戦犯者
うす暗く狭い路地。両脇の家屋から突き出す軒下が道を狭めていき、屋根の下には至ることろに素人目に見ても今にも壊れそうな狭い家々が並ぶ。
麻薬を吸う者、家に閉じこもる者、すべてを忘却してただ座り続ける者。
貧民街の一角では、今日も変わらず堕ちた者たちがひっそりと時を過ごしていた。
「やめなさいよッ」
その場に似つかわしくない高く通る声が響いた。幼さの残るその声の主は、自分を壁際に追い詰めて今にも襲い掛かろうとする男たちに震えていた。キッと鋭い目を向けるも、その視線はやがて地面へと落ちていってしまう。
絶望が、少女の心に巣くい、じわりじわりと侵食していく。暗い感情の中に宿るのは、どうして自分がこんな目に合っているんだろうという嘆き。
「ヒヒッ、こいつを連れていくだけだなんてもったいねぇ。ちょっとくらい味見させてもらってもばちは当たらないだろ」
「いいよなぁ、堕ちた奴を壊すのは楽しいからなぁ。そう思うだろ、お貴族さまよぉ?」
「………私は、貴族じゃないわよッ」
「ああそうだったすまんすまん、元王族、だったか」
げひゃひゃひゃ、と醜悪な笑いがどぶの匂いが立ち込める街に広がって消えていく。
高貴な雰囲気を見せる少女に舌なめずりをする男たちが跳びかかろうと足に力を込めて——
「何してんだ、お前ら」
少女が追い詰められていた壁、そこの扉から顔を覆い隠すほど深くフードをかぶった男が現れ、錆色の剣先を男たちに突き付けていた。
なまじこういった手合いのことに慣れている男たちは、だからこそ察知してしまう。目の前のこの男は、危険だと。
同時に、彼らは貧民街に身を堕とした者で、そして目の前の男も同類であるという思考が彼らの中に持ちあがる。この男を蹴散らした後に待っているお楽しみ。正義感あふれる、堕ちきっていない奴の前でガキを犯すのも悪くない——男たちに結論は、実に醜悪で、そして彼らにとっては最悪の選択だった。
男の、剣先がぶれる。否、剣先は震えていた。それが武者震いによるものか、恐怖によるものか、はたまた衰えた肉体によるものか。男たちはもう、己の中の肥大化した欲を止められなかった。目の前の敵は、彼らの中で敵ですらなかった。
「そんなぼろい剣で何ができるんだ?ぎゃははははッ」
「ぷ、これは剣です、って腐った鉄の棒を使うわけか!面白いなぁ、お前。笑っちまうぜ」
「オレ、コイツ犯したい」
「「……正気か?」」
三人の中で最も太った男が、目の前の敵に獰猛な笑みを浮かべる。舌なめずりをする様は、もはや彼が自分のものになると疑っていないことが明らかだった。
「…………帝国も、こんなもんか」
わずかに切っ先を提げた男が、ゆらりと一歩前に躍り出る。戦闘態勢に入った男たちも、己の拳を握りしめ、敵の出方をうかがう。
強く、血管が浮き出るほどに握りしめられた柄が軋む。それが、戦いの合図で、あるいは終了の合図だった。
「悪いな、アメリア。俺はもう、抑えきれそうにないよ」
飛沫が、舞った。赤いそれは、地面から壁まで剣の軌跡を示すように一直線に飛び散り、壁にもたれて震えていた少女の顔にかかる。
「……へ?」
それは、少女の声か、あるいは男たちの声か。
頬に大きな傷がある一番体格が良い男、その右腕の肩から先が地面に落ちた。
「いってえぇぇぇ⁉」
涙のにじむ顔で、男が腕を抱くようにして地面に崩れ落ちる。それは切り落とされた腕に顔が近づくと言うことで、むせかえるような強烈な血の匂いと目の前に落ちている自分の腕という現実に、男の気が遠のいていく。
一方、剣を振った彼もまた、平静ではなかった。平静では、いられなかった。
人間を、斬った。その手で、その腕で、己の意志で。
人を、傷つけない。それは、彼女が自分からどこまでも遠ざけたもので、良心としての自分のありかただったはずのもの。何よりも尊いと彼女が眼を細めながら告げた声が、渇望するように天へと伸ばされた白く滑らかな腕が、脳裏に焼き付いた光景がフラッシュバックする。
同時に訪れるのはおかしな達観で。こんなものか、と冷めた感情を抱く自分がいることにもまた、彼は気が付いていた。そのことが、ひどく恐ろしかった。自分は、皆が言うように「化け物」に、「悪魔」になってしまった。そんな言い知れない絶望が胸の内で渦巻く。
「このッ、クソがッ」
仲間とは名ばかりの同胞を傷つけられて男たちが憤怒に顔を染める。あるいは感情も思考も追いついていない反射的な攻撃が、繰り出される。暴力に頼り暴力をもって生きて来た彼らは、死が目前に迫ったからこそ今まで積み重ねてきた己をさらけ出す。
次の獲物を斃すために、剣が握りなおされる。早鐘を打つ心臓を落ち着かせれば、慣れ親しんだモノクロの世界が到来する。そこはひどく時間がゆっくりで、迫りくる二人の男の睫毛の数まで数えられそうなほどだった。
一歩、前へ踏み出す。それだけ男たちは攻撃圏内へ入り込み、一振りのもとにその腕と足を切り落とす——
「ッ⁉」
ドン、と衝撃が彼の体を襲った。さほど強くない、けれど確かな芯のある一撃が彼の動きに齟齬を生む。剣が、空ぶる。あるいは、二人目の腕を浅く切り裂くにとどまる。
予想外の衝撃は、その腰に抱き着くようにへばりつく少女によるもので、それが、彼には理解できなかった。
「何を、している?」
「なんで、なんでしたくもないことをしてまで私を助けるのよ⁉なんで、涙を流してまで戦うのよ⁉逃げればいいじゃない⁉逃げるだけで、いいじゃない……」
彼は、麻痺の残る左手で自分の頬を振れる。温かいモノの正体は返り血などではなく、果たしてただの水だった。人に剣を突き立てた事実が、彼を追い詰めていた。彼が、意識しないところで。
汚れた彼の頬を伝うそれが、剣を振るう動きによってわずかにめくれ上がったフードの奥から少女の目に届いていた。
動いたことに、大きな理由はなかった。ちっぽけな自分が、何かを大きく変えることができるなんて思っていない。世界をどれほど呪ったかわからないけれど、呪ったところで、行動してみたところで、何も変わらないことくらいはうんざりするほど理解できてしまったから。
——ならせめて、もう自分のために誰にも傷ついてほしくない。そんな些細な願いくらい、求めたっていいでしょ?
「あなたが泣くくらいなら、私が泣いてあげる。あなたがそれで少しでも前を向いてくれるなら、この命に価値があったんだって、そう思えるから!だから!だから、私が彼らに従えば……それですべて、終わりじゃない……」
言っていることもやっていることも、彼にとっては支離滅裂なもので。けれど、それを、その心を尊いと思った。それは、自分が気付かぬうちにどこかで落としてしまってきたそれを、彼女はまだ持っているのではないか。
この墓場のように死を待つだけの場所に、小さくも気高い一輪の花を彼は幻視した。
「そうか…………じゃあ、逃げるぞ」
男が、強く少女の体を抱き寄せる。いつの間にかさび付いた剣は鞘に収まっていて、彼は石畳に亀裂が走るほど強く地面を蹴って跳び上がった。
「はえぇぇぇぇ⁉」
突如体を襲った負荷に目を白黒させる少女、その目の前で男のフードがめくれ上がった。
「…………え?」
どこか見覚えがあるような、錆色の髪に澄んだ金色の瞳。
その正体は、腕を切り落とされて地面に倒れていた男の狂気に満ちた声で判明した。
「お前ッ、ドグマかッ。シンカーの、帝国の悪魔がッ」
町中に貼られた最重要戦争犯罪者集団「シンカー」の賞金ボード。一枚、また一枚と減っていたそこに、今なお残り続け最高賞金額を誇る男が、そこにいた。
びくり、と彼の体がこわばる。いや、それは少女の体の硬直だったかもしれない。それを示すように彼は音もなく崩れそうな屋根の上に降り立ち、そして走り出す。
「あいつを捕まえたら一攫千金だッ!シンカーの最後の生き残り、俺らが捕まえてやるぜッ」
にわかに喜色ばむのは、無傷の方とわずかな切り傷を負った方の男二人。彼らには、確信があった。あいつは——化け物「ドグマ」は、人を殺せない。
「ひひ、ひゃははははッ、ようやくつきが回って来たぜぇッ」
男の叫び声が、貧民街に轟いた。
一方、少女を抱きかかえて屋根を飛び移って走っていたドグマは、けれど突然抱きかかえていた少女が何かを拒むように強く自分の体を押し、鐘楼台へと飛び移る。すぐさま少女は彼の腕の中から逃げ出して、敵意むき出しの表情で叫ぶ。
「ふざけないでッ!お前が、お前たちが、お父様を殺したんでしょ⁉私も殺しに来たのか⁉帝国の悪魔めッ」
脳裏によぎるのは、自分の逃がすために剣士の剣に刺し貫かれた父と、魔物の餌となった母の姿。
『『リーリエ、愛しているよ』』
二人の言葉が、呪縛のように脳裏に木霊する。
「あんたたちがッ、お前たちがいなければッ、お父様もお母様も、死ななかったのにッ。お前たちが、殺したんだッ、この悪魔、化け物、イカレ野郎……殺人鬼ッ」
怒りと、己の身を突き動かす正義感という名の呪い。それに浸りきった少女は、目の前のシンカーの様子に目を向けない。
絶望にまみれたその頬に、一筋の涙が伝う。
「なんで私を助ける⁉私の故国を、国民を、虐殺していったのはお前たちでしょ⁉」
シンカーの一員である彼は、ドグマは、最前線で敵を殺し続けた男だ。その非道な殺し方は、終戦とともに戦犯として帝国に追われることにつながった。死人を操り、数多の毒でなぶり殺し、超遠距離からの狙撃で目の前で笑う家族が撃ち殺され、同胞の首が、彼らが通り過ぎた街や村の、柵や防壁に並べられる。その所業は人間のものでなどない、非常な、まさしく悪魔の所業だった。
全てを失った彼女は、絶望にまみれた男へ叫ぶ。自分たちを狩りつくしたのは、虐殺していったのはお前たちだろう、と。
「………………俺は誰も……誰も、殺していない」
苦虫をかみつぶしたような顔で、ドグマはただ一言つぶやいた。
「何を——」
「いたぞ、あそこだッ」
「ッ⁉」
とっさに、ドグマの体が動いた。それは戦場で慣れしたんだ殺意の感知による反射で、そして少女を抱きよせたその腕に、数本の矢が突き刺さった。
「……ッ」
「被弾したぞッ、押せ、このまま捕らえろッ」
執念深くドグマを負い続ける追跡者、彼らの姿がそこにあった。
彼らは、数か月に渡るドグマの追跡から、彼の思考をトレースしていた。彼は、人を傷つけない。とっさの動きで、人を守ろうとする。だから、彼の側にか弱い少女がいるこの状況は、彼らが待ち望んでいた理想的なシチュエーションだった。
矢の雨が、降る。その一部は鐘楼の屋根に阻まれ、鐘にぶつかってわずかな音を響かせる。
負傷によって麻痺した左腕が、飛来する矢を払いのける。右腕に突き刺さった矢を、歯を食いしばって引き抜き、彼は鐘楼から身を滑らせる。その腕に、少女を抱きかけたまま。
「ッ、放してよ、放しなさいよ、この悪魔ッ」
「死にたいのかッ⁉殺されたいのか⁉お前が悪魔と呼ぶ人間の巻き添えになって死んで、それで本当に満足なのか⁉冗談じゃ……冗談じゃねぇ⁉たかが少女一人守れずに、俺を生かしたあいつらに顔向けできるわけないだろ——ッ⁉」
ぐらり、とドグマの体が揺れる。屋根を、踏み外した。かすむ視界と異様に火照った体、わずか数分で荒く肩を上下させる体の状態にドグマが気付いた頃にはもう、遅かった。
(毒、か——)
宙を舞う彼らの体は、幸運にも下水へつながる用水路へと転落する。
「探せ、毒が効いている今が絶好のチャンスだ。今度こそ逃がすなッ!」
追いついた追跡者たちが見るそこに、二人の姿はなかった。