裏切り
水の都レティシアにおける動乱は、瞬く間に収束した。冒険者ギルド支部長率いる冒険者たちの勇猛果敢な戦いにより、死者こそ出たもののその被害は軽微なものに収まった。
そしてこの一件は、レティシアの住民に、そして居合わせた事情を知る者たちに、帝国に対する不信感とネクロマンサーに対する強い怒りを根付かせた。
だが、そんなことはドグマとリーリエには関係のない話で。
二人は、追手から逃れる日々を続けながら、敵の本拠地である帝都に侵入するための準備を進めていた。リーリエの墓参りと、帝都に眠るダンジョンの最奥にあるといわれる理想郷に至るために。
本当のところは、ドグマもリーリエも、理想郷なんてものがあるとは思っていなかった。理想郷など、この世界に存在するに程遠い代物だと、二人は思っていた。世界に、救いはない。あるのは現実と、残酷なまでの真実だけである。希望なんて、どこにもないのだ。
ネクロマンサーとの接触は、二人を残酷な現実へと引き戻した。リーリエの両親の死と、ネロの裏切り。それは今の二人を作り上げた忌まわしき過去で、だからこそネロは明確な二人の敵となった。
復讐に燃えるのは、リーリエだけではなかった。
「行くぞ」
返事はなかった。必要も、なかった。
度重なる襲撃を乗り越えた二人は阿吽の呼吸で、帝都城壁をくぐる。魔力感知をする魔道具が備え付けられた城壁は、けれど魔力を使うことなく、そして魔力放出をほとんどすべて防ぐ魔道具を身に着ければ、越えられないものではなかった。
すべてのものには魔力が宿る。たかが鳥一羽が帝都に入ったことで侵入者だと感知する魔道具など愚物で、だから鳥ほどに魔力量を抑えたドグマとリーリエは、鍵縄を使うことで実にあっけなく帝都への侵入を果たした。
「……変わらないな」
リーリエにとっては初めての、そしてドグマにとっては二度目の帝都。昼夜絶えることなく喧騒が響き続ける眠らぬ街。そこは今日も、世界のどこかにあふれる不幸に目を向けることなどなく、幸福に満ちた人々がいた。
帝都に、貧民街はない。暴君帝の政策から逃れるために弱き者は死を覚悟で帝都から逃げ、そして今の平和帝の下で、元貧民地区は刷新された。帝都に、影は消え失せた。
道行く雑踏の中に一度足を踏み入れてしまえば、ドグマとリーリエに注目するものはいなかった。帝国の中心。政治の中心地にして経済の中心地でもあるここは、訪れる旅人は数多存在し、二人はその中のただ二人でしかなかった。
ただ、時折二人をいぶかしげに見るのは、おそらく優秀な冒険者の類。二人から漏れ出すわずかな殺気を感じ取ったらしいその者たちは、けれど二人に接触することはなく人ごみの奥に消えていく。
「——リーリエちゃぁん?」
始まりは、突然だった。おぞましいほどに狂った、歓喜に満ちた声が喧騒の中においてもリーリアの耳に、そしてドグマの耳に届いた。
それは、聞き間違いのない、ネロの声だった。慣れ親しんだ戦友の、声だった。
ゆっくりと——いや、あるいは緊張感から視界がゆっくりと動いていただけで、ドグマの動きは実に素早かったが——振り返ったドグマの視界に、彼は現れた。
長い銀髪を腰あたりまで下した、紫紺の瞳をした男。透き通るような白い肌をした少年とも見まがう線の細い彼は、シンカー最年少であったドグマの次に若い、そして戦場においてシンカーの誰よりも戦果をたたき出した男。
彼の姿に感じたわずかな違和感は、けれどそれを上回る怒りと、腹立たしくも懐かしい思いでかき消される。
敵味方の死体が積み重なるほどに、彼は力を増し、彼の僕たる死者が敵に牙をむいた。雪崩のように、一度崩壊した戦線は、そうしてすべて屍の海に飲み込まれていった。
大量の死体の処分に悩んだ彼が、実に気安い声で放った声を、言葉を、ドグマは今でも忘れない。脳裏にこびりついたその後に続くのは、大量の死者たちがネロの束縛から解放され、そして死者ながら生き続けるという矛盾の先に、彼らの死体は光となって消え失せる。
戦場を、淡い黄色の光が包み込んだ。
ネロはそれを、美しいと言った。
ドグマはそれを、残酷だと感じた。
戦地にあった死体は消え失せ、その帰りを待つ者たちのもとに帰ることはない。その遺髪も、装身具も、ただの一つの例外もなく、まるでその者たちが生きていた痕跡を消すように、世界は死者たちを光に変えて消し去る。
つわもの達は、夢に消えた。
彼の初めの印象は冷酷な貴族然とした男。次に感じたのは幼い容姿相応の自由奔放さ、そして、その身にはらんでいた残虐性に、ドグマは慄いた。シンカーリーダーもまた、ネロの扱いに悩んだ。ネロを使えば使うほど、シンカーに正義はなくなっていった。
戦争を終わらせる。ただそのために、そのためだけに泥水をすすり、悲観を押し殺し、恐怖を飲み込んだ。苦渋の日々が少しずつ陰りを見せていく中で、シンカーにとって戦争の終結が近づいていくことだけが、確かな希望だった。
だから。
だから、終戦とともに、殺戮を繰り返したと帝国に指名手配された彼らは。
家族を友人を親しい者を、守るために、救うために戦っていた彼らが帝国に見放されたその時。
シンカー構成員は絶望の淵に叩き落された。
脅迫により従軍を命じられた彼ら、その末路もまた、どこまでも残酷だった。
「ネロッ」
ドグマが、吠える。もう、気遣う必要性も感じなかった。感じられなかった。
まるで図ったように吹き付けた強風で、ドグマのフードがあおられる。そこから除く金色の瞳が、ネロを捉える。
ネロの瞳が、開く。驚愕と、そして一層の歓喜に包まれた彼が笑う、嗤う。嘲う。
通行者の視線が、ドグマに集まる。恐怖と、怯えと、そして誰かの悲鳴を皮切りに、責を切ったようにドグマから蜘蛛の子を散らすように人々が逃げる。人の奔流に飲み込まれた少女が転ぶ。それに、ドグマはもう目も向けない。それは、彼が壊れてしまったからか、あるいは彼の優先順位によるものか。
「ドグマ、ドグマじゃあないか⁉僕がプレゼントした旅は楽しかったかい⁉死への片道切符はどうだったかい⁉ああいや、こんな言葉じゃないね。もし再会したらやりたいことが、言いたいことがたくさんあったんだ——従僕召喚」
ネロの足元の地面が光り始める。どこからか聞こえる金属をこするような音はきっと駆けつける騎士たちのもので。彼らがその場にたどり着いた瞬間、光の中から一人の女性が姿を現した。
「ア、メリ……ア」
嘘だと、口が動いた気がした。実際に零れ落ちたのは狂おしいほどに求めた女性の名前で、もうこの世界のどこにもいない、シンカーであったドグマにとってのすべてであった彼女。その艶やかな金髪も、白い肌も、翠の瞳も、緩やかな弧を描いた紅い唇も、余分な肉をそぎ落とした芸術品のような四肢も、豊かな曲線美を描く体も、忘れたことなどなかった。自分を逃すために帝国の追手に立ち向かった——自分に人と戦うことを最後まで許さず、残ったドグマを守るために立ち向かった——アメリアがそこにいた。
それは、アメリアのはずで。
アメリアだとドグマの全身が、魂が叫んでいるけれど。
白く細い首に、無粋な鈍色の首輪があった。その金属の輪から伸びる鎖はネロの手元まで続く。死んだような濁った瞳で、感情が削げ落ちて、血色は悪く、そして、そして——その体のあちこちに見える、戦場においても傷一つ受けることなく白さを保ち続けた柔肌に残る数多の傷は、なんだ?数多の打撲痕が、爪のかわりに乾いた血がこびりついた指先が、かけた左手の小指と薬指が、そして肌に焼き印された「売女」に続く罵倒の文字が、襤褸切れの端から除く下半身、そこから垂れる白い汚物が。
それが、ドグマの脳が焼き切れるほどの怒りを呼び起こす。
「何を、した……アメリアに、何をしたッ⁉」
激情をもって叫ぶドグマは、理解していた。理解したくなくても、わかっているつもりでも、いざそれを目の前に見せられて、それでも彼はネロに問う。犯罪者の、囚人の末路を。裏切り者のネロが作り上げた、囚われの者の末路を。
嗜虐心に満ちた表情で口を開いたネロの言葉は、続かなかった。
ネロの全身が、爆音とともに煙に包まれる。雷撃が、彼を襲っていた。隣を見たドグマは荒く肩を上下させながら、涙すら流しながら前に突き出した手から魔法を放ったリーリエの姿があった。
「ふざ、けないで……ふざ、けないでよッ。これ以上、ドグマを、私を、傷つけて何がしたいのよ⁉何が楽しいのよ⁉お前はもう、何もしゃべらず死になさいよッ」
「陛下⁉貴様らァッ」
「へい、か?」
さっきだった騎士たちが、襲い掛かる。煙に飲み込まれたネロの安否はわからず、けれどこの程度のことで死にはしないだろうと、彼の戦いを見てきたドグマは直感する。アメリアの体の安否も気になったが、それよりも怒りで言葉が出てこなくなったらしい、二人に襲い掛かる騎士の言葉をドグマは反芻する。
「へいか……陛下?平和帝?まさか………ッ」
「惜しい、半分まで正解だよ?」
騎士の全力の振り払いを、その人間を超えた膂力で振り払い、空いた胴体に強烈な蹴りを食らわせる。真後ろに吹き飛んだ騎士は背後に続いていた仲間にぶつかり、もつれあいながら転がって建物の壁に激突して止まった。
「どういう、ことだ。お前が、皇帝だと⁉」
「知らなかったでしょ?シンカーの誰一人、僕が貴族だった可能性までは気づいても、皇族であると思い至りはしなかったみたいだね?それじゃあ改めて名乗っておこうか。ネロ・メディウス・アークレシリア。アークレシリア帝国の現皇帝にして、暴君帝ベインツィヒを弑した皇子。それが僕さ」
「…………死ねッ」
完全に晴れた煙の先。アメリアの死体に守られて傷一つないネロは、どこまでも楽しそうに、真実の一端を話す。それから、再び彼の足元が光に包まれる。現れるのは、十数名の男女。その全てに、ドグマは見覚えがあった。
遠くで、リーリエが帝国騎士に魔法を放つ音がした。地面を伝わって腹に響くその振動が、その破壊音が、ひどく心地よかった。怒りが身を包み、奥歯がきしむ。
「ネクロマンサーッ」
「ははっ、せいぜいあがくといいよ、道化くん♪」
その声を皮切りに、「彼女ら」は動き始める。帝国特殊部隊シンカー。暴君帝によって帝国中から集められた者たちの中の最精鋭が、その死体が、いまドグマに牙をむく。
近くも遠いそこから、ドグマの怒りの声が響く。煮えたぎるような憎悪の感情を受けながら、リーリエの心はどこまでも落ち着いていた。少なくとも、彼女自身はそう感じていた。
やけにスローモーションな視界の中、近づいてくる「的」に、淡々と魔法を打つ。体は、好調だった。手足のように、スムーズに体内の魔力が動き、魔法が、寸分たがわず騎士の体にぶつかる。
感電によって死ぬか、手足が痙攣して地面に倒れこむか。麻痺した体を引きずって、せめて続く同胞の盾になって敵を、リーリエを討とうと騎士たちが襲い掛かる。その全てに共通するのは、憤怒の視線。忠誠を誓った皇帝に魔法を放ち、危険にさらした「悪魔」へ、帝国騎士が牙をむき——そしてまた一人、はかなくもその命を散らす。
自分が命を奪ったという事実が、リーリエの心に凝ることはなかった。まるで処理するように、感情の揺らぎもなく敵を殺していく。初めて人を殺したリーリエは、そんな自分に驚くこともなかった。
——当たり前だと、そう思った。これは、彼らに対する罰なのだと、心のどこかで叫んでいた。ドグマの話の半分も、自分は理解できなかった。それでも、帝国が、そしてネロがドグマに対して行った非道は痛いくらいに理解できた。その痛みが、絶望が、心に流れ込んできた。それは、父と母を失い、森の中で慟哭したかつての自分を呼び覚ました。森の木々で傷つけ、手足がボロボロになり、空っぽになった心からはあふれることのない絶望の闇が湧き続けて。けれどかすかな空腹感だけが、自分を生かし続けた。本当的に、自分は生きることを選んだ。気が付けば体は勝手に動き、感情の暴発に合わせて荒れ狂う体内の魔力を押し出して、自分を狙う魔物の体を吹き飛ばしていた。
雷撃で焼けた肉を、獣のように食らったあの日。きっと自分はすでに、復讐を誓っていた。その怒りを、憎しみを、シンカーという目に見える敵に向けた。帝国という存在は、自分が相対するには大きすぎたから。周りの言葉をうのみにして、シンカーを心の中で罵倒する。その瞬間だけは、復讐によどんだ、復讐をやめるべきだと叫ぶ自分の心が、わずかに軽くなった。
逃げるのは。もうやめだ。
私は、人を殺してでも、彼を助けたいと、少しでも彼の役に立ちたいと、そう思った。
殺さずのシンカー。きっと彼は、シンカーの仲間にどこまでも愛されていたと思う。だから、彼の手は血で染まらなかった。魔物の盗伐が、彼の仕事になった。彼は、まだきれいだった。——復讐の言い訳に、何を知らない相手を罵倒して傷をなめるような自分とは違って。
ドグマの役に立ちたい。ドグマを守ってあげたい。
ああきっと、彼女が——「アメリア」さんも、こんな風に思ったのだろう。
ひときわ大きな雷撃が。
自分の体を包み込むサイズよりなお肥大化を続ける雷撃が、空へ打ちあがる。
さあ、八つ当たりを開始しよう。少しでも、ドグマの怒りが晴れるように。
少しでも、ドグマが己の傷を、認識せずに済むように。
増え続ける帝国騎士が、少しでもほかのことに手を取られるように。
打ちあがった雷球は上空ではじけ、帝都各地に雷を降らせた。
「馬鹿だよねぇ?死んで魂だけになったとしても、それは僕の専門分野だよ?君たち二人は気に食わなかったからねぇ……そうだ。アメリアには君を食わせて受肉させて、その身を僕がこの手で汚そう。それがいい!」
アメリアの攻撃をただひたすらに回避し続けるドグマ。その隙間を縫うようにして、他のシンカーメンバーたちの攻撃が続く。
針を刺すような超遠距離攻撃を行う「スナイパー」の矢が、ドグマの髪を一束散らす。
「薬師」のガラス瓶が地面に落ちて割れ、ドグマの足元が凍り付く。すぐさま力任せに引きはがすも、一瞬の停滞を見逃さなかったアメリアが前から斬りかかり、そして絶対防御の男、オリハルコンの全身鎧をまとった「フォートレス」が、その籠手をもってドグマの背後から殴り掛かる。
「ッ、がぁ⁉」
アメリアの——「コマンダー」の剣をフォートレスへ向けて払う。鼓舞の能力を持つアメリアによって能力が増したフォートレスは、その剣にぶつかる瞬間にこぶしの速度を抑え、そして接触と同時に全力で剣の腹を殴り飛ばす。
弾むように軌道を急激に変えたアメリアの剣が、ドグマの脇腹を捉える。
体が、一瞬宙を浮く。静止した瞬間に、上半身裸の大男が、「プレッシャー」が吠える。敵に恐怖を付与し、体を硬直させる技能。その声は平時のドグマの動きをただの一瞬も止めることがかなわぬ程度の、弱い徴兵を虐殺するためのもので。
それでも、焦りに心を囚われたドグマの体が、わずかに硬直する。
そして、宙を舞うドグマの顔めがけて、どこまでも鋭利な、研ぎ澄まされたアメリアの剣技が放たれる。
「ドグマッ」
誰かの、叫び声が聞こえた。泣きそうな、声だった。
無表情で剣を振り下ろすアメリアの顔に、昔の、笑った顔が重なる。視界がにじんだのは、涙のせいか、アメリアの剣によって切り付けられた額から流れる血によるものか。
目を閉じたドグマには、もうわからない。
脳裏をよぎるのは、シンカーの一員としての旅の——戦いの記憶。そこで確かに、アメリアがこちらに向かって笑っていた。