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ジンタイモケイ抄  作者: 押野桜
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あれが一体何だったのか、今でも私には判らない。


夏のサークルのキャンプの事でした。

缶チューハイを飲んで、花火を楽しみ、良い気分になって砂浜にごろんと転がっていたのです。

誓って言いましょう、色気などなかったはずです。

裾を折った長いデニムをはいて、Tシャツの上には寒さよけのカーディガン。


「お前、だらしねぇなぁ。」


先輩がビールを片手に現れ、隣りに座りました。女関係で良い噂を聞かない先輩です。

それなのに私は完全に酔っていました。うかつでした。

先輩が私にのしかかり、手足をホールドしたことに気づかなかった。

ファーストキスを奪われて、初めて事の重大さに気付きました。


「嫌です、止めて下さい、みんな、みんな助けて……!」


大声で叫んだつもりがかすれた声が出ただけでした。

こういう時、何で人は委縮してしまうのでしょう、武道でもやっていればよかったのでしょうか。

ただ涙が出ました。

その後噛みつくという対処法を知りましたが、その頃はそんな知恵もなかった。


その時。

ゴツッ、という重い音がして、先輩が吹き飛びました。

筋肉とか、そういう事にうとい私でも、この腕はただ者ではないと思いました。

私の足などよりも太い、ひじから下だけの二本の腕。

先輩は馬乗りにされ、ボコボコにされていました。


「ヒィーッ、すみません、もうしません!助けて、たすけて……!」


部活の女の子たちが何人も被害にあってきました。

殴られて当然だ、と思いながら眺めていると、腕が私の方を向きました。

私もあんな風にされてしまうのだろうか、痛いのはイヤだ、こわい……。

……血まみれの手は、私のおでこを、ぴん、と跳ねました。

まるで、


(これからは注意するんだよ。)


というように。

そして手を振ってぶるぶるっと血を飛ばすと当然のように私の左手に腕は右手をつないできました。

ひじから下しかない腕と手をつないでサークルのみんなの所に帰るなんて、何と言われるだろうとおびえていましたが、みんな気づかないようでした。


そうして、私と腕の奇妙な生活が始まったのです。

腕は家事が上手く、私が試験やレポートなどで取り込んでいるとさりげなくご飯を作ってくれたり、掃除をしてくれたりしました。

特に炊き込みご飯がおいしかった。

二人で後片付けをしながら、私達は似合いの存在かもしれないと思い始めたのです。


そんなある日。通勤・通学ラッシュのメトロの中。

中年男性の手が、私のスカートの後ろに当たっています。

チカンされているのだ、と気付いた瞬間へたり込みたいほど恐怖を感じ、何もできなくなりました。

声すら、出ない。

その瞬間。

男の手が私の尻から離れると勝手に上がってチャンピオンポーズのようになりました。


「ちっ、チカンです!」


呪縛が解けたように私は叫びました。

その後は警察に届けたり、名前を控えられたり、(そんなに短くもない)スカートの長さを叱られたりしました。


「で、この人をつかまえた人は?」


と、警官に聞かれ、


「何も言わずに去ってしまって……。」


と、言うしかありませんでした。

腕が捕まえたんです、とは口が裂けても言えなかった。

腕は私を守ってくれる。

でも、この腕とどこまでいけるのだろう。

身元証明すらできない腕と。

不安は腕に移ったのでしょう、帰りの道々私の左手を握る腕は弱々しげでした。


白状しましょう。

私は腕に恋していました。

手を握る腕をいったん外し、胸に抱え込みました。

もう一本の腕が現れて、胸の間に滑り込みました。

私達はお互いの体温を感じながら歩いて帰りました。


腕と夜を過ごす。

シュールな言葉ですが、私達はまさしくそのような事をしていました。

腕に可愛いと思ってもらいたくて、洋服や小物も気を使うようになりました。

そんなことをしていると、変な輩が湧いてくるのはどうしてでしょう。

丁重に謝ると引きさがるのですが、なかには、


「彼がいないのにそんなにめかしこんで、男が本当は欲しいんでしょう?」


などと言う人が出てきました。

彼をストーカー男と呼びましょう。

私の授業の教室を調べ上げ、外で待っているのです。

以前の私なら何もできなかったでしょう、けれど今の私には腕がいます。

腕に左手を握ってもらいながら、


「何度言えば分かるんですか、迷惑です。ストーカーで接見禁止令を出してもらいますよ。」


と、言い続けました。

けれど彼は私の言葉を聞かず、家を調べ上げ、エントランスで座って待っていました。

もちろん無視しました。

腕に肩を抱いてもらいながら、私は裏の非常階段を上りました。そして、とうとうある日捕まってしまったのです。


それは、人気のない夜の通学路でした。

男の手元がやたらぎらぎらする、と思ってよく見るとそれは包丁で、私は一気に腰が抜けました。

腕は私を優しく座らせると、ストーカー男に向きなおりました。

ガゴッ!

腕がストーカー男の顔を殴りました。


「なんだこれ?!」


ストーカー男の顔が腫れ、鼻が折れている様子なのが見えた時、正直すっとしました。

しかし。

ストーカー男の持っていた包丁が片腕を刺すのを見ました。

片腕が捕らえられて刺される、ざくざくという音が聞こえるようです。

かまわず、もう一方の腕はストーカー男のあごを殴りました。

今まで声をかけた事のなかった腕に、生れて初めて出すような大声をかけました。


「やめて!帰ってきて!」


ああ彼は死んでも私を守ろうと思っていると気付いたのです。

ストーカー男は叫びました。


「なんだ、これ!?」


腕です。

腕が彼の体を縛り、首を絞めるのが遠くの街灯から見え、うめく男の声が、だんだん小さくなってゆくのが聞こえました。

私は一言も出せず、腕をただただ待ちました。

戻って来た腕は血だらけでした。

私の頬をいとしげになでると、どっと足元に落ちました。

血の付いた頬の私が残されました。

私は帰ってきてかえってきてと言いながら腕を抱えて泣きじゃくりました。


***


「おかあさん、ブランコしてきていい?」


いいわと言うと3歳の息子が嬉しそうに駈け出します。

晴れた公園に気持ちの良い初夏の風が吹いています。

私はあの日泣きながら腕を埋めた木の下で息子を見ながら読書をしているところ。

左手の薬指に指輪をはめる時にあった抵抗感もだんだん薄れてきています。

私の左手は永遠にあの腕のものだけれど。


あれが一体何だったのか、今でも私には判らない。


だけど、ふとした瞬間、感じるのです。

腕を探す、私の意識を。

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