プロローグ
「行けッ、我らが皇帝に勝利を!」
剣を握る兵たちがなだれ込むように敵陣へと走り出す。圧倒的物量差により敵軍はなすすべもなく飲み込まれ、屠られ、濃い血の匂いが平野に充満した。
「皇帝ベインツィヒに勝利をッ!」
首級を挙げた剣士が勝鬨を叫ぶ。その顔には興奮を上回る安堵の感情がうかがえた。血と泥に染まった男の剣先に突き刺さる首は、すべてをあきらめたような絶望の顔をしていた。
暴君帝ベインツィヒ。彼の台頭により、帝国は覇権戦争へと乗り出した。周辺国家はその波に対抗するように連合を結成、泥沼の戦争が幕を開けた。
それから、数年。一進一退の状態に業を煮やした暴君帝は特殊部隊「シンカー」を徴用、背後からの敵戦力崩壊を企んだ。
「ネロ、行けるか?」
「もちろんだとも!」
戦争をかけるシンカーは、敵兵にとっての死神であり、そして帝国兵にとっては何よりも頼もしい存在だった。——そう、戦争が終わるその時までは。
そして五年。最後の国が倒れ、帝国は大陸統一を成し遂げた。
暴君帝が暗殺によって排除され、帝国は休息に平和へと進んでいく。その中で帝国特殊部隊シンカーの構成員もまた、戦犯者として帝国に追われる身となった。
一人の男が、荒野を走る。そのあとに続く怒声が、雪崩のように彼に押し寄せる。
吐く息はどこまでも荒く、すぐにでも足を止めてしまいたいほどに心臓はおかしな痛みとともに鼓動を刻む。血塗られた両手に握る武器はさび、刃も大きく欠けていた。
「いたぞ、放てッ」
暗闇の中を駆ける男を、松明の炎が照らしだした。それと同時に闇夜を切り裂くいくつもの矢が、男に襲い掛かる。体に当たるものだけを器用に見て取って叩き落す彼の足はただの一瞬も止まることなく、むしろ攻撃のために停止した追手との距離が開く。
炎を反射する白銀の剣は、きっとその本来のきらめきを持っていれば炎を刃に映しひどく幻想的に映ったことだろう。
だがそれも、余裕のない彼と、彼を狙う者たちには興味のないことだった。
松明の光が、消える。否、それは手から零れ落ちて大地の枯草に燃え移って激しい炎を広げる。
剣で払った矢の一つ、それを男は敵襲へと投げつけていた。偶然か、あるいは狙ったのか、松明を持っていた手に直撃した矢によって、視界確保の要員はそれを落としてしまっていた。
「魔法部隊、火を消せッ」
「神に祝福されし聖なる水よ、今我の前に現れてかの炎を消したまえ、クリエイトウォーター!」
戦場の上空から、ポツリとしずくが落ちる。それはやがて勢いを増し、バケツをひっくり返したような雨が燃え広がる炎を消していく。
黒い煙が、月の光を覆い隠す。追跡用の狼たちの鼻が利かなくなる。炎の熱で水蒸気となった白煙が視界を遮り、そこにひときわ強い血臭が襲い掛かる。
「ッ、総員近くの人員とまとまれッ」
煙の中から迫る男の存在を感知した司令官が叫び、追跡者たちは近くの同胞と背を向けて目を細める。
揺れる霧は次第に収まり、そしてその先には男の姿はなかった。
「あいつは……ッ、クソがッ!あの悪魔めッ」
司令官の足元、固まった血がこびりついた男の衣服が放り出されていた。霧から来たように見えた影は、この衣服によるものだったのだと彼はようやく理解して、そしてその塊を蹴り飛ばす。
八つ当たりで吹き飛んだ上着は、男の行方が不明な現状を表すように、突如吹いた強風にさらわれて夜の上空へと消えていった。
「はぁ、はぁ、はぁ……撒いた、か?」
追手たちから逃げ切った男は、深い森の入り口の木の幹に体を預けて荒い呼吸を繰り返す。ガクガクと震える足は今にも折れて動かなくなりそうで、けれどここが正念場だと、彼は幹を支えにゆっくりと森の先へと進んでいく。
「ああ……ようやく、帰ってきたのか」
視界の先に映るのは、見慣れない、けれど確かに見覚えのある懐かしい場所だった。皇帝からの招集に従って出立した故郷。戦争の中でものどかな時間が流れ続けていた男の故郷が、そこにあった。
月が隠れた暗闇に紛れて近づき、いつだったか親や村人の目を盗んで出入りをしていた木塀の穴から体をくぐらせる。静まり返ったそこは、戦火の跡など何一つなく、変わらぬ風景があった。
雲からのぞいた月が、家々を照らす。浮かび上がったそれは帝都に比べればひどくこじんまりとした陋屋で、そして彼の実家だった。
(ああ、本当に帰ってきたんだ……)
懐かしさに震える体は、けれどどこかから聞こえてきた嬌声によって止まる。ドアの取っ手にかけられた手は、動かない。それは、聞きなれたはずの、彼女の声にひどく似ていた。
深く深呼吸をして、歩き出す。目指すは庭に植わったスモモの木。その枝を握って体を持ち上げれば、隙間から淡い光がのぞく窓へと視線が届く。
ゆっくりと顔を近づけるそこには、言いようのない恐怖があった。そんなはずがないと、信じたかった。それは、希望だった。すべてを失って、それでもすがるように戻ってきたここで彼を待ち受けていたのは——
あでやかな女性の声が響く。リズムを刻む水気の混じった男は行為のそれで、そして彼は、穴からうかがったその光景に硬直した。
(あ、ああ、ああああああッ)
行為にふける女性に、見間違いはなかった。その声も、その顔も、記憶の底にある自分の妻のものであるはずで、彼女が抱かれているのは、自分ではない男で。
がさり、と動揺でバランスを崩した彼の足元、木がひと際大きな葉擦れの音を立てる。
「誰ッ⁉」
音の先、窓の外にいる男のほうへ、女性が——男の妻が顔を向ける。
近づいてくる彼女にしかし、男の体は動かない。ただ、心の中で諦観に似た絶望が沸き起こる。自分の居場所は、きっとここにない——
ギィ、ときしむ窓を開き、女は彼の姿をとらえる。こぼれそうなほどに見開かれた彼女の、あでやかな肢体が男の目に焼き付く——ことはない。
「きゃああぁぁぁッ。帰って、来たわ!ドグマが!帰ってきたわよ!」
夜闇を引き裂く甲高い声が村に響く。その声には隠し切れない恐怖の感情が宿っていた。女にとって、彼は凶悪犯しかない元夫だった。忘れたい記憶、忘れたい相手。
シンカーという戦犯者の一人にして大量殺害犯。
それが男、ドグマという人間だった。
女の悲鳴とともに、彼女と行為にふけっていた男が——彼女の「夫」が、彼女の体を抱き寄せる。怒りに満ちたその顔には、けれどドグマを嘲笑う感情がこびりついていた。
ドグマの弟は、自分の妻になった愛しき相手を抱き寄せて、ドグマに吠える。
「何しに帰ってきやがった、この悪魔がッ」
夫の腕の中で安心からわずかに表情を緩める元妻。二人を呆然と見ていたドグマは、けれどにわかに活気づく村の様子に気が付いて慌てて周囲へ視線をやった。
一つ、二つ、松明の炎が闇に沈む村にともる。それはやがて大きな波となって、彼がいる実家へと押し寄せる。
「悪魔めッ」
「出ていけ、ここはお前の場所じゃない!」
「死んじまえッ」
雑多な罵倒が、ドグマに押し寄せる。怒気に包まれた彼ら彼女らの顔に、ドグマは見覚えがあった。それは、例えば村に一軒だけある小売店の穏やかな店主で、引退した元冒険者の猟師で、それから幼少期にともに遊んだ友人であった。
そこに、再会を喜ぶ者など、ただの一人もいなかった。
「出ていけッ」
こつん、と幼い少年が投げた小石が、ドグマの体に当たる。自分の記憶にない彼は、きっと村人の誰かの子どもで、その石を皮切りに、村人たちによってドグマに攻撃が浴びせられる。
「化け物ッ」
実家からでてきた少女の言葉が、ドグマの心を深く、深くえぐる。その少女は彼の元妻であった女性にひどく似た美しい容姿で、そしてその5、6歳ほどの顔立ちにドグマは自分の類似部分を見つけた。あるいはそれは、ドグマの弟からの遺伝だったかもしれないが。
もう、これ以上ここにはいられなかった。木の上から器用に飛んだ彼は恐るべき脚力で実家の屋根へと飛び移り、そして屋根伝いに村の外へと走り出す。とめどなくあふれる涙が、彼の軌跡を残していく。
——本当は、わかっていた。自分は、かつて妻だった人間なんて、求めていなかった。求めたのは、安息の場所。つかの間息をひそめて、記憶を整理するための場所と時間が、欲しかったのだ。妻との日々など、苦くも甘く、重厚な戦乱の中の記憶に、そして心からあふれ出す後悔と絶望に、塗りつぶされてしまっていたから。
無慈悲な月の明かりだけが、ドグマを照らし続けていた。その心まで光が照らすことはなく、むしろ光により一層強い陰影が、ドグマの心に降りていた。