唇
公務員試験は難しい。
でも、受かってしまえばこっちのものだ。
彼はここ数年ずっとこの言葉を頭の中でグルグル回している。
大学卒業後、容姿端麗だった彼はモデルに誘われた。
が、断って今も公務員試験を受け続けている。
親は逆にチャレンジャー気質で、
「せっかくイケメンに産んでやったんだから芸能界とか、どうなの?」
などと言ってくる。
あんな年金もおぼつかない業界に何で入らなきゃならないんだ。などと思っていたのも数年、公務員試験は倍率が高く、自分は案外頭が悪いんだな、とやっと悟った。
しかし、芸能界にも年齢制限があるらしく、あの時はしつこく誘ってきたモデル事務所に
「君は中途半端に若いんだよなぁ。」
と、断られた。
「あなたに向いてる何かがあるはずよ、今は私がいるから気にせずやりたい事を探して。」
というのは学生時代からつき合っている彼女だけである。
二人のなれそめは彼女の猛烈なアタックである。
美人と言う訳ではないが、とにかく尽くしてくれる優しい女だ。
長年同棲しているけれど、自分はご飯を作ったことがないし、片付けをしたこともない。
掃除?洗濯?なにそれどうして俺がしなきゃいけないの?
久しぶりの友人からの誘いに、彼女からおこずかいをもらって、夜の街に出かけた。
社会人に慣れてきたところの友人らと、彼は微妙に話が合わなかった。
トイレ、と言って出ていくと、きれいに化粧をした小柄な女がついてきた。
「先にどうぞ。」
と、ゆずろうとすると、ありがとうございます、と言った後で彼に近寄り小声で言った。
「県庁人事部長。」
目が開いた。
「私の父です。」
尿意が引っ込んだ。
「私と結婚して、身内になりませんか?公務員試験で苦戦してらっしゃると聞いています。地方公務員はコネが命だって、もう分かっているでしょう?」
二人は宴の席に戻らなかった。
そして、翌日彼は彼女に別れを告げた。
よほどもめるかと思ったが、あなたの進む道の邪魔になるならとアッサリ了解した。次の日には彼は出て行った。
その後のスピード結婚。公務員試験合格。女は妻となり子どもを二人産んだ。
義父のおかげで出世も早そうだ。これこそが自分が望んだ道。
しかし義父と妻には頭が上がらない。
下手に容姿が良いので役所のイクメンパパのイメージキャラクターに選ばれてしまった。
慣れない家事もしなくてはならない。義実家は当然だという顔をする。
そんな日々の中で、ふっ、と彼女を思い出した。
俺が命の女だった。
今頃どうしているだろうか。
吸い寄せられるように二人の住んでいたアパートに向かい、ドアをノックすると、彼女が変わらない柔らかい笑顔で
「あら、急に来るからご飯が足りなくなっちゃう。」
その分おかずを増やすわね、とてきぱき台所に向かった。
そうだ、自分で魚をさばいて刺身が作れる女だった。
ビールも自分の一番好きな銘柄を出してくれた。
満腹で、満足だ。
今日は忙しかったので眠くなってきた。
別宅に良いな……。
***
「二件目の死体?」
不動産屋の息子が親父に聞きなおす。
「一件目が、彼氏に振られて落ち込んで、不安定になって亡くなられた女の子だろう?二件目はその女の子のね、元彼氏なんだよ。もう別の人と結婚していたんだけど。鍵もかけていたのに、何であの部屋にいたんだろうね?血だらけでハウスクリーニングが大変だった。何より気持ち悪いのが……」
見たくもないもの見ちゃった、と親父がぶるぶると震える。
「その彼氏が三枚におろされていたところだよ。そして、彼氏の唇の部分に……控えめなピンクベージュのくちべにがついていたんだ。キスされたようにね。」