清口恵理子の場合 Ⅰ
こんにちは、こんばんわ。八幡八尋です。
危うく3日坊主になりかけるところでした。というわけで、第3話です。視点を変えてみたら、心を読める主人公に語らせるのがどんなに楽か、改めて気付いてしまいました。まあでもテレパスって生きるの大変そうですよね……
拙い文章ですが、楽しんでいただければ嬉しいです!
切り忘れていたアラームの音で目を覚ます。閉めっぱなしのカーテンを視界に入れ、いつも寝ているベッドの感触に安堵し、少し揺れている携帯に遠い方の手を伸ばした……そこではたと、いつもと違うことに気付く。左手が思うように動かないのだ。何か、いや、誰かに掴まれている感覚がする。まだ動かすと少し重い頭をゆっくりもたげると、ベッドの脇ギリギリに、私の左手を握って寝息を立てている彼女が見えた。本来ならいるはずのない、夢にまで見た彼女が。瞬間、昨日の夜のことが思い出されて、頬が自分でも分かるほど熱くなる。
昨日はそう、私は風邪を引いて仕事を休んだのだった。そうしたら彼女__沢井奏ちゃんが、家にわざわざ来てくれたのだ。最初は本当に、熱に浮かされて幻覚でも見ているのだと思っていた。でも中へ入ってきた彼女が、押しかけて申し訳ないと下げた頭に触れたとき、これは現実なんだと悟った。店長からの指名で、彼女は嫌だったかもしれない。でも、私は初めて店長に感謝した。
奏ちゃんと出会ったのは1年前、当時の彼女は大学生になりたての、あどけなさの残る18歳だった。
「沢井奏です……よろしくお願いします」
緊張した面持ちで挨拶をする彼女を見た瞬間、口をついて出た言葉は
「え、可愛い……」
だった。一瞬驚いた顔をしてから、えぇと……ありがとうございます、とはにかんだ彼女の顔が今も忘れられない。奏ちゃんは、その見た目とは裏腹に仕事の覚えも早いし、ミスの多い私と比べてずいぶんしっかりしていて、だからこそ、そんなところに惹かれたのだと思う。
そう、私は惹かれているのだ。20も年の違うこの少女に。
同性に心を奪われることに気付いたのは、中学2年生の時だった。当時は、同級生の、それこそ幼馴染みとも呼べるような子にときめいた。彼女は私より背も小さくて、周りからは「かわいい子」扱いをされていたが、私よりもしっかりしていて、抜けている私の面倒をよく見てくれた記憶がある。頼りになるその幼馴染みに恋慕を抱いたきっかけはわからないが、気付いたときには好きになっていて、だけど、関係を壊すのが怖くて1度も告白はできなかった。そうこうする内に高校へ上がり、彼女には彼氏という存在ができて、私は、彼女の別れ話を聞いては心のどこかで安堵し、次の人の話を聞く度にかすり傷のように増えていく胸の痛みを無理矢理押さえつけて過ごした。この思いを断ち切ろうと、異性と付き合ったことも幾度だってある。好きだと言ってくれたその言葉に、私の心が動くことはなかったけど。そして、三十路と呼ばれる年齢を迎える頃には、彼女にはもう家庭があって、とうとう私の初恋が実ることはなくなった。そもそもそういう嗜好が受け入れられなかった時代の話だ。後悔なんてしていない、と思う。
泣き言も言わず続けていた会社を辞めたのもこの頃だ。彼女の結婚が少なからず原因になったのかもしれないが、もう潮時だと気付いていた。そして、取りあえずという形で始めたパートが、なぜか十数年も続いている。居心地の良い職場だから、気付けば10年も経っていたという方が正しい、きっと。
お釣りを手で数えていたのが機械に代わるように、時代は私のような考えの持ち主を受け入れる方へ進んできた。それでも、私は「ひとりが楽だと考えている女」を演じ続け今に至る。演じてはいるが、半分は本心でもあった。そもそも裏表があるような性格ではない。周りから見れば、幼馴染みとのこともきっと薄々勘づかれているのだ。聞いたことはないが本人からも。でも、今回ばかりは事情が違った。可愛くてかっこ良くて、私が一目惚れした沢井奏ちゃんは、年が離れているのだ。それも20歳以上。よく、「愛があれば年なんて関係ない」なんて言うが、それは物語の中だけの話だ。実際そんなことになれば__もっと他の障壁があるにしても__私が犯罪に手を染めたことになる。未成年と付き合う、というのはリスクの高すぎることだから。時が流れてもなお私は、自分の気持ちに蓋をすることに決めた。奏ちゃんと喋るときは、自分のことを「おばさん」と揶揄するようにした。自分から言えば彼女の認識に刷り込まれるだろうし、そう言うことで溢れそうになる気持ちを律することができるような気がしたからだ。その一方で、1人の家へ帰ればいつも、10代の頃とは比べ物にならないような胸の痛みに襲われた。恋をすることは、人に好きだと伝えられないことは、いつだって苦しい。
「すき、好きなの……奏ちゃん……」
返事のないことが分かっている部屋で、空気に晒された冷たい毛布にくるまる。囁く言葉の甘ったるさに、自分のことながら吐き気がした。
「沢井さんって気になる人とかいないの? ……下世話な話だけど、さっき、鈴木さんが彼氏さんと来てるの見たから」
そう聞いたのは、確か1ヶ月かそのくらい前のことだった。その日はたまたまレジの担当が私と彼女だけの日で、たまたま鈴木さんという別のアルバイトさんが、彼氏と一緒に来店しているのを目撃したのだ。聞いたって傷付くだけなのは分かっているくせに、と後になって自分を罵りたくなる。
「自分は特にいないですね……そもそも恋愛ってよく分からなくて」
奏ちゃんからの返答は意外なものだった。大袈裟に肩を竦める彼女を、思わず驚きの目で見つめてしまう。
「そうなの? 私、もう中学生くらいから彼氏さんとかいたのだと思ってたわ。だって沢井さん、可愛いしね」
誤魔化すように言葉を詰め込んだ。奏ちゃんは時々、人の心が読めているんじゃないかと疑うような行動を取る。今だって、お付き合いしている人がいないと聞いて緩みそうになった口元や、思わず出そうになった安堵の言葉に鍵をかけなくてはならない気がしたのだ。そうでなければ何もかも失ってしまうような、予知にも近いものだった。
「そう、ですか?」
「ええ。でもごめんなさい、おばさんの勝手な思い込みよね」
言ってから少し悲しくなった。そう言えば、前にテレビかなにかで「今の時代は恋人の有無を聞くときに『彼氏』『彼女』なんて聞き方をしない方がいい」と聞いた気がするのだけど、怪訝な顔も不快さも見せないということは、やはり奏ちゃんは同性に興味はないのだろうか。別に、そうだったところで落胆もしないけど。
「いえ、こちらこそ。期待外れで……なんか、すみません」
申し訳なさそうに頭をかく彼女に、自分は安心したのだなんて伝えられるはずもなく、とにかく何か大人らしいことを言わなければと焦る。
「いいのよ、謝らなくて……でもそうね、恋愛って難しいものだけど……もっとその人のことを知りたいような、知りたくないような、甘えたいけどいざという時は助けてあげたいと思えるような……そんな人が、いいのかもね」
口をついて出た言葉に、遠い日の幼馴染みを思い出す。しっかり者の彼女だったが、彼と喧嘩をした時だけは、私に泣きながら電話をかけてきた。普段守られている私は、ろくに励ましの言葉もかけられなかったが、「私なら絶対、この子を泣かせたりしない」と、見たこともない彼女の恋人に怒りを覚えていたことが懐かしい。目線を戻した先の奏ちゃんがひどく痛そうな、まるで私が想った人に嫉妬しているような顔をしていたのは、きっとひどい勘違いだろう。人間の脳は、自分に都合が良いように記憶を書き換えるのだから。
「なるほど……経験談ってやつですか?」
「いやね、茶化さないでよ」
いつものように、軽口を叩いて話を切り上げる。気付けば上がりの時間だった。
「ああそうだ、沢井さん。そこにあるレシート、打ち込んで登録しないとだから、渡してもらえない?」
パソコンを立ち上げたところで事務作業が中途半端だったことを思い出す。新しい作業が入ると前に何をやっていたかを忘れてしまうのは、性格というよりも年のせいなのかもしれない。ついでに、お気に入りの韓流ドラマの放送日だったことも思い出した。
「これですか? いいですよ……なんなら私がやるのでも良いですけど」
傍に置いてあったレシートを取って、手と手が触れたその瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。比喩表現なことに違いないのだが、本当にそれぐらいの衝撃だったのだ。
『どうしよう……好きなの、奏ちゃん』
思わず漏れそうになる甘い声を手の甲で防ぐ。不自然だなんて気にしていられない。急上昇していく体温も、うるさく響く心臓の音も、物理的に抑えなければもう限界だった。
「静電気……ですかね?」
少し驚いたものの冷静さを保ったままの奏ちゃんは、軽い疑問を残してパソコンの方を向いた。その様子に、思考が平静を取り戻していく。
「そうね、ごめん。痛くなかった?」
「大丈夫です。清口さんは?」
「私も、大丈夫」
早く帰ろう、ただそれだけを考えて打ち込みの作業を終えた私は、いつものようにカウンターを後にした。
その日以降、幸か不幸かシフトの被る日が極端に少なかったことで、私はいつも通りの日常を送れていた。あの日のことは口に出さず、私のこの想いが報われることもないのだと、そう思っていたのに。
「何やってんのよ、ほんとに……」
熱と薬の副作用のせいで、頭がぼうっとしていたことは自覚している。それでも、寝室まで運ばせた上に行かないでほしいと口に出すなんて、最低だ。すぐ傍でいまだ眠りにつく奏ちゃんを見下ろす。規則正しい寝息に合わせて長い睫毛が揺れる様を、思わずまじまじと眺めてしまった。いけない、こんなに近くにいては、何をするか分かったものではない。
「ごめんね、付き合わせて」
顔の方へ流れ落ちている髪の毛をそっと掬う。ベッドの縁に座った状態で睡魔が来たのだろう、不自然な格好で眠る彼女を、どうして動かそうか迷ってから、結局そのままにすることにした。起きたときに謝って、何かご馳走しようと心に決める。幸いにも今日は休日で、私も彼女もバイトは入っていない日だった。同時に、もう会いたくないと言われる覚悟も決めて、起こさないようにそっとベッドから抜け出そうとする。しっかり握られた左手をそっと揺すって離しかけたその時、今まで聞こえていた静かな寝息が消え、彼女の柔らかい声が部屋に響いた。
急いで彼女の手を引き剥がし、寝室を後にする。意味もなく入った洗面所で、私はへたり込んだ。心臓は爆発寸前かのように脈打って、身体中が熱い。鏡に映る瞳は潤んでいて、自分の顔のはずなのに、どこか別人のようだった。
「__恵理子さん、好き」
ほんの数秒前、放たれた言葉を反芻する。確かに、彼女は眠っていたはずだった。あれは寝言だ。告白なんかじゃない。そもそも、世の中にえりこという名前の人はそれなりにいるわけで、私のことじゃない可能性だって充分にある。脳内で精いっぱい否定の言葉を並べて、荒い呼吸を落ち着かせる。だけどもし、自惚れて良いのだとしたら。いつもより少し甘く、彼女の名前を呼ぶことができたとしたら。
大きく息を吐いてかぶりを振った。どちらにしろ、私は知ってはいけないことを知ってしまったのだ。彼女と私は、決して交わることも、平行を辿ることもできない関係なのだから。
最後までご覧いただきありがとうございました。また来週……