前日譚 小春日和前 三、乾坤一擲ⅰ
前日譚 小春日和前 三、乾坤一擲ⅰ
◉登場人物、時刻
???? 主人公。今回も出番なし。
〈戸田方〉
大久保六郎兵衛尉 高雲斎家臣。
保坂平左衛門 大久保六郎兵衛尉の家臣・
家子。
親族衆で今回が初陣。
〈南武方〉
櫻井余呉右衛門 南武家の重臣。先陣を務め
る。
田中次郎兵衛 南武家の先陣馬廻に参加す
る軍役衆(雑兵)。
◉軍役衆に関する詳細は一章の「【改訂・注釈】足軽・農兵・被官衆・地侍について」をご覧下さい。
この四人は主人公ではありません。
辰初の刻 午前七時から八時
庚戌二年長月十六日 辰初の刻 大久保六郎兵衛尉(戸田方先陣)
山を回り込む。視界が開ける。
天国か地獄か。心臓が破れそうに早鐘を打つ。
…………前方、四町弱*1ほど先に敵の先手が見える。敵勢は思ったより少ない。川の方を見ている者もおり、その視線の先には敵の別部隊が……
…………っ善しっ!!
“日は香爐を照らして紫煙を生ず”*2
(朝の光が香爐峰を照らし始め、辺りに紫の霞が立ち昇っている)
「殿に伝令!神威覿面、我、此れより突貫す。以上、必ずお伝えせよ。二騎で行け!」
使番*3二騎が慌てて踵を返す。
「者ども、征くぞ!敵に息を吐かせるな」
常足だった騎馬の速度が、次第に上がっていき、直ぐに襲歩*4に移る。敵の驚愕する顔、慌ててこちらへ兵を進ませるが、遅い!!
庚戌二年長月十六日 辰初の刻 田中次郎兵衛(南武方先陣)
「若に伝令。我、敵の奇襲を受けり。敵は何か企ておる模様。御警戒下され、と」
ウチの殿さまの声が響く。慌てて使番が走り去る。
ど、どうするら、今日は敵は来ないんじゃなかったのけ?今日は久方ぶりに御飯にありつけると思うとったのに……
「……馬廻は我に続け!後備と合流する」
殿さまがそう下知なさる。
敵に向き直った後備の列の後ろに移動する。周りの兵が多くなり、少しホッとする。
しかし、敵は三十騎強。余りの馬侍衆の速さに被官衆・軍役衆が追いついておらんけど、総勢百五十人ほどは居るに違いねぇ。
比べてこちらは馬廻、後備あわせても十五騎しか居ねぇ。総勢九十人くらいか?何より驚きで体が固まっちまって、上手く動けてねぇ。
川向こうに渡った兵たちと合流できれば、こっちの方が数が多いけんど、もちろん敵の前で渡河する事なんか出来っこねぇ。
こらぁ逃げることも考えねぇと……
……村に居られんくなったら、おカァと今年生まれた赤子に会えんくなる。
…………死にたくねぇ、逃げたくねぇ…………
敵の村、濫妨取りして、飯を腹一杯食わせてやれると思うとったのに、どうしてこんな事になるんら……
「我らも前に出る」
私が仕えている馬廻の騎馬侍がこちらの心を見透かしたのか、そう言った。
……行きたくねぇ、行きたくねぇ、
そういう訳にもいかず、前列に出る。……敵はいつのまにか驚くほど近くまで来ていた。
(至戸田)
丘丘丘丘丘崖道 川川川 崖丘崖丘丘川崖丘道丘
丘丘丘丘丘丘崖道 川川川崖丘崖丘丘小崖丘道丘
丘丘丘丘丘崖道 川川川崖丘崖丘丘川崖丘道丘
丘丘丘丘崖 道 川川川 崖丘崖丘小川崖道道丘
川小丘崖 道 川川川 丘崖丘小川 道
崖川小崖 道 川川川 丘丘小丘 丘
丘崖小川小洗小 川川川 崖 丘丘
丘丘崖崖 道 川川川川 崖 寺倉の集落 丘
丘丘丘崖 道 川川川崖 (戸田方)
丘丘丘丘崖道 川川川丘丘 丘丘
丘丘丘丘崖屋道 川川川 丘丘『分』 丘
丘丘丘「神」道 川川川 丘丘丘崖 崖
丘丘崖屋『先』 川川川 丘崖崖丘丘丘
丘丘 道 川川川 丘 丘崖丘丘丘
丘屋 屋道 川川川 丘 崖丘丘
丘屋 屋道屋 川川川 小小川丘丘
丘屋 『陣』道 川川川 川崖小小川
崖「寺」 丘道屋 川川川 小小川崖崖崖崖
崖崖丘丘崖崖 道 川川川小川丘丘崖崖丘崖
崖崖崖崖丘丘 道 川川川崖崖崖丘崖崖丘丘
(至南武方、木花集落
=南武軍本隊の現在地)
『先』=戸田先陣 『陣』=南武先陣
『分』=南武先陣分隊
洗=洗い越し(路上河川)
「寺」=寺 「神」=神社
屋=家屋(寺倉以外は半手〈中立〉)
慌てて槍を構える。
ドドドドドドドドドドドドッ
腹に応える馬蹄の響き。敵は所作のすべてに自信が満ち満ちている。こちらを喰い殺さんと弾むように襲いかかってくる猛獣の群れ。
怖ぇ、怖ぇ、怖ぇ、怖、怖ぇ、怖ぇ、怖、怖ぇ、怖ぇ、怖ぇ。いやだ、いやだ、嫌だ、いやだ、いや、嫌だ、怖、怖ぇ、怖、怖え、いやだ、いやだ、怖、怖ェ、怖、いやだ、怖、怖ぇ、いやだ、嫌だ、いやだ、怖ぇ、怖ぇ、怖ぇ、怖、怖ぇ、怖ぇ、いやだ、いやだ、嫌だ、いや、怖、怖、怖ぇ、怖ぇ、怖ぇ、怖、いやだ、怖ぇ、怖ぇ、怖、怖ぇ、怖ぇ、怖ぇ、怖ぇ、怖ぇ、怖、怖ぇ、怖ぇ、怖、嫌だ、怖ぇ、怖ぇ、怖ぇ、嫌だ、いや、いやだ、いやだ、死にたくねぇ、死にたくねぇ、死にたくねぇ、死にたくねぇ、逃げたくねぇ、死にたくねぇ、逃げたくねぇ、お母と赤子に会えねぇなんて嫌だ!
殿さまからの下知が廻ってきたのだろう、真っ白になった頭に馬廻の騎馬侍が話す、
「敵に真面に当たるな。左方に去なすのじゃ」
という声が響いた。
そうだ、守りゃいいんだ、そうすりゃ死なねぇで済む。ぁぁ、神様、仏様。二度と悪ぃ事はしねぇからどうかお助けくだされ。
敵方へ少し進み始めた刹那、
どごぉ、という物凄い音が響いた。馬と馬がぶつかる音。それに気を取られる間もなく、襲いかかる敵の騎馬武者を槍で牽制して勢いを止める。
叩く、叩く、あっち行けぇ!
庚戌二年長月十六日 辰初の刻 保坂平左衛門(戸田方先陣)
神威の知ろしめす所か、それとも殿の博奕の上手か、敵は無防備な横面を晒している。寄親であり、我が家長である六郎兵衛尉どのは我らに述べた。
「さて、者ども。では狩の時間だ」
当り籤には配当がなくてはならぬ。それを取り立てるのに手を抜く者は誰もいない。普段は紳士的で尊敬に値する優しい叔父御も、血筋の怪しい雑兵小者も、家長である六郎兵衛尉どのまでも、 眼をギラつかせ、興奮によって浅い息を繰り返している。まるで獣のようだ。
……それを浅ましい顔だ、と感じてしまう自分は未だ修行が足りぬ身なのだ。
かつて我が家長たる六郎兵衛尉どのは仰った。
「……所領の子らを飢えさせてはならぬ。これは綺麗事で言っているのではない。我が郷の子らを飢えさせれば、我らも飢える。米が納められなければ、売る物もないから武具、馬具を手入れする事も出来ぬ。その有様でどうやって我が郷を守る。また我が郷が飢えれば、我が郷の子らは年貢を払い渋り、我らと敵対し、流さなくてもよい血が流れるやも知れぬ」
しかし、飢えさせぬ、それが最も難しい。祖父の頃より、天候が例年不順で作物が真面に育った年がない*5。
手立てを尽くして皆で頑張っても、飢え死ぬ人々は日々、堆く積み上げられ、嘆く声は絶えることがない。
本当は仁と礼に基づいた、万人が万人に優しい世の中であって欲しい。しかし、礼節を知るに足る食がこの世の何処にあると言うのだ!
痩せ細り、日に日に弱っていく我が子。口減しのために家を去ろうとする親。飢えて死に行く友や親類を見て、それでも仁や礼は守られるべきなのか?
……自分はそう思うことができない。
身近な人々への愛無くして、如何に万民を愛せるというのか?
飢えに苦しむ人々を癒す一握りの粟を生み出すことも出来ぬ、無から有を生み出す事など出来ぬ凡夫の身なれば。
せめて、その地獄の様な現世から眼を逸らすことは許されない。
「ならば、自らの手を汚す事を厭うな。濫妨狼藉*6は日々の生活の生業と心得よ」
人を殺す事は、人を生かす事なのだ。味方を生かすためにその他の一切を切り捨て、調伏する。
武士とはそうした生き方だ。
「敵先陣を討ち崩す。かかれっ!」
……自分もいつかなれるだろうか、浅ましい心優しき獣の顔に。
“ 遥かに看る瀑布の長川を挂くるを”
(雄大な滝が長い川のように流れ落ちていくのが見える。その美しい景色は遥かに、あぁ、手が届かないほどに遠い)
◉用語解説
※1【四町弱】
昔の長さの単位。一町はメートルに換算しておよそ109mなので、おおよそ四百メートル弱。なお、一里=五〜六町となります。
※2 【“日は香爐を照らして紫煙を生ず“ 遥かに看る瀑布の長川を挂くるを”飛流直下三千尺”疑ふらくは是れ銀河の九天より落つるかと”】
中国唐の詩人、李白の有名な漢詩で題は『望廬山瀑布』。
廬山瀑布はある程度の年齢の方にはお馴染み。天秤座が日がな一日、日向ぼっこし、龍星座が必殺技を会得したあの滝です。二句目の「長川」は「前川」とされる事もあります。訳はかなりの意訳です。
※3 【使番】
戦国時代、戦場で伝令や各隊の観察、敵方への使者などを務め、平時には外交交渉のための使者や國人衆などの取り次ぎの役目を負った人々。
特に敵方を含めた他国へ使者に赴く時は、書状に「詳しくは使者の者が説明する」と書いてある事が多いので、急に想定外の質問をされる事も多く、自国・相手国の望みや状況、譲れない点など全て把握して、当意即妙に答える必要があり、若き日の前田利家や真田昌幸など次代を支えるエリートが就いている事が多い役職でもあります。
※4 【常足・襲歩】
定義についてはWikipediaなどを参照してください(文字で読んでも混乱するので)。ここではイメージだけを書きます。
常足は馬を走らせずに歩かせる事。
襲歩は馬を全速力で走らせる事。
因みに主な馬の歩法を遅い順から並べると常足(ウォーク)→速歩(トロット)→駈歩(キャンター)→襲歩(ギャロップ)となります。
*5【作物が真面に育った年がない】
室町幕府三代将軍義満の最末期のころから、太陽の黒点活動の著しい低下である「シュぺーラー極小期」、次の「マウンダー極小期」を含む「小氷河期」と呼ばれる寒冷期が始まります。
古文書の解析や木の年輪の放射性同位体の測定、また海底の砂に含まれた花粉や砂の種類の研究などから、当時の気候は例年の様に冷夏になり作物が育たず、たまに暖かい年になると、今度は一転して日照りになり、水不足によって作物が枯れる有様だった事が判明しています。
この「小氷河期」は幕末の「ペリー来航」の頃まで続き、寒さや水不足に弱い米の収穫量を著しく低下させ、特に戦国時代の前後では夥しい餓死者を発生させました。
日本中世・近世史の黒田基樹先生はその死亡者数や死亡傾向から「(戦国時代は)江戸の三大飢饉クラスの飢饉が常態化(毎年のように起こる)していた」と語っておられます。
*6 【濫妨狼藉】
戦場での略奪のこと。生業は生活を立てるための仕事。
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