第2章 17 好きなんだ
※
シラユキの腹にくい込んだ包丁の柄をしっかり握り、イメージする。
柄と私の手が一体になるイメージ。どこまで出来るか知らないが、包丁を通して私とシラユキの体が繋がるイメージ。
(…なにがひとりじゃないだ。お前もこいつを殺すんだ。)
犬達を生み出し続けるうさぎの面の生首が私の頭の中で嘲りを吐き捨てる。
瞬間、私の中にシラユキを通して様々な心象が流れ込んでくる。
白い家、チャリー、ネズミの味、向けられない両親の瞳、緑の芝生、命乞いする泣き顔、大きな食卓、ピンクのうさぎ、チャリーの居ない喪失感、初めての興奮、肉の感触、
誕生日のケーキ、お気に入りのペンダント、満たされた空腹、肉の味、かけっこで一等賞のなった日、誰かの笑顔--
色んな風景が、感情が、感覚が、ごちゃ混ぜになって激流となって私の中に入り込んでくる。せき止めきれない感情の奔流に私の傷口が大きく裂けた。
限界ギリギリの精神汚染。
自分が誰なのか分からない。見ているどれが私のものか分からない。
「…こん、なの…っ私じゃ…ないからっ!」
身体が虚に投げ出されたような、頼りなく不安な感覚に私は抗いながら、あまりに頼りない自分の記憶を手繰り寄せる。
--それをそのまま…
「…あなたにあげる。」
押し出すように、吐き出すように、押し付けるように……
私の中のものを全部、包丁を通してシラユキの体に押し込める。
--あなたに出会った時のことを。
--あなたに助けられた安堵を。
--あなたの笑顔に触れた日を。
あまりにも頼りない、ほんの少しの二人の時間。
共有した時間も、感情も、あまりに少なくて、でも私はあなたを知っている。
「…これは、“あいつ”には無い。“あいつ”は知らない。……私は、あなたを知っている、から!!」
シラユキはひとりじゃない。
シラユキはこんなやつじゃない。
げらげらと、嘲笑うように頭の中で響く笑い声に、私は声を張り上げた。
「シラユキはっ…そんな笑い方しないっ!!」
シラユキの覚えている--覚えてくれていると信じたい記憶。
私の中の、共有した時間の記憶を、感情と共にシラユキに押し流す。
果たして届いているのかは分からない。
でも、もし届いているのなら、シラユキの中に上書きされた誰かの記憶と、シラユキの知っている記憶の齟齬に、その食い違いによって二つの精神の融合に綻びが生じるかもしれない。
だって、この思い出をこいつは知らないから--
思い出す。情景と感情を。それを自分でも噛み締め、飲み込み、理解する。
--私はこの子が好きなんだ…
夢の世界が大きくひび割れ、青い空が落ちてくる。
「っ!!」
『ダイバー』からの健全な精神への精神干渉--その負荷に耐えかねたか?
夢の世界--精神の瓦解の予感に私の心臓が絞られるように縮み上がる。
(…くそ。)
頭の中で声がした。
直後、生首の血溜まりから這い出ようとしていた犬達は、形を保てなくなり泥のように崩れていく。
目の前、私と繋がったシラユキの体も、割れたガラスのようにひび割れ、音もなく崩れ落ちていく。
「…シラユキちゃんの拒絶反応が消えた?」
突然の現象の原因をコハクが推理する。
『サイコダイブ』による干渉への拒絶反応が消え、夢の世界の抵抗が無くなった。
シラユキのトラウマから生み出された敵は存在出来なくなり、彼女自身も自壊した。
ひび割れた夢の世界--
残されたのはうさぎの面を被った生首ひとつ。
「…切り離せた?」
「みたいだね。」
息を切らすハルカに肩を貸しながらコハクが返す。
--上手くいった。
私は呆然と立ち尽くして息を整える。
シラユキは自分の中に巣食った狂気を否定し、自ら切り離した。
安心ばかりはできない。
私の感情と記憶を無理矢理流し込んだのだ。シラユキの精神に、どれくらいの影響が出るのか分からない。
ただ、私は思った。
大丈夫……あの子は強い。
きっと私ごときの思念に負けることはないだろう。
「じゃあ後は…」
コハクの肩から離れながら、ククリナイフを強く握ったハルカが前に出る。
私たちが取り囲む先--シラユキの中に巣食い苦しめた原因が、身動きの取れない生首になって転がっている。
(…僕を殺すの?)
私の頭の中に少年の声音が響く。どうやら、この声は私にだけ語りかけてきているようだ。
先程までとは一転して怯えるように声を震わせている。清々しい程の手のひら返しだ。
「…出ていってもらうだけ…シラユキの中から。」
ただの精神異常に“殺す”という概念があるのか?
--そして、シラユキの拒絶反応が消えた今も、まるで意思を持っているように私に語りかけてくる。
やはりこいつはシラユキの精神異常じゃないんだ。
これは、一体なんなんだろう?私たちは何を見せられているのか?
(出ていく?ここは僕の家だ。…ここから出ていったら、僕はどこに行けばいい?)
生首の弱々しい声に引きずられるように、私の精神状態も後ろ向きな色に変わっていく。
いけない。これ以上聞くな。
私の頭に声が語りかける中で、コハクが大鎌を振り上げた。鋭い切っ先がうさぎの面に向けられて振り下ろされる。
(…ここから出て行けと言うならさ、)
「っ!?」
少年の声音が変わった。
直後、あと少しのところでうさぎの面を貫けたコハクが腕を止めて大きく飛び退いた。
ひび割れた空を仰ぐうさぎの面。その灰色の面が砕け、中からなにか飛び出した。
ピンク色のぬいぐるみの腕だ。生地を突き破って白く長い爪が生え揃っている。割れた面の下、真っ黒な影のように塗りつぶされ、目も鼻もない顔が覗く。その口から、明らかに首の体積を上回るぬいぐるみの腕が飛び出した。
その腕には見覚えがあった。
「…っしつこいうさぎだな!!」
もううんざりだ。しばらくうさぎがトラウマになりそうだ。
(--お前の中に入らせろ。)
うさぎの不意打ちの直後、私の中に感情の奔流が流れ込む。
それは今までとは質の違うもので、私の胸中をひたすら“不安”で塗りつぶしていく。
--消えたくない。
手に取るように分かる“こいつ”の不安。深い暗闇に堕ちる恐怖が、私の精神を致命的に汚染する。
私の中に入ろうとしてる。
「ヨミッ!?」
ハルカの声に私は一気に引き離されかける意識を辛うじて繋ぎ止めた。
「……?」
そこで気づく。ハルカが叫んだ訳を、私の異変に。
私の瞳からぽたぽたと、雫が零れた。
せき止めきれず、飽和して溢れた不安が涙となって砂浜に落ちた。
わけも分からず泣く私に、コハクとハルカが精神汚染の気配を感じ取る。油断ならない緊急事態に二人がうさぎの面にトドメを刺しに行く。
「--キャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァアッ!!」
それぞれ得物を振り上げた二人の前で、不安を掻き立てる絶叫が夢の世界を激しく震わせる。
黒いのっぺらぼうの口を裂きながら、狭い出口を無理矢理開くピンクのうさぎが夢の世界に顕現する。
全身は血みどろで、破けたぬいぐるみの皮からは赤黒い内蔵が覗いている。醜悪な姿で血を吐き散らし、禍々しい牙の生え揃った口を開け咆哮する。
--死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。
私の中に流れ込んでくる思念。私は完全に身動きひとつできなくなっていた。
限界ギリギリだった精神汚染。その一線を超えた私はもう自分を見失っていた。
「キィャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」
うさぎの絶叫に共鳴するように、不安が広がる。
「ヨミっ!!」
「…ちっ、なんだこいつっ!」
私に駆け寄ろうとするハルカとコハクがピンクうさぎに阻まれる。
凶悪な剛腕を振り回すうさぎの懐をとるコハクの鎌が、右腕を斬り飛ばす。
(もうお前も僕のものだね。)
私の中に少年の声が響く。
(もう手遅れだよ。お前も僕の家にしてやる。)
このままだと、戻れなくなる。
いつの間にか、私の目線の高さまで浮遊して来た生首がニヤリと笑う。
(…ずっと一緒だ。)
薄れていく私の自意識。塗りつぶされていく思考の中で、私はただ感じた。
自分が消えていく恐怖を--
消えたくない--その精神汚染の思念と、私の感情が重なった。
動かなかった私の体に、ほんの少しだけ力が入った。
--このまま戻ったら、私は消える。
私は目の前に浮かぶ生首を抱え込むように捕まえる。触れたことによってさらに精神汚染が加速する。
消えたくないという、互いの生存本能がせめぎ合う中、私は砂浜を駆けた。
「ヨミッ!?」
ハルカの声を背中に受けて、私は青い海に飛び込んだ。
--深く深く、さらに深い深淵に。




