第2章 15 誰の声
少女は仮面を被っていた。
灰色にくすんだ、不気味な鉄製の仮面。丸い面の上に二つの長い耳が生えている。無機質な仮面の奥からは、灰色の目がこちらを覗いている。
その額のところには、指一本くらい入りそうな穴が空いていて、奥からどす黒い血が流れ出ていた。額から流れ落ちる黒い血が少女の白いワンピースを染め上げる。
この少女が先程の人影であることは間違いなかった。
「…っ」
突然目の前に現れたそれに私は反応が遅れた。
うさぎを模した仮面の少女は、勢いよく私の首を鷲掴みにし、締めにかかる。細腕から発揮される腕力とは思えない力に私の足が浮き上がった。
力強く締められる首に、私はデジャブを覚えながら抵抗を試みる。
しかし、うさぎの面弾痕と、ひび割れた夢の世界が私の中で結びつき、反撃の手を止める。
そんな大甘な私の隙に、狡猾なうさぎは容赦なく付け入る。
締められた首を通して、私の中にまたしても暗い記憶が濁流のように入ってくる。
私の語りかけに対して反応を示さない両親は、食事も用意せず、いつもの家にいない。たまに帰ってきても、私のことなど気にする素振りも見せず、すぐに出ていってしまう。
--私はいらない子なのかもしれない。
他のうちの子はもっと愛されてる。
ご飯も作ってもらえるし、お菓子だって、おもちゃだって…
友達はうさぎのぬいぐるみだけだった。
暗い世界の中でピンクのうさぎだけが、私を守ってくれた。
--っ!!
…違う、私じゃない。
あまりの勢いに私の精神は一気に侵された。それを何とか押し留めて、私はライフルを持ち上げた。
握ったライフルの銃身でうさぎの面を全力で殴る。しかし、不十分な体勢と足が宙に浮き踏ん張れないこともあり大した威力にならない。
まるで触れられていないみたいに、うさぎの少女は殴られても微動だにしない。
「…っ」
その間にも、じわじわと抑えきれない記憶と付随する感情が染み込むみたいに入ってくる。
大きくなって施設を出ても、過去のトラウマは消えなかった。
楽しげな家族が妬ましがった。
充実した日々を送る子供たちが許せなかった。
自分には何も与えられなかったのに、なぜ奴らだけ持っているのか?
--まずい。侵食してる。
このままではシラユキの二の舞だ。
私は首を締められたままウィンチェスターライフルを手で回す。スピンコックにより次弾を装填し、それを少女に向けた。
躊躇してられない。
私が引き金を引くより早く、突然少女の背後に現れた誰かの残像が少女の頭を刈り取った。
同時、少女の腕から開放された私が空を仰ぐ。
青空のひび割れはさらに広がり、亀裂から雨のように血が流れ出る。
頭の中で悲鳴が響いた。
--白い豪邸に、大きな犬
犬の名前はチャリー。小さい頃からの一番の親友だった。
私が八歳の頃、チャリーは車に轢かれて死んでしまったけど。
「…っこれは?」
ぼとりと、砂浜に落ちる少女の首を見下ろす美少女--少女の首を刈り取ったコハクが頭を押さえて呟いた。
頭痛に耐えるように眉根を寄せるコハクが私と同じく頭上を見上げた。
私が見つめる先、住宅街の道の真ん中で横たわるチャリー。地面には赤い線がべっとりと張りつき、バンパーがひしゃげた車まで続いている。
……これは?シラユキの記憶。シラユキのトラウマ?
頭の中が酷く混乱する。冷静な思考を欠いて、答えのない問答が頭の中をぐるぐる回る。
なぜ?どうして?どうしたの?
ひび割れた空から血とともに流れ落ちてくるように、じわじわとシラユキの過去と感情が私の心を侵食する。
おそらくコハクも私と同じものが見えている。
「…コハク!」
「……」
私とコハクの視線が交差した瞬間、立ったまま動きを止めていた少女の体が動き出す。首を失ったまま、両腕を振り上げてコハクに迫った。
「…っと。」
両手の草刈り鎌を構え、応戦の形をとるコハクの目の前で、少女の体はピアノ線に縛られ強制的に動きを止められた。
「ヨミ!コハク!無事?」
私の背後から飛んできたピアノ線を視線で辿ると、ハルカがこちらに駆けて来ていた。
「…大丈夫だよ。私たちは…」
コハクの含みのある言い方にハルカもおおよその状況を察する。
「二人とも、今のは…」
今の--おそらく混ざってきたシラユキのトラウマだろう。ハルカにも精神干渉が発生していたらしい。
目の前のうさぎの少女からは誰かの--シラユキを蝕むトラウマの持ち主の感情と過去が…
その少女を攻撃すると、呼応するように夢の世界にいる私たち全員に、シラユキのトラウマが…
どうやら事態はかなりめんどくさい事になっているようだ。
「…先生は同期、いや“上書き”されたって言ってたけど…」
「ここはシラユキちゃんの夢の世界。精神異常の原因である彼女は、この世界に寄生してるわけだ。」
私とコハクが、この状況を推察する。
「この精神異常の核を攻撃すると、連動してシラユキちゃん自身の心にもダメージがいくみたいだね。」
コハクの推理にハルカの表情が強ばった。
先生が想定した最悪のケースになったというわけだ。
『サイコダイブ療法』の根幹である対象者の精神異常の原因の抹消--それはイコールシラユキの心を“殺す”ということになる。
「…まず、切り離さないと。」
「切り離す?」
私の呟きにハルカが疑問を呈する。
「どうやって?ていうか、それをする為に潜ったわけなんだけど…従来のやり方じゃダメってこと?」
ごもっともな疑問だ。
私たちは医者じゃない。この世界でできることは“敵”を倒すことだけだ。
「…二人とも、来るよ。」
私とハルカの会話にコハクの声が割り込んだ。
直後、コハクによって切り落とされたら少女の首から広がった血溜まりから黒いなにかが這い出てくる。
「…犬。」
ハルカは思わず目を背けた。
出てきたのは大型犬の形をしたなにか。ただし、その犬に頭はなく、首の断面からは生々しい傷口が覗いている。血の中から出てきたからか、その体毛は本来の色を失い赤黒く塗りつぶされている。
這い出てきたのは、間違いなくシラユキのトラウマを具現化したものだった。
…さっきの精神的ダメージでシラユキ本人の私たちに対する拒絶反応が出てきた?
--あるいは、この住み着いた悪魔によるものか?
首のない狂犬達は、一斉にハルカに襲いかかった。
「っ!」
反射的に後ろに飛び退くハルカを守るように、私はライフルの引き金を引いた。
しかし、私の撃った弾はかすりもせず、砂浜に撃ち込まれて吸い込まれた。
……っ速い!
狂犬たちは私の捉えられない程のスピードで砂浜を駆ける。
「っくそ!!」
あっという間に追いつかれたハルカは覚悟を決めて、応戦の構えだ。影から大ぶりのククリナイフを取り出し構えた。
首なし狂犬がその爪でハルカの体を切り裂かんと飛びかかる。
ハルカが応じるより先に、その狂犬の体が綺麗にふたつに割れた。
「…え。」
呆気にとられたハルカに続けざまに襲い掛かる狂犬たちが、その間を縫うように駆けるコハクの大鎌に次々斬り捨てられていく。
速…あんな動き…
犬たちですら私では弾を当てられない速さだと言うのに、コハクはそれすら上回る速度で犬を容易く切り伏せた。
先生がコハクのたった一言で折れたわけだ。
…この子、すごく強い。『サイコダイブ』適性が高いんだ。
夢の持ち主が主導権を握る夢の世界で自在に動けるということは、それだけ適性が高く、『ダイバー』として高い資質を有している証だろう。
私が並だとするなら、彼女は一線級の戦闘力だ。これだけの動きができるならきっと現実でもすごく強い。
「ハルカ、そのままあの子抑えててよ。私守るから。」
「あ、はい…」
急に実力差を見せつけられてハルカの方もすっかり萎縮してしまっている。
(……やめろ。)
「!?」
私の頭の中にまたしても何かが割り込んでくる。
精神汚染では無い。声だ。鼓膜を介さず直接頭の中に入ってくる声だ。
(僕を放っておけ。)
声の主は、砂浜に転がり自らの血溜まりから狂犬を生み出し続ける生首だ。
(お前が僕を“殺したんだ”。ここは僕の家だ。)
ここ--シラユキの夢の中のことだろうか?
「ヨミ。」
テレパシーのように頭に響く声にコハクの声が割り込んだ。
「そいつとシラユキちゃんを切り離さないといけない。それはわかってたことだよ。問題は方法だ。」
…方法?
「こいつはシラユキちゃんじゃない。」
犬を片手間に片付けながらコハクは言った。
「…それを、理解させればいい。シラユキに。」
どうやって?
私は自分で口にした言葉に疑問を投げた。
答えが出ないまま私は走った。
目の前転がるうさぎの少女の首めがけて。
私は考えていた。今のやり取りを…これまでの『サイコダイブ』を…
私たちが夢の世界に潜り、“敵”を倒すことで対象者の精神状態を安定させる--それが『サイコダイブ療法』だ。
だが今回のケースの場合、シラユキの精神そのものに異常はなく、精神汚染によりシラユキの中に入ってきた“こいつ”がシラユキをおかしくさせている。
従来の『サイコダイブ』でいうと、“こいつ”さえ仕留めれば異常性は解消される…が、シラユキの精神と深く密着した“こいつ”への攻撃はシラユキの正常な精神にまでダメージを与えるため、結果的に致命的な精神汚染の原因にもなりうる…
シラユキの体の中でシラユキと痛覚を共有している腫瘍を麻酔なしで取り除くようなものだ。
腫瘍を切り取ろうとメスを入れれば、痛みはシラユキにフィードバックする。
シラユキが入ってきてしまった“こいつ”を忘れるか、自分と切り離すことが出来れば問題は解決する。 要は自己治癒出来ればということだ。
今の彼女にはそれが難しい--外的要因による後押しが必要…
…今、この精神異常とシラユキは同化した状態。シラユキにとって、こいつの思考、感情は自分のものになってる。
…なら、今のは?
--僕を放っておけ。
奴は私に確かに言った。それはシラユキの意思か?
いや、私はシラユキを“殺してない”。これは、シラユキの精神を汚染した”誰か“の言葉なのだ。
どういうことだろう?あの時私たちが潜った夢の主と、シラユキの夢が直接繋がってるわけじゃない。“こいつ”はあの時のシラユキの精神汚染によってシラユキの中に入り込んだ感情が定着したもの。
ただの精神汚染による異常だ。
汚染された精神そのものが意思を持ってるみたいに私に語りかけてきたのか?明確に、あの時の私たちの『サイコダイブ』の記憶を引き継いだ状態で?
「…分っかんない!」
私は思考を放棄して首を全力で蹴りあげた。これ以上、その血でシラユキの心を汚させないように。
しかし、首はピクリとも動かない。
「っ!?」
まるで地面に蹴りを入れたような無力感。生首と砂浜は、間に広がる血溜まりで微動だにしない程固く癒着していた。
見事に蹴りを殺された私はみっともなく首に躓くようにつんのめる。隙丸出しの私に血溜まりから狂犬が襲いかかってきた。




