浅草散策
合コンの翌朝、裕人が目を覚ますと携帯に美緒からの「今日は来る?」メールが届いていた。ちょっと考えて「午後遅めに行く」と返信したら、すぐに着信があり、土曜日で天気が良いからランチしない?と提案される。
いいね。そうしようか。どこに行く?なにを食べようか?裕人と美緒にとって、いつもの週末だ。ただ、今日の彼は美緒の声を聞きながら、軽い後ろめたさを感じていた。
昨夜、携帯の番号とメアドを交換したのに加奈からメールはなかった。少し残念な気持ちでパソコンを起動すると、こちらに「昨日はありがとうございました」のタイトルで長めなメールが届いていた。メールの一人称は、さすがに「ボク」ではなくて「私」だった。
パソコンのメアドは範子経由で健二から教えてもらったこと。
携帯メールは好きでないのでパソコンメールでやりとりしたいこと。
昨日はこれまでの人生で最高の一日だったこと。
男性から肩を抱かれたのは初めてだったこと。
それから、ずっと胸がわさわさして温かいこと。
帰宅してからも、ずっと眠れず、こうしてメールを書いていること。
さらりと書いた風だが、単語の端々から秘めた感情が伝わってくる。おそらく送信前に何度も推敲したのだろう。21歳とは思えぬ綺麗な言葉遣いの文章で、裕人は世間で進学校といわれる高校を卒業したが、同級生で、こんな文章を書ける奴は一人もいないだろうなと感心した。
そして上京して3年になるけど都内の観光スポットや名所には、ほとんど行ったことがないから、谷中や浅草、月島などの下町散策に連れて行って欲しいと綴られていた。
高校時代から、付き合い始めた彼女との初デートは映画と決めていた裕人は、こちらこそ、合コンではありがとうございましたと御礼を記しつつ、よかったら映画に行きませんかと誘いのメールを返信した。
だが、加奈は映画はスクリーンを見ている間は、裕人と話せないから嫌だと断わり、改めて下町散策をお願いしてきた。仕方ないので、4日後に都営地下鉄の浅草駅の改札口で待ち合わせることになった。
待ち合わせ場所の地下鉄の浅草駅では、金髪の御蔭で、すぐに加奈を見つけることができた。今日の服装はショートパンツではなくキュロットスカートで黒のオーバーニーソックスにレザーのショートブーツを合わせて、カーキ色のショートジャケットを羽織っていた。
裕人が驚いたのは化粧で、合コンのときとはアイメイクやチーク、ルージュも変えて、岩倉智子に似せていた。もともと加奈の顔は、智子と比べれば幼く、顔の輪郭も違うのだが、目は大きくて、鼻筋も通っているので、メイク次第で智子に近づけることができるらしい。
「こんにちは、うわー!里中さん、本当に来てくれたんですね。
今日は、よろしくお願いします。
ボク、昨夜は興奮と緊張で、あんまり寝てないんです。
ベッドに横になってから、ドタキャンされるんじゃないか心配になって、
何度もパソコンと携帯のメールチェックしてました」
「いやいや、約束したんだから来ますよ。
今日も素敵なファッションだけど、それもノリちゃんのコーディネート?」
「そうなんです。里中さんが騙した中学生を連れ回す悪い大学生に間違えられて、
警官から職質されないようにってノリ坊が選んでくれました。
さすがにこの前の恰好じゃ、昼間は恥ずかしくて歩けないですよ。
里中さんは、どっちが好きですか?」
「どっちも良いけど、今日のデートには、そのファッションがピッタリかな。
メイクも、この前とは雰囲気が違うよね」
「初デートのために、今朝、ノリ坊にやってもらいました。
昨日の夜からボクの部屋に泊まりこんでて、化粧の乗りが悪くなるから、
早く寝てって何度も怒られました」
ああ、成る程。ノリちゃんの仕業か。それなら納得だ。彼女は岩倉智子を知っているもんな。あの策士め、巧みに人の弱点を突いてくるな。神大路さんが、まるで中学生になった岩倉智子みたいに見える。これは、かなりヤバい。
「ノリ坊は、絶対に里中さんに気に入ってもらえるメイクって言ってたけど、
どうですか?合コンのときと、どっちがいいですか?」
「いやいや、もう断然、こっちで」
「あー、良かった。じゃあ、ノリ坊にメイクの仕方を教わって、
これからは、これにしますね」
そんなことされたら、かなり気持ちが揺らぐなと思いながら、裕人は期待していた。
まずは浅草寺の仲見世通りの散策からと雷門をくぐったところで、加奈が「手を繋いでいいですか?」と裕人の左手に軽く触れてきた。握り返してあげると嬉しそうだった。合コンで会ってから5日しか経っていないが、あのときよりも確実に笑顔が素敵になっている。
平日なのに、それなりの人出がある仲見世商店街を抜けて浅草寺へ。参拝した後に花屋敷遊園地に寄った。道すがら加奈は浅草が舞台となった小説の話をし始める。
谷崎潤一郎の「痴人の愛」でナオミが働いていたカフェや江戸川乱歩の長編小説「闇に蠢く」の胡蝶が踊っていた見世物小屋も浅草の設定で、あの頃は浅草が今の渋谷や六本木みたいな存在だったと裕人に教えてくれた。
昭和レトロな外観の喫茶店の前を通ったとき、加奈が「うちの実家の近所にも、こんな感じの昔からやっている喫茶店があって、ボク、そこのプリンアラモードが好きだったけど、この店にありますかね?入ってみませんか?」と言うので休息することにした。
意外に広い店内には洋楽の有線放送がBGMで流れ、お喋りに夢中な御近所の主婦グループやサンドイッチを食べている上品なシニア夫婦、一人でスポーツ新聞読んでいる老人など下町の喫茶店らしい雰囲気だった。
店に入る前は、開業時から働いている志村けんのコントみたいな老婆のウエイトレスがいると裕人が冗談を言うと加奈が大笑いしてたが、予想は外れて、彼らと同年代のバイトらしき若い女性が「いらっしゃいませ」と言いながらメニューを持ってきた。
お目当てのプリンアラモードはちゃんとあった。プリンとバニラアイス、カットフルーツがたっぷりの盛り沢山な内容で、加奈は一人では完食できず、二人でシェアした。
途中、店内BGMで、ベット・ミドラーのThe Roseが流れたとき、加奈がポツリと「愛とは満たされない渇望ね」と呟いて涙目になったので、裕人が「どうしたの?大丈夫?」と尋ねると、大丈夫だと返事をして教えてくれた。
「The Roseは何十回も聞いてて、今まで何ともなかったのに、
里中さんの顔を見ながら聞いてたら、急に歌詞が刺さって。
気持ちの変化ですね。自分でもびっくりですよ。
これ全部、里中さんのせいですからね。
責任とって、これからもボクと会ってくださいよ」
加奈は英語の曲の歌詞が聞き取れることを裕人は思い出した。The Roseは1970年代末の名曲で、多くのアーティストがカバーしており、裕人も歌詞の大意は知っていた。この子は、折々に自分の気持ちをアピールするんだなと裕人は思った
喫茶店を出たら、秋の陽が大きく傾いていた。ああ、もうこんな時間か。初回のデートだから、早めに切り上げて帰ることにしよう。
「夕方なので帰りましょうか。駅まで戻りましょう」
「あの、里中さん、急な話で御免なさい。今日、ボクとディナーに行きませんか?
本当は会ったらすぐに、お願いしようと思っていたけど、言い出せなくて。
お店は、もう予約してあるんです。いつも父と利用しているロシア料理店で、
ここから歩いて、すぐです。ボク、今日はどうしても里中さんと
コース料理を食べながら、二人っきりでゆっくり話したいんです」
加奈の得意技の潤目でお願いされた。21歳の女子大生は、19歳の大学一年生に初回のデートでコース料理のおねだりをするのか。裕人は悩んだ。
ロシア料理のディナーコースって一人5000円から8000円くらいか?それだけなら手持ちで何とかなるけど、神大路さん、きっとワインを飲むだろうから、グラスならともかく、ボトルで注文されたらアウトだな。こっちだって準備があるから、そういう希望は事前に言ってくれよ。彼は心の中で叫んだ。