第4章 35 子から母へ
※
--『ナイトメア』の鳥かごがシオリと花梨を呑み込んだまま収縮していく。
「……っなろ!」
見えない衝撃に弾かれたクロエが地面に落ちると同時に片足で立ち上がりその位置で腕を構えた。
投擲のフォームをとるクロエの左手の中で生成された雷の槍が『ナイトメア』目掛け放たれる--
寸前、『ナイトメア』の小さな本体がクロエ目掛け空気を投げつけるみたいに両手を振り下ろす。
見えない圧がクロエにのしかかり、耐えきれずクロエが一瞬で潰された。
地面にめり込むほど押さえつけられたクロエが身体の奥からひねり出てきた血を吐き散らす。
……本当に化け物だ。
もはやただ見ているしかできない私の半分になった視界に、丸まっていく鳥かごが映る。
このまま取り込まれれば戻っては来れないだろう。『ナイトメア』は、シオリが花梨に触れたことで本気を出てきた。
負ける……
--母さん。
混濁する意識の中に、唐突に響いてきたのはそんな声だった。
声はまるで拡声器でも使ってるみたいに夢の世界全体に響き渡っている。その声は、私たちが求めたここまでやってきた理由そのもの--
--もういいよ?母さん。
『……ぁ。』
--真奈美を離して。いじめないで。
夢の世界に響く花梨の声が、空気を震わせ、ひび割れた世界の空を少しずつ細かく砕いていく。
子から母へ--優しい破壊が世界を毒のように蝕んだ。
『寝てなさい、花梨。寝てなさい。寝てなさい寝てなさい寝てなさい寝てなさい寝てなさい寝てなさい寝てなさい寝てなさい寝てなさい。』
狂ったように叫び出す『ナイトメア』の本体--その胸部の赤い脈打つ心臓が大きく膨れ上がりはじめた。
同時に、クロエを押し潰していた圧も消え、ぺしゃんこ一歩手前の彼女が解放される。
--これ以上、私の友達に酷いことしないで!
一際大きな揺れと共に、夢の世界の空が砕け散る。
割れた雲の向こうは夜闇よりさらに深い暗黒。
地響きと共に地面が割れ、底の見えない深淵が口を開くようにひび割れの奥から顔を覗かせる。
『かぁぁりぃぃぃんッ!!!!!!!!』
息が出来ずに苦しむように『ナイトメア』が喉を掻きむしる。猛毒の黒い血を口だけでなく目からも垂れ流し、触れた地面を焼き、侵し、溶かしていく。
割れた地面の花の上に、そして立ち上がったクロエの身体に直接、真っ黒な血の滝が降り注ぐ。
「……っ!うぅっ!!あっ……!!」
再び左手を構えたクロエが身体を焼く血に苦悶する。血が出るほど唇を噛み、片脚でバランスを取りながら地面を踏みしめる。
「……っ借りもんなんだよっ!この身体……っ」
身を焼く激痛に呻きながら耐え、左手に雷槍が充填される。上半身を大きく反らせ、反動をつける。
「弁償しやがれっ!!」
クロエの隻腕が思い切り振り切られる。放たれた雷槍は青い閃光となって空を駆け、真っ直ぐに『ナイトメア』の心臓を貫いた。
花梨からの干渉か--花梨を傷つけられない故か、取り込んでいたから干渉が強いのか…
花梨による干渉により無防備になった『ナイトメア』にはもうその一撃を防ぎ切る余力はなかった。
『ナイトメア』本体の白い体に特大の風穴が空く。
心臓を穿ち、突き抜けてなお撒き散らされた電撃は衰えず『ナイトメア』の全身を焼き続ける。
『わ……たし……は、……っあぁ、花梨っ。』
最期の断末魔はあまりに弱々しく--
夢の世界が完全に砕け、割れた風景の先からは真っ暗な“無”が私たちを包む。
まるで壁紙が剥がれるように荒野が砕け散り、底なしの暗闇に私は落ちていく。
虚空に手を伸ばすのは『ナイトメア』の弱々しい本体。
白く枯れ木のように細い腕を上に伸ばしながら、ゆっくりゆっくり吸い込まれるように落ちていく。
それを見つめながら、私も続くように落ちていった。
……シラユキの時と同じだ。底の見えない深淵が、私を引きずり込んでいく。
緩やかに、しかし確かに私を引っ張る闇の引力に抗う術はなく、私は静かに目を閉じた。
--大丈夫ですよ。ヨミ。
不意に暗闇に声が響いたような気がした。その声はひどく懐かしく、そしていやにはっきりと……
--きっと、手を取ってくれるから……
優しげな囁きを耳に、私は微かに入る力で腕を伸ばした。
弱々しく伸ばされた腕の先には、誰もいなかった。
※
「……たった今、『サイコダイブ』が終わったようです。」
すっかり日が落ちて辺りが暗くなってきた。
古臭い館の館内が、薄暗い静寂に包まれる。テーブルの上の燭台に立てられた蝋燭の火が開けた窓から入ってくる冷たい風にゆらゆらと揺らめいて落ち着いた空間を演出する。
蝋燭の火にオレンジ色に照らされたグラスの中でハイボールを揺らすと、カラカラと氷が心地いい音を立てた。
「……へぇ。で?」
No.04の報告に俺はとりあえず結果だけ聞いておこうと耳を傾けた。
「『ダイブ』自体は恐らく成功ですが…誰一人今だ目を覚ましません。うち一人は、脳波に異常が確認できます。」
「あっそ。」
『ナンバーズ』が戻ってこられない夢だ。『量産機』ではお話にならないだろう。
正直成功しようがしまいがどうでもよかったが、成功したのにまだ誰も目を覚まさないというのはどういうことだろうか。
No.10のみならずNo.09まで再起不能になったら、さすがに環に小言を言われるだろうか。
「01、今回の『ダイブ』はマザーにはなんと?」
「何も言うな。必要ない。必要なら俺から話す。」
外から吹き込む風を楽しみながら、アルコールで舌を濡らした俺はそう返す。
後で『ダイブ』の計測記録を覗いてみよう。その結果で橘花梨が有用なのか否かもはっきりするだろう。
環は花梨を『ナンバーズ』にでも加える気だったのだろうか?
いずれにしろNo.10は空席になってしまった。奴はもう戻らないだろう。
「……04、10は廃棄しろ。代わりを用意する必要がある。とりあえずの代用なら、『量産機』からでもいい。」
「はい。」
環はNo.10の代用品を必ず用意するよう言うだろう。先んじて動いておけば、あの女の機嫌もいくらかはいい。
外を見やるとすっかり夜の様相だ。
夜の帳は降り、『ダイバー』たち……哀れな子供たちの夜は今から始まるのだろう。
強者に搾取され、生きる場所だけ与えられ、生きる目的も不明瞭な子供たちに、俺は憐憫の視線を投げていた。
夜空に浮かぶ満月を通して--




