っ込め、男を見て笑みを溢す。
「よぉ恭弥! 久しいのぉ!」
「元気そうだな、左近次」
「おぅ!」
左近次は恭弥と呼んだ男が抱える赤子に気付いた。
「おっ! もしやこの子が?」
「ああ…娘のうただ」
「はー恭の字の子は娘だったか! おー何と愛らしいことか!」
左近次が赤子に微笑み掛ける中、恭弥は左近次の後ろからやって来た菊之丞に気付く。
「…菊之丞…」
「久しぶりだな恭弥…左近次とは、さっき再会してな」
「知っている」
「…何?」
「入れ、妻を紹介する…連れの者と銀次もだ」
「お、おう…菊丸」
菊之丞が菊丸達を招き、共に家の中へ入った恭弥は、洗濯物を畳んでいた女の側に座る。
「俺の妻、はなだ」
「お初にお目に掛かります」
はなと呼ばれた女は、菊之丞達に頭を下げる。
「おお、こちらが恭弥の…」
「うわぁ、めちゃくちゃ別嬪さん…美男美女ってやつか!」
「相変わらず教養の無い物の言い方をする男だな、銀次…まだ野犬のような生き方を?」
恭弥が淡々と言い、銀次は恭弥を睨む。
「んだとぉ!? てめぇはいつもそうやって俺を見下しやがって!」
「止めろ止めろ銀の字! そう目くじらを立てるな! 騒げばやや子が泣く!」
恭弥に掴み掛かろうとする銀次を左近次が止めた。
「部屋の支度は済んでいる…皆、泊まっていくと良い」
「支度って…恭弥、俺達が来ると分かっていたのか?」
「ああ、はなのお陰でな」
「はな殿の?」
「はなには幼き頃から第六感とも言える鋭い勘があってな…外したことは殆ど無い」
「それは凄い…なら、ご厚意に甘えるとしよう、菊丸、三太夫のおっさん、今夜はこちらで世話になろう」
「はい、一晩御厄介になります、恭弥様…私は菊丸、こちらは三太夫殿です」
菊丸と三太夫が座って頭を下げると、はなにうたを任せて立ち上がった恭弥が、部屋の隅に置かれていた群青色の鞘に納まる刀を手に取り、菊丸を見る。
「世話する前に、こちらの質問に答えて貰おうか」
「質問? 何でございましょう?」
「…お前、菊花の国の次の主だな?」
恭弥の言葉に、菊丸は目を見開く。
「…え…?」
「何言ってんだ恭弥? 菊丸は、菊花の国で商いをしている親父の後を継ぐ為に…」
「お前はいつまで経っても頭が足りないな、銀次」
「あぁっ!?」
「菊之丞、お前が気付かぬ筈が無い…この者の正体に」
「な、何を仰られるか恭弥殿! 坊ちゃんはそのような…!」
三太夫の言葉を遮り、恭弥は刀を抜き三太夫に鋒を向ける。
「ひっ!」
「恭弥!」
「正直に答えろ…さもなくば、この男の首が転がるぞ」
菊丸は三太夫を見て、三太夫は首を横に振る。
しかし菊丸は恭弥に向き直り、両手を着いて頭を下げる。
「恭弥様の、お察しの通りでございます」
「坊ちゃん…!」
「私は…私は菊丸、父より菊花の国を継ぐ為、生まれ故郷を目指しております」
「…やはりな」
恭弥は刀を鞘に納める。
「申し訳ありません、若…!」
「私の方こそ、貴方に怖い思いをさせてしまった…すみません、三太夫殿」
三太夫が頭を床に着けて謝り、菊丸は三太夫の背中を撫でる。
「菊丸が、菊花の次の殿様…!?」
「…菊之丞、気付いていたのだろう」
恭弥が訊ね、菊丸は菊之丞を見る。
「事情があるとはいえ、この者達はお前達を騙していたことに変わりはない…偽る者を守る義理があるのか?」
「恭の字、お前…!」
左近次を菊之丞が制した。
「…銀次、お前はどうする?」
「ん? 俺は三太夫のおっちゃんに、飯と寝床を約束して貰ってるからな! このままおっちゃんと菊丸について行くぞ!」
銀次は三太夫の隣に座る。
「銀次殿…」
「俺は菊丸が次の殿様とか、権力争いとかそんなもんどうでもいいからな! 飯と寝床が貰えるなら、俺はその恩義のために刃を振るうだけさ!」
「ふん…獣が…」
恭弥の言葉に、銀次はふんと顔を背ける。
「…恭弥、俺達の心配をしてくれてありがとうな」
菊之丞は恭弥に笑い掛ける。
「お前は不器用で分かりづらい奴だからなぁ、要は俺や銀次を危惧してのことなんだろう…だが恭弥、心配は無用だ…俺は俺の意思で、菊丸を国へ送り届けることに決めたんだ」
「菊之丞様…」
「…何故だ」
「何故? 何故と言われてもなぁ…俺がそうしたい、それだけのことだ」
菊之丞は真っ直ぐと伝え、恭弥は背を向ける。
「…相変わらず甘いな、お前は」
「そう言うお前だって相変わらずだろ、もうちょっと相手に伝わる言い方を学べって」
菊之丞と恭弥のやり取りを見て、左近次と銀次、はなは笑みを溢す。
夜遅く、菊丸は平屋の外で月を眺めていた。
「一人で出歩くのは良くねぇぞ、菊丸」
平屋から出て来た菊之丞が菊丸に声を掛ける。
「菊之丞様…」
「お、今日は月が見事だなぁ! どうりで外が明るく感じるわけだ!」
菊之丞が月を見上げる横で、菊丸は菊之丞に頭を下げる。
「嘘を吐いていたこと、深くお詫び致します…私は…」
「別にいいって、気にしてねぇよ…お前にも言えない事情があったんだろう?」
菊之丞が月を眺めたまま答え、菊丸は顔を上げる。
「…貴方はお優しいですね、菊之丞様」
「はぁ? お前それ何度目だよ?」
菊之丞は振り返る。
「本当なら…本当なら、私のような者は信用出来ないでしょう…こんな嘘吐きで、弱虫で…自分では戦うことも出来ない、愚か者なんて…」
「おいおい! そう自分を卑下するなって! お前はこれから国を背負うんだろ? 国の頭がそんなことでどうする!」
「…国を背負う…本当に、私などに出来るのでしょうか…」
菊丸は黄色の風車を取り出し、指でゆっくりと回す。
「私は幼き頃から、国を離れてあちこちを回って来ました…数ヶ月前に、私の父だった方が亡くなり、三太夫殿と数人の方々が私の元へ現れ、私は一国の主になる者だと教えられ…そこで初めて、自分の生まれ故郷を知りました…菊花の国は今、私の腹違いの兄である方々が、国の人々を苦しめていると聞きました…国民から搾取し、私腹を肥やしていると…この様な暮らしをして来たからこそ、それがどれ程に愚かな行為か分かります」
「…だから、次の殿様になる覚悟を?」
「はい…しかし、兄達は私の帰還を望んでいない…何度も兄達が向けてきた刺客に襲われ、その度に守られ…私に助けを求めてやって来た方々は、今では三太夫殿お一人に…」
菊丸は、自分の腰に携えた、橙色の鞘に納まる刀に触れる。
「…この刀は飾りです…人を斬ったことは愚か、振るったこともありません…こんな情けない男が、一国の主になどなれるでしょうか…何度この刀で、首を切るか腹を切るか考えたことか…!」
「菊丸…」
「しかし…その度に、私を守り命を落とした方々のお顔が頭を過ぎるのです…そして思うのです…ああ、私は死ねない…私が死ねば、彼らの無念が晴らされることはないと…!」
菊丸は風車の柄を強く握り締める。
「…なぁ菊丸、お前、殿様になったらどんな国にしたい?」
「…え?」
「一度くらい考えたことがあるだろう? 菊花の国をどんな国にしたい?」
菊之丞は菊丸を見つめる。
「…私は…私は菊花の国を、争いの無い平和な国にしたいです…身分など関係なく、皆で助け合える国を作りたい」
「ほぉ…そりゃまた、夢のような国だなぁ」
「…やはり、可笑しいでしょうか…」
菊之丞は俯いた菊丸の手から、風車を奪い取り眺める。
「良いじゃねぇか、夢を見たって!」
「え?」
「武家も平民も百姓も関係ない、困った時は皆で助け合う平和な国…根から優しいお前らしい国だ」
「菊之丞様…」
「なぁ菊丸、一つ約束しねぇか?」
「約束?」
「…お前は、人を斬るな」
菊之丞の言葉に、菊丸は目を見開く。
「根から優しいお前の手に、血の色は似合わねぇ…誰かの命を奪うなんざ、して欲しくねぇ」
「しかし…」
「なぁ菊丸、これは俺が勝手に思ってることだから、聞き流してくれて構わねぇが…」
菊之丞は菊丸の前に立つ。
「お前がその刀を振るうことが無かったこと…俺は、心の底から良かったと思ってる」
「…ッ…腰抜けだと、笑いませんか?」
「笑わねぇ、お前はそれで良いんだ…人を傷付けるのが心底嫌で、皆に幸せになって欲しいと願う優しいお前は…その綺麗な手のまま、綺麗な国を作ってくれ」
菊之丞は風車を差し出し、菊丸が受け取る。
「その代わり、お前やお前の国に手を出そうとする輩が現れたら…俺が何処からでも駆け付ける、俺がお前の代わりに刀を振るう」
「菊之丞様…」
「俺の手は、とっくに汚れてるからなぁ、更に汚れたって変わりゃしねぇ…だから気にするな」
菊之丞は一度背を向けた後、振り返って菊丸を見つめる。
「胸を張れ、菊丸…お前は、国を背負う男になるんだ」
「…はい…!」
平屋の中、恭弥は戸の側で二人の話を聞いていた。
「行かれるのですね」
はながうたをあやしながら言い、恭弥ははなに近付き、片膝を着く。
「はな…」
「分かっておりました…貴方はまた、戦に行くだろうと」
「…必ず、お前とうたの元へ戻る」
「だから…別れの言葉は、言いません」
はなは優しく、恭弥に微笑み掛けた。
翌朝、菊之丞達は平屋の外で荷物を確認していた。
「左近次、本当について来てくれるのか?」
「おぅ! どうせ行く先も決めていない旅の途中だ、お前に付き合うぞ菊の字!」
「お世話になります、左近次様」
「どうかそう畏まらないでくだされ、菊丸様…菊の字の仲間なのだ、気兼ね無く接して欲しい」
菊之丞の隣に、刀と手荷物を持った恭弥が立つ。
「恭弥」
「菊之丞、俺はかつての戦でお前に命を救われた…お前が再び戦に身を置くならば、俺も共に行く」
「え、でも恭弥! 奥さんと子供は?」
銀次の言葉に一同がはなを見ると、はなはうたを抱えたまま頭を下げた。
「…恭の字、良い女だなぁお前の妻は」
「ああ…俺の自慢だ」
「…では行こう、菊丸」
「はい!」
一同の姿が見えなくなるまで、はなは頭を下げ続けた。
後編へ続く