現実
帝国騎士に追われ、賞金首に狙われ、度重なる戦闘と襲撃の果てに二人がたどり着いたそこは水の都レティシア。大河の脇に作り出されたその街は、いつしか大河自身を飲み込む巨大な都となっていた。
大通りを走る水の道、そこに浮かぶ船の上で、ドグマとリーリエはぼんやりと春の陽気に浸っていた。
「ずいぶんあっさり入れたな……」
「水の都は、来るもの拒まずで有名だったもの。その代わり、一度街で不法を犯した者はよその土地以上に厳しく罰されるはずよ」
白亜の大理石による美しい家々が立ち並ぶそこは、自分たちのいるべき場所ではないという思いがひしひしと湧きおこる、まさしくお門違いな世界だった。多くの貴族がこぞって避暑地として訪れるこの街も、春の今には滞在する貴族はほとんどおらず、むしろ潜伏するには絶好の場所であったりする。灯台下暗しというやつだ。
「それで、どうするの?この街に入るのにあり金はほぼすべて使い切ったでしょ?」
「……働くさ。あまりこれは使いたくなかったが」
ドグマがポケットから取り出したのは、冒険者ギルドが発行するギルドカードだった。広く普及する冒険者ギルドというものは、大陸中の魔物討伐において、国境を越えて立ち向かう互助組織だった。帝国が大陸統一国家となってからもそれは変わらず、それどころかこれまで以上に冒険者という職業は活性化していた。戦争の終結とともに人々の動きも活発化し、安全な街の行き来のために危険な魔物の討伐が急がれ、その討伐報酬もこれまでより跳ね上がっていた。
そんな冒険者ギルドのカードは、当たり前というべきかドグマ自身が発行したものではない。行き倒れの死体から譲りうけたソレを、できることなら使いたくなどなかったが、背に腹は代えられない。偽装身分証の使用は犯罪であるが、死者の持ち物を受け継ぐこと自体は犯罪ではなくその意志を継ぐ行いだとして推奨されるがゆえに、ドグマの葛藤もひとしおだった。
「さっさと使えばいいのに。宝の持ち腐れでしょ?」
「わかってるさ」
船頭にチップを払えば、もう所持金はすっからかんで、ドグマは焦りから足早に街を進もうとして、そのスピードを落とす。
「別に気を使わなくていいわよ」
「そういう訳にもいくか。周りの視線が痛いんだよ」
遅れたリーリエと横並びになり、彼女の歩幅に合わせてドグマは街を進む。往来の活気は、終戦と共により活性化しており、彼が以前見たものよりも何倍も活気に満ちていた。
「ここも変わったな」
「……そりゃあ、帝国に飲み込まれた国の都市だもの。変わらないわけがないでしょ?」
「そうじゃない。昔のこの街は、人種にひどくうるさいところだったんだよ。肌が白いほど素晴らしい人間で、浅黒い肌の人間は家畜に等しい。目が赤い人間は化け物だ……そんなことが言われ続けていて、実際肌が黒っぽい人は、日焼けした人間も含めて奴隷のように扱われていたよ。奴隷制度は、この街が帰属していた国では違法だったのにな」
「それは、知らなかったわ。このきれいな街が、奴隷ねぇ?」
「昔の話だ……っと、着いたな」
他のギルドの建物と比べてもひと際豪華な、貴族の屋敷と見紛うほどの建築物が眼の前にそびえたっていた。念のために確認をと視線を巡らせれば、いかにも冒険者然とした戦闘装備に身を包んだ者たちが出入りをしていた。ミスマッチにもほどがあった。——最も、顔までフードでしっかりと覆い隠したドグマとリーリエは、冒険者たちの出入りに見慣れた住民であってもぎょっと目を見開くほどにはおかしく見えたが。
「ようこそ、冒険者ギルドへ。依頼ですか」
わずかに引きつった笑みを浮かべる受付嬢に、ドグマは依頼掲示板から適当に見繕った討伐依頼書を突き出した。
「これを頼む」
「はい、リザードマン五体以上の討伐ですね。冒険者カードを確認します……しばらく依頼遂行記録がありませんね……依頼受領登録が終わりました。討伐証明部位は尻尾の先端になります」
熟練の技で素早く必要事項を終えた受付嬢から冒険者カードを返却される。何の変哲もない金属プレートにしか見えないそれは、けれど冒険者個人の情報が詰め込まれた一品で、ギルドに備え付けられた魔道具を介してその個人情報を確認したり依頼受領の記録をつけたりといったことができる。
それもあって、ドグマは自分の物でない冒険者カードを使うことをためらっていたのだ。故人が冒険者ギルドから追放処分にあったような人物だったり、過去に非情に弱い魔物しか斃せていなかったり、名と顔が売れた冒険者であったりした場合、ドグマの身分証偽装がばれるのは確実だった。
「……行くか」
ギルドに入ってから一言も口を利かないリーリエは、どうやら初めての冒険者ギルドというものに興奮しているらしく、歩くリズムや体を軽く揺らしてみるといった行動にそれが表れていた。
「……?」
ふと、冒険者の一団にドグマの視線が吸い寄せられる。青白い肌をした二人組が、ギルド併設の酒場で何も注文をすることなく、行き交う冒険者や依頼主を眺めていた。その二人の片割れと、フードの奥からのぞくドグマの視線が合ったような気がした。
すぐさまふいと視線はそれ、ドグマは自分の心の中によぎる漠然とした違和感を探ろうとして——くいとローブの裾を引かれてその人物を見下ろした。
まだ行かないのか、とドグマを急き立てるリーリエ。それもそのはず、今日中にこの依頼を達成できなければ、ドグマとリーリエはせっかく落ち着ける街に着いたのに野宿を敢行する羽目になる。それだけはリーリエは避けたかった。年頃の女性としては、何日も風呂に入らず森を歩く生活は応えるのだ。
「ん?お前……」
歩き出したリーリエ、そのフードを側を通りがかった男がはぎ取った。手癖の悪いその男の凶行にドグマの静止は間に合わず、そして男はリーリエの顔を覗き込んでヒューと口笛を吹いた。
「あんた、リーリエちゃんじゃん?へぇえ、男捕まえて逃避行かい?実に優雅だねぇ……ふふ、壊したくなっちゃうなぁ!」
リーリエという名前に冒険者ギルドの受付嬢数名がわずかに反応したのにドグマは気が付いた。すぐにでもリーリエを連れてギルドを、街を出ようと考えるドグマだったが、当の本人が地に足がへばりついたように動かない。
「リーリエ?」
「…………あなた、は……」
目を見開いたリーリエの顔は、けれどすぐに怒りに染まる。これまで見たことのないほどの激情に駆られたリーリエ、その体から魔力の奔流がほとばしる。
「消え失せろ、ネクロマンサーッ」
「…………は?」
リーリエの口から洩れた言葉にドグマが硬直する中、強烈な雷球がフードをはぎ取った男に直撃した。
轟音が、響き渡る。美しくなめらかな冒険者ギルドの大理石の床を吹き飛ばした一撃に、ギルド内の人間が殺気立つ。そして、煙の中から高笑いが響きだす。
「ふふ、ふふふふふふッ。いいね、実にいいよ。その怒り!その悲しみ!その激情がここちいい!ねぇ、今どんな気分かな?君の父を刺し殺した男を前に、君は一体何を考えているのかな?ぜひ聞かせてくれよ!」
「黙れッ、お前がッ、お前は口を開くなッ」
「……リーリエ、アイツは、誰だ?」
どこまでも、ドグマ自身すら驚く冷え切った声が、殺気立った空間に響いた。落ち着いた、けれど氷のように鋭利な気を纏わせた一言に、ギルド内が静まり返る。
「ネクロマンサーですよッ。私の国を滅ぼした、シンカーの一員の!あなたならわかるでしょう⁉」
「わからない。わかるわけないだろ。……目の前にいるあいつは、ネクロマンサーじゃ、ネロの奴じゃねぇ。あいつが、本当にネクロマンサーなのか?」
ピクリ、と色白の男の眉が持ちあがる。それから顎に手を当ててふんふんとうなずき、不思議そうに首を傾げた。
「おかしいなぁ?僕の正体を知っている人間は、ここにはいないと思っていたんだけれどなぁ?……そうだよ、僕がネクロマンサー、ネロだ。そして、僕はネロじゃない。こんなものは、僕が世界を見て回るための、単なる入れ物に過ぎないからね」
その言葉を聞いた時点で、ドグマは自分が先ほど見つけた、目の前の男同様病的に青白い肌の人間。二人は、呼吸をしていなかった。そして、その心臓が動いていなかった。そして今も目の前の人物には生命現象の欠片もなく、だからこそ目の前の人物がネロであるという理解が、ドグマの中に構築されていく。
そんなはずがなかった。そんなはずがないと、信じたかった。自分たちシンカーを守るため、最初に帝国の手に堕ちた同胞が、こうしてのうのうと世界を歩いているということは——自分たちを裏切っていた可能性があること。各地に点在するシンカーの拠点が次々と襲撃されたのは、ネロが帝国に情報を提供したからで、その見返りとして彼はその罪を許され、自由になったのではないか。
少なくともドグマは、ネロにただ死体を操る力に加えて、このように死人の体の魂を移して活動する能力があったなど知らなかった。そんな力を使うところはただの一度も自分たちに見せなかった。
——ネロは、ずいぶんと前から自分たちを裏切る計画を練っていたのではないか?
「入れ物、入れ物⁉まさか、それが死者の亡骸だというのですかッ⁉なぜ、故人を冒涜するのですかッ⁉なぜ、お前がここにいるのですか⁉ネクロマンサーは、帝国に捕らえられているのでしょう⁉」
動揺で固まるドグマをよそに、リーリエの激しい叫び声が続く。その内容を理解し、そして冒険者ギルド内の殺気の矛先が、リーリエからネロに移り変わっていく。
その殺意を受けて、当の本人であるネロは両手を広げて歓喜に震えていた。殺意の奔流が、ひどく心地いいと言わんばかりに。
「ああ、いいね。実にいい。せっかくの楽しい戦争が、あのクソアマのせいで終幕してしまったからね。退屈していたよ。ああ、踊ってくれ。僕の掌の中で、無様な道化を演じてくれ給えよッ」
ギルド内のあちこちから、そして建物の外から、いくつもの悲鳴が響いた。先ほどドグマが見つけたネロの指揮下にあった死体が、近くの人の首元に噛みついていた。
鮮血があふれ出す。同時に、ネロと名乗る死体の首が舞った。
「ふふ、さあ楽しい楽しいショーの始まりだよ!」
地面を転がった首は、その首を刎ねた男の足に踏みつぶされる。それからその死体はさらさらと砂のように崩れ、光となって消えていった。
ごしごしと、足についた不快なものと落とそうとするように足の裏を床にこすりつけていた初老の男。有無を言わせずネロの首を刎ねた彼が、白銀の剣を天へと突き立て、叫ぶ。
「ふん、何がネクロマンサーだ、何がシンカーだッ。ここは俺たちの街だ。俺たちが住む、俺たちの故郷だッ。ここに緊急依頼を発令するッ。ネクロマンサーを名乗る男の反乱を阻止しろッ」
冒険者ギルド支部長の男の言葉に、冒険者たちが歓声を上げて動き始める。手始めに手足を切り落とされたギルド内のネロの下僕は、すぐさま光となって消えていった。
「……いくつか聞きたいことがある。そこの嬢ちゃんと、お前、少し来てもらおうか」
有無を言わせぬ口調で告げた支部長、その後ろをドグマとリーリエは黙ってついて行った。
「なぜ、お前たちは、お前はネクロマンサーについてそれほど詳しい?」
開口一番のセリフは、やはりと言うべきかそれだった。
嘘をついたら殺すと、そういわんばかりに殺気に満ちた視線が注がれるのはリーリエ——ではなくドグマ。
「……帝国の兵として、俺も戦争に参加していたからだ。そこで、ネクロマンサーの本物を見たことがある。いや、あれが本物だったのかも今となると確証は持てないが、少なくとも死体を手足のように操る銀髪のそいつは、息をしていた……はずだ」
いまだ雑多な感情の渦の中にいるドグマが、記憶を掘り起こしながら、自分の記憶を整理しながら。告げる。確かに、あの「ネロ」は生きていた、はずだ。呼吸をして、睡眠をとり、食事をしていたあれも死体だったとは、ドグマには思えなかった。
「そうか、元帝国兵か……いや、今となってはどうこういうつもりはねぇ。それで、そっちの嬢ちゃんは、リーリエってこたぁホーリーエン王国の元王女か?最近帝国騎士団に追われているって噂の?」
「…………」
「だんまりか。まあいい。お前たちの事情にいちいち首を突っ込む気はない。だが、これは俺たちの街が売られた喧嘩だ。だから、お前たちは出しゃばりすぎるな。目立ちすぎるな。……それだけだ」
話は以上だと、二人を放って扉を開け放って出ていく支部長。きっとその腰に提げた得物で、今から街中のネロの僕を切り捨てに行くのだと容易に予想できた。
「……優しい人、ですね」
「何がだ?」
「私たちが目立ちたくないとわかっていて、あえて目立つなと命令したところです。それと、私と、あなたの詳しい事情を知りながら、口を出さず、余計なことを一切言わなかったところですよ。信用できるわけではありませんが」
「ああ、そのことか。気づいていただろうな。じゃなきゃ、あんな一般人に向けちゃいけないような殺気なんて放たないだろうさ」
ドグマでさえ背筋が凍り付きそうな殺気。それを、最初の質問の際に支部長はドグマに浴びせていた。一般人であれば発狂死しかねないほどの、濃密で冷酷な殺意を。
「……ドグマ、さん。私は、ネクロマンサーに、お父様を殺されました。私の目の前で、なぶるように皮膚を切り裂いていって、出血多量で私を最後までかばいながら死んでいった父を、あいつは使役して、辱めて……そして、その首をお父様自身の手で握る剣で、剣でッ、切り落とさせたんですッ!光になって消えてく父を前に、私は、私は……何もできんかったッ!何も、逃げることすら、怖くてできなかったんですッ!それ、から…あいつは笑って言いました。逃げろ、死ぬ気で逃げて見せろ、そうして逃げられないと悟った絶望の中で、お前を殺してやるってッ」
「この世界に、私のいるべき場所は、もうないんです。でも、アイツだけは、ネクロマンサーだけは、私はこの手で討ちたい。復讐が何ですか。むなしいこと?無意味なこと?知ったことかッ。それをなさなければ、両親が浮かばれないじゃないですか。ネクロマンサーの遊びに、付き合わされた両親がッ……復讐はきっと父の言葉通り、むなしいんでしょうね。だから、ネクロマンサーへの仇討ちを果たしたとき、私の人生は終わるんです。その死に、意味を持って」
それに、なんと答えるべきだったか。ネクロマンサーの事実に困惑したドグマに続けざまに浴びせられた独白。リーリエの頬から流れる涙が、床に落ちていく。
その姿が、彼女の姿に重なった。
「理想郷って、知ってるか?」
だから、ドグマの口から出たのはなんの脈絡もない、そんな言葉だった。
「都市伝説の類の話だ。帝都に存在する世界最大級のダンジョン「深淵郷」の最奥に、帝国も知らない人の住処が、理想郷があるというんだ。馬鹿げてるだろ?けれど、帝都の冒険者たちの多くは、本当にその理想郷があると、すべての人間が幸福に暮らせる、争い亡く平和な、そしてたどり着いた者が心から望む場所があると、そう信じているんだ。信じて、そこを目指しているんだ」
それは、帝国の大陸統一が間近になるほどに強くなっていった、理想郷思想だった。帝国の力が及ばない土地を求めた人々の間で肥大化していった伝説は、今や冒険者だけでなく帝都にいる者であればほぼ全員が知っていて、そして元帝国領域の過半数の人間が知っているであろうほど有名な都市伝説だった。
それを可笑しそうに語って見せた彼女は、もうドグマの目の前にはいなくて。
けれど、彼女と同じか、それ以上に張り詰めて壊れてしまいそうな少女を前に、ドグマは彼女の話を、そしてその理想郷の話を聞いた時の自分のかすかな興奮を思い出していた。
「『いつか、二人で行ってみないか』」
記憶の中の彼女と、自分の姿が重なる。
あの時、彼女の——アメリアの微笑みに、ドグマは何も答えられなかった。
そして今——リーリエは、数度瞬きを繰り返し、そして潤んだ瞳をまっすぐドグマに向けてうなずいた。満面の笑みとは程遠いその表情は、けれどドグマにとってひどくまぶしく、そして美しいものに見えた。