入場
「ふぅん?自分で束縛から逃れて魂ごと消滅、かぁ?あっけないなぁ……それに、本当につまらない」
仲間の四肢を切って落とし、行動不能にしていくドグマ。少なくとも、自分が知っている限りネロは死体の修繕能力はなかった。だから、生きている者と同じ形で、戦闘不能にできるはずだった。
どこまでも落胆した響きの声が、仲間の体に刃を立てるドグマを苛立たせる。思えば、ネロという人間は最初からどこかおかしかった。初めて会った時から——
「初めて……」
最初にシンカー候補者の中にネロの姿を見たとき、自分は既視感を覚えなかったか?自分は、ネロの顔に誰かを重ねてみなかったか。過去にあった、誰かを——
「ネロ、お前、あの時森にいた……」
思えば、あの少年とネロは髪や瞳の色が同じだった。それに、確か自分のコードネームを「対魔」にするべきだと言ったのも、自分が人殺しから遠ざけられる原因を作ったのは、ネロではなかったか?
「あは、ようやく気付いたの?おめでとう!実に6年越しの正解だよ」
無表情で落胆を訴えていたネロの表情がころりと切り替わる。歓喜に頬を赤らめ、目を潤ませるその姿はかわいらしい外見も相まって恋する乙女のようで、そんな振る舞いをして見せるネロに、ドグマは吐き気を覚える。
「そうだね、ご褒美として情報をあげよう!——僕が、暴君帝ベインツィヒだよ♪」
「……は?何を、言っている?」
「うんうん、理解したくないって顔だね。実にそそるよ……もう一度言ってあげようか?僕が、暴君帝ベインツィヒだよ?君をシンカーに選んだのも僕。クソアメリアの妹家族を殺させて首を届けさせたのも僕。シンカーに帝国の村を襲撃するように命令を出したのも僕。シンカーを戦犯者として指名手配したのも僕、暴虐帝ベインツィヒであり、平和帝ネロだよ♪」
もはや、思考は停止していた。ドグマの足が止まり、その体にシンカーのメンバーが牙をむく。攻撃はけれど届かず、飛来した雷魔法により、その体が吹き飛ばされる。
「ドグマ!」
帝国騎士との戦闘を続けていたリーリエの補助に、ドグマは正気を取り戻す。だが、聞かずにはいられなかった。尋ねずには、いられなかった。それは、自分たちを含めこの大陸に住むすべての者を、ネロが弄んだということで——
「理解できないって顔だよね。まあ仕方がないのかなー?皇帝ベインツィヒは、とっくに死んで僕の僕になっているからね。ついでに帝国上層部の貴族は、みぃんな僕の下僕だよ♪僕の遊びに付き合ってくれる、大事な大事な、ね?でも、下僕よりも道化のほうが僕は好きなんだよ。クソアメリアは面白くなかったけれど、君は特によかったよ。そうだね、クソアメリアの最後なんか傑作だったよね。『ドグマはアメリアから逃げること』、そう魔道具に命令を書き込んだら、君が泣きながらクソアメリアから逃げていくんだからね!ねぇねぇ、あの時どんな気持ちだった?人を殺そうと決意しておきながら、体がクソアメリアから離れていったあの時、クソアメリアを見殺しにして一人生き延びたあの時、一体何を感じたのかなぁ?ねぇねぇ、教えてよ?」
「……お前が、お前が、アメリアの名前を呼ぶんじゃねぇッ」
ゴウ、と大気が切り裂かれる。ネロが、暴君帝だった?もう、今更な話だ。
ネロはシンカーの裏切り者。それが、大陸に住むすべての人間にとっての裏切り者になったに過ぎない。腹立たしいが、それはドグマにとってもはや心が動くに足るものではなかった。
だが。だけれど。
ネロの「遊び」でどれだけアメリアが傷ついたか。どれだけアメリアが悩み苦しみ、そして死んでしまったか。それを、遊びだと嘲り、クソアメリアなどと抜かす目の前のごみが、なぜ今も存在するのか。
すでに死体となっていて、ドグマが気が付いたからか息をしているふりすらやめたネロという男が、なぜこうして笑っていられるのか。なぜ、ネロが存在し続けることを自分は許しているのか。
この世界に、ネロなど不要だ。
全身全霊を込めた一撃が、目の前のシンカーの仲間とネロ、そしてその背後の建物を吹き飛ばした。
二撃目。ネロを守る「フォートレス」へと、再び全力の攻撃を放つ。ゼロ距離の一撃が、彼の籠手を叩き壊す。オリハルコンという強固な金属は、フォートレスの技量も相まってドグマの攻撃をそらすことに成功した——が。
地面にぶつかった剣が、跳ね上がる。魔物を殺すために、なぜドグマが長剣などという刃渡りが「短い」得物を使っているのか。それは連撃を重視したからである。魔物退治に最も好まれるのは大剣で、次がハンマー。硬い外骨格も、うろこも、切れなくともそれ事つぶすか内部に衝撃を与えれば、魔物は倒せる。だから叩き潰す大剣や、内部まで衝撃を届かせうるハンマーが好まれる。だが、魔物の中には俊敏性に秀でた個体もいて、そしておびただしい数の魔物との戦闘の末、ドグマが相棒に定めたのが長剣だった。
程よい刃渡りと、何よりドグマの膂力をもってすれば剣の動きを突如変えることも可能なその長さを重さを、ドグマは選んだ。そして、その技量は6年の従軍期間で昇華された。
まるでそこに壁があるように、突如壁にぶつかって跳ね返ったように、ドグマの剣が異様な鋭角の軌跡を描く。次の一振りでフォートレスのもう片手を砕き、二振り目で片膝を砕き、三振り目で最後の足を破壊する。
斬られたというよりはひしゃげた有様なのはさすが世界一の高度と呼ばれるオリハルコンを贅沢に使った鎧だけはあった。
人類最強に足を引っかけたドグマの、その剣をもってしても致命傷に至らないのだから。
フォートレスの体が、地面に崩れ落ちる。それを合図に同時に跳びかかる残りのシンカーメンバーは、ただの一振りで吹き飛ばされ、その腕や脚があらぬ方向に折れる。
余波で建物がもう一棟倒壊する。土埃が舞い、ネロが衝撃を隠しきれない表情でドグマを見る。
「なんで……なんで、どうやってそこまでの力を手に入れたんだよ⁉どうすれば、そんな力を得られたんだよ⁉ありえない、あり得るはずがない。僕は、最強になったはずだ……すべてを手に入れる力を、不老不死すら手にしたはずだ……」
演技がきれたネロが独り言を続ける。ゆっくりとドグマが一歩を踏み出せば、その動きに合わせネロの体が震える。
ざり、と尻もちをついたネロの体が、後ろに行く。
「そんな、そんなわけがない!僕は最強だ!平和帝ネロは、虐殺集団シンカーを討伐する最初の功績とともに、華々しくこの大陸に君臨するんだッ!」
強烈な光が、瞬く。そこに、ドグマは手を出さない。ただ、ネロのすべてを踏みつぶしたうえで、叩き破ったうえで、その首を跳ね飛ばしてやると、その魂までを切り刻んでやると意気込む。そのことを感じ取ったネロが、頬を引きつらせながらもそれらを呼び寄せる。
「……やっぱり、従えてやがったか」
ネロの体が、上空に浮かび上がる。否、足元に呼び寄せた死体の、頭部に乗ってドグマを見下ろしていた。
『ギィエエェェェェッ』
いくつもの咆哮が、帝都に響き渡る。巨大な、凶悪な魔物たちが、ネロの手で姿を現していた。
「懐かしいな……ミュータント・キング。それに、どいつもこいつも、俺が殺した魔物だよな」
アメリアの命令によって排除していた、凶悪な魔物たち。死後ネロに使役されたそれらが、帝都に解き放たれ——
「邪魔なんだよ」
ロケットのように飛び出したドグマが、空中で剣を振る。さび付いたその刃は、けれど少しも衰えない。
ふっきれたドグマとネロの相性は、ネロにとって最悪に近かった。死人は容赦なく切り裂かれ、凶悪な能力を誇る、死して弱点などなくなった魔物たちもあっけなくその数を減らしていく。それが、対魔。それが、ドグマという人間だった。
魔物を殺し続けた男に対して魔物で抵抗する。それはひどく愚かしい、無意味な行為の——はずだった。
「——ッ⁉」
ドグマの刃が、鈍る。否、ドグマ自身が、その刃の軌跡を変えた。魔物をかばうように飛び込んできた、その少女を傷つけないために。
「何を、している……そこをどけ、リーリエッ」
両手を広げ、ドグマの歩みを止めるリーリエ。その頬を涙が伝う。それから、スッと瞳の光が落ちる。そこに一切の表情はなく、けれど巌のように、地面に根を張った大木のように、ドグマの強烈な殺気を浴びてもひるむことなく立ち続ける。
「……どけッ」
吹き飛ばす勢いで、側面をぶつけるように剣を振るう。
その、はずだった。
体が、動かなかった。
指の先も、足の一歩さえも、まるで自分の体が自分のものではないように、その命令を拒む。かろうじて動いた視線だけで周囲を見回せば、視界に入る全ての人が、静止していた。それはまるで時が止まったかのようで、けれど魔物だけが、あるいはネロに操られた死体だけが、確かな活動を続けていた。
『キィィィィィィッ』
甲高い音が、この場で最大の生き物だったそれから放たれる。啼いていた。何かを渇望するように、何かを嘆くように、悲痛な音を響かせる。
それ——ミュータント。キングが、悲鳴を上げていた。
「ふふ、ふふふふふふ?いやぁ、楽しいねぇ。それに、思い出すだろう、ドグマぁ?さすが二度目だね。多少は耐性が付いているのかな?クソアメリアには効かなかったからねぇ?」
ネロの、嘲りが聞こえる、異形のミュータント・キングの長い首の先にある頭部に乗った彼が、嗤っていた。見下ろす世界が、掌中にある高揚感に包まれながら。
「な、にを……何をしたッ」
自らの肉体を無理やり動かしたせいか、口の中に血の味がにじむ。それを無視して、ドグマが吠える。
「そうだね。種明かしをしようか……僕がただの考えなしだとは、対魔の君に魔物をぶつけるほど我を失っていたとは、思ってほしくないからね。この子は、僕のお気に入りなんだ。死してなお、その存在を高次元のものへ昇華することに成功した、カオスミュータント・キング。死を越えて進化したこの異形の王はね、なんでも、飲み込めるんだ。生物だけじゃなく、なんでも、ね。そして、取り込んだそれを己の体の中で再構築して、その力を自らの物にすることができるんだよ。そう、例えば、精神支配の魔道具とか、ね?」
ドグマの息が、止まる。それは驚愕からか、あるいはネロがそう、精神支配の魔道具の力を宿した魔物に命令を刻んだからか。
「ふざけ……るなッ、あれは、俺が壊したッ」
ふわりと、質量を感じさせない動きで、ネロがカオスミュータント・キングの頭部から降り立つ。身動き一つとることができないドグマの周りとゆっくりを歩きながら、当時のことを思い出すような響きを持って、告げる。ドグマに絶望を届けるために。その悲鳴を、その後悔を、絶望を、楽しむために。
「うん、そうだね。ただし、真っ二つにしただけだ。当然部品は壊れていたけれど、その内部の機構は、ミュータント・キングの復元力が再現できるほどには壊れていなかったよ。馬鹿だよねぇ?たかが二つに割っただけで、その存在を葬ることができるなんて、そんなわけがないじゃないか。だから、ありがたくいただいておいたよ。ねぇ、どんな気持ちなのかな?自分の失態が、クソアメリアを殺して、こうして今、自分の命も失わせようとしているというのは?……ああ、そうだった。君は、自分より周りの大切な人が傷つくのがつらいんだったね?」
跳ねるようにがれきが散乱する地面を飛び、倒壊した建物を飛び越える。発生した火災の光に照らされた、時間が止まったように人間が動かぬ世界で舞うその姿は、ひどく幻想的だった。
火の粉の中を舞ってカオスミュータント・キングの元に戻ったネロが、その手を振れる。幻想的で、それでいてひどく無機質な冷たい銀色の光が、彼の手からあふれ出し、数多の魔物を取り込み肥大化した肌に銀の文字が刻まれていく。
「さぁ、踊り狂いたまえ、祝いたまえ!新たな門出を、世界を手中に収めた、偉大なる皇帝の伝説の序章を!」
「や、めろ……やめろぉぉぉぉぉッ」
絹のように白く滑らかで、女性らしいほっそりとした首。それに、手がかかる。リーリエの両手が、自身の首を絞める。ゆっくりと、真綿で占めるように、少しずつ、少しずつ、その命の終わりが近づいていく。
涙が、頬を伝った。怒りが超過したドグマの、そして、精神支配にとらわれた、リーリエの心が、悲鳴を上げていた。
パチ、と火花が散った。それを合図とするように、ぎりぎり倒壊を免れていた建物が、爆発した。盛大な炎が燃え始め、そして、轟音が轟いた。
「あああああぁぁぁぁッ」
手足の血管が、裂ける。骨が軋み、異様な音を立てる。ざり、とわずかに足の裏が地面をこする。
ほんの一歩、それを皮切りに、ドグマの体が地面へと倒れこんでいき——
強烈な速度を持って、走り出す。
吹き飛ぶがれきが、リーリエに当たるその前に。苦楽を共にした新しい「仲間」を守るために、ドグマの体が、その束縛を越える。
精神支配の魔道具に侵されながらも、狂おしいほどに望んできた、仲間を救う行為。それを果たすために、その殻が破かれる。その体が、動く。
「ッ、どこだ⁉まさか、この程度のことで死んじゃいないだろうね⁉もっと、もっと踊ってよ、ドグマ!」
爆発にとびこんだドグマの体が、ネロの視界から消える。共有する死体の視界にも、ドグマの姿は入らない。
消えた。消えてしまった。
最高傑作のおもちゃが、姿を消した。その事実はひどくむなしく、けれどネロの心には確かな確信があった。
「待っててね、ドグマ?必ず見つけてあげるよ」
ドグマが消えた場所を、カオスミュータント・キングの足が踏みつぶす。取り込んだがれきの先、まるで鋭利な刃物に切り裂かれたようにぽっかりと空いた暗い穴を見つけて、ネロがどう猛な笑みを浮かべた。
走れ、走れ、走れッ。
さび付いたように動きにキレがない、足へ、何度も繰り返し命令する。精神支配の魔道具の効果は、未だにドグマの動きを、そしてリーリエの動きを縛っていた。首へ運ばれ用とするリーリエの両手を、体の後ろで縛り上げる。その行為もまた、不自由さの残る手ではひどく難解で、そしてそちらに集中すれば足場がドグマに牙をむく。
水と苔でひどく滑るそこは下水道。増築に増築を重ね、もはやその全容を知る者はいないとまで言われる人造の迷路に、ドグマは飛び込んでいた。暗闇に慣れてきた目が、少しずつ周囲の様子を観察する。耳に聞こえるのは自分の足音と、二人分の呼吸音、それから流れる水の音だった。とはいえその静寂も、すぐに破られる。
「ドグマくぅ~ん?」
遠くで轟音が、そして、下水道中に響き渡るような、悍ましい呼び声が聞こえた。自分たちの逃走経路がばれたのを、ドグマは瞬時に察知した。
炎からリーリエを守るため、とっさにドグマは足元の地面を切り裂いた。それは半ば賭けで、だが幸運にも真下に存在した下水道へ、ドグマたちは非難することに成功した。
そして、精神支配の魔道具の支配下で、ドグマは走り続ける。無尽蔵に広げられた迷宮を、その先へ。
遠くから破壊音が響く。それが、ネロが自分を追っている音だということは理解できた。カオスミュータント・キングとやらが近づくほどに、自分の体の制御が利かなくなるのを、ドグマは感覚的に理解し始めていた。つまり、魔道具から遠いほど、精神支配を受けにくくなる。
だから、走り続ける。当初目指していたその場所へ。リーリエの墓参りとともに目指していた目的地、それが幻想だとわかっていても、そこ以外に希望などないのだから。
走るその先に待つのは、ダンジョン。空間がねじ曲がっている摩訶不思議なそこへ
入ってしまえば、精神支配の効果を受けない。そう、確信があった。
そしてそんなドグマの考えは、ネロには手に取るように分かった。伊達に、6年という時間を共有していないのだから。
「……埒が明かないね。先回りしようか」
帝都は、ネロの庭だ。当然、現在位置からダンジョンがどの方向に、どれくらいの距離であるのかくらい、手に取るように分かった。だから、その道を塞ぐ。それをもって、ドグマをあざ笑う。自分に翻弄されるドグマが、それでもまだ自分に立ち向かってくるのか、その先が分からず、だからこそネロは楽しかった。
もう、この世界で明確な敵はドグマしかいないと、自分の敵にはドグマしかなりえないと、ネロはそんな直感を抱いていた。——その「敵」という言葉は、ただの「遊び相手」を意味する単語でしかない。
「ふふ、待っててね。今、絶望させてあげるよ」
だから、何度だって立ち上がればいい。その度に傷つき、何かを失いながら、その先に彼がどこへたどり着くのか。きっと、そこに自分が渇望し、自分が手に入れることができなかったものが、ある気がするから。
それがなんだったか、ネロにはもうわからない。
「ッ、今、どこだ⁉」
入り組んだ迷路は逃走には最適で、そして目的地へ向かうための経路としてはひどく不適格な代物だった。迷路はまるでドグマの進路を阻むように折れ曲がり、その行き先を変えさせる。もう、どちらの方角に向かって走っているのかも怪しかった。
もともと、ドグマにとって帝都の土地勘などないに等しいのだから。
それでも、走った。聞こえなくなった破壊音がひどく不気味で、それが一層ドグマを急かす。今が、チャンスだと、全身が訴えていた。そして、再度踏み出された足は、突如そこで静止する。
「……誰だッ⁉」
ふわりと、白い影がドグマの前を通った。叫んでおいて、ドグマはすぐにそれが魔物の、レイスの類だと当たりを付けた。こんな薄汚れた場所で純白の存在を目にするなど、自分の目が狂ったか、さもなくば死霊の類のはずだった。
走り出したドグマの視界の端に、再度ふわりとナニカが舞った。白く長いそれは、おそらく髪。まるでドグマの視界にわざと入っているようなその何かを、気が付けばドグマは追い始めていた。
髪しか見えなかった相手の、足が視界に入る。手が眼に映る。後姿が見える。そうして、気が付けば両者の間はほとんどなく、そして真っ白なコートを着た人物が、ゆっくりと振り返る。
白髪に、同じくらい白い肌と服。その白に映える月と同じ色をした冷酷な緑の虹彩と金色の瞳が特徴的な「彼女」は、死霊などではなかった。呼吸によって胸が上下し、頬には血が通っていた。子どものようで、大人のようで、年老いた老婆のようで。それが、静かに微笑んだ。赤い口が弧を描き、次の瞬間にはその姿が掻き消える。
だがドグマは、その存在が確かに膨大な魔力を放ち、何かをしたのを感じ取った。おそらく、転移の力。シンカーの一人が持っていたその超高等技能を息をするように使って見せる存在。
それに意識を向ける余裕は、ドグマにはなかった。
消失した女性の背後に、ぽっかりと穴が広がっていた。暗く、一切の光を吸い込むような大穴が、広がっていた。直感が、告げていた。あれは、ダンジョンの入り口だと。
かつて見た、整備されたダンジョンの入り口とは明らかに違うそこへ、けれどドグマはためらうことなど足を進める。気が付けば、体は軽く、自由を取り戻していた。
ゆらり、と膜のようなものを通過した感覚があった。その次には、ドグマと、その腕に抱えられたリーリエはうす暗く湿った大地に立っていた。
そこは先ほどまでとは異なり、悪臭一つない場所で。
ドグマとリーリエは、あっけなくダンジョンに踏み込むことに成功した。