第1章 2 私の世界
「--がっ!?」
大きく空中で弧を描いてから、はるか遠方に私の体は打ち付けられた。
石畳に落下し、その勢いのままバウンドし転がる私の視界は急激に赤く染っていく。
……目に血が入ったか?
なんて、じくじくと痛む頭を押さえると、先程とは比にならない量の血がベッタリと左手のキャンパスを染め上げていた。
うわ…
あまりの量。
左手に視線を落としていると真下の石畳にもドボドボと血が滝のようにこぼれ落ちる。
この世界ではどんな傷を負っても死ぬことは無い。
何度も言い聞かせるように、再確認するように頭の中で唱える。大丈夫だと。
それほど、大量の血がこぼれていた。
いくら夢の中だろうと、自分の体からこんな量の血が噴き出していたら誰だってゾッとするだろう。
「……っ!!ヨミっ!!」
遠くの方でハルカの声がする。
……あぁ、やばい……
いよいよ意識が遠のきはじめ、微かな恐怖と、覚醒の予感に安堵する。
どうやら時間切れらしい…
赤く霞む視界の先、下顎から上を失ったグロテスクなうさぎが石畳を砕き割っている。割れた石畳の破片が大量の白いねずみに変化し、うさぎと対峙するハルカの方へまるで高波のように迫り来る。
「うわぁぁぁっ!!サイアクっ!!」
ハルカの悲鳴にも似た叫びを聞きながら、私の意識はなにかに引っ張られるように深く深く沈んでいく。
眠りに落ちるように--
名残惜しげに、未練たらしく、夢の国にしがみつこうとする意識が引き離されていく。
まるで砂浜に描いた落書きが緩やかな波に押し流され消えていくように…
またしばらく、夢の世界とはさよならだ…
--もう二度とごめんだけどね…
※
割れるような頭の痛みが残っている気がして、私は顔をしかめながら目を開けた。
視界に映るのは親の顔より見慣れた天井。最も、親の顔など覚えていないけれど…
枕に頭を預けたまま、おそるおそる額に手をやる。ひんやりと濡れた感触が手のひらに伝わりぎょっとするが、手のひらについていたのは透明な寝汗の湿り気だけだった。
赤かった視界も正常だ。
「…生きてる。当たり前だけど…」
私はベットの上で上体を起こす。頭を引っ張られるような感覚に思い出したようにこめかみに手をやる。
頭に張り付いた電極のような線をプチプチと剥がし、線のつながった大きな機械のモニターに目をやる。
モニターに映し出された心電図は正常な値を示し、今日も私の心臓が真面目な働き者であることを教えてくれる。
「…おはよう、私の世界。」
今もしっかりと記憶にへばりついている悪夢を振り払うように頭を振り、私はベットから脱出した。
--私の部屋。
家具はアンティーク調の古めかしい物で統一されている。私がさっきまで身を預けていたベットから部屋の隅のクローゼット、壁にかけてある時計、申し訳程度に置かれた小さな机と椅子。
床は板張り、壁紙と天井は薄いクリーム色で統一されている。
これが私に許された小さな世界。
最も、この寄宿学校のどの部屋も全て同じレイアウトで統一されているのだが。
それでも、長年住み慣れたこの部屋は簡素ながらも私の趣味嗜好が随所に散りばめられており、私には今のこの小さな世界になんの不満もない。
ベットの横に置かれた小さなテーブルに鎮座するうさぎの置物もそのひとつ…
なのだが…
「これは処分しよう。」
私の方に向かって毎日変わらず愛らしく笑いかけてくれる小さなうさぎさんだが、今朝はやけにその笑顔が憎たらしい。ので、後でゴミ集積所にぶち込んでおく。
私は小さな窓のカーテンを開け全身に朝日を浴びるとクローゼットに向かう。
クローゼットの中身は十六歳の少女の持ち物とは思えないほど彩りに欠けてつまらない。
手馴れた手つきで制服を手に取り、ワイシャツを着、膝上十センチのスカートを履き、ネクタイを締めてブレザーに袖を通す。
ものの一分足らずで完璧な私の出来上がり。
「…っと、それと…」
頭のお堅い学校生活。カッチリと校則に縛り付けられた窮屈な日々の中での、私の小さなオシャレ。
左右に三つずつ空けられた耳の穴にピアスをはめ込んでいく。
安全ピンでおっかなびっくり自分で開けたピアスの穴。ばれた時は随分小言をいわれたっけ…
この髪の毛もそうだ。
クローゼット横の姿見の前に立ち、全身をくまなくチェックする。肩をくすぐる程度の黒髪に、赤いメッシュが自己主張している。
ピアスに髪の毛…
窮屈な生活へのせめてもの反抗。とはいえ、今となっては少し調子に乗りすぎたと少しだけ後悔している。お陰で周りから浮きまくりだ。
……少しだけである。
身支度を済ませ、小さな私の城から外へ出る。
ひとたび部屋から出るとそこから先は窮屈な寄宿学校だ。
古めかしい造りの寮の廊下はすでに全ての窓のカーテンが開け放されており、気持ちのいい朝日を寮内に迎え入れている。
すでにちらほらと廊下に出てきている生徒もおり、彼女らに習って私も洗面所へ向かう。
これまた古臭い寮のトイレでは、まだまだ寝ぼけ眼の女生徒達が顔を洗い歯を磨くため列をなしていた。私もその中に混じり、今だ覚醒しきっていない思い瞼に一日の始まりを知らせてやろうとお行儀よく順番を待つ。
「…おはよう、ヨミ。」
私が列に並んでいると、隣の列に寝癖を盛大につけた悪友が寝ぼけた面で並んできた。
「…おはよ、ハルカ。さっきぶりだね。」
「呑気そうだねアンタは…目覚めはどう?」
「朝一番からうさぎの置物に殺意が湧いてきたよ。」
目覚めの良い朝など、ここ数年記憶にない。たまにはいい夢でも見てみたいものだが、ここで生活している以上願っても無意味だろう。
「ハルカは?」
「最悪だよ…あと、朝食の前にマザーが呼んでる。」
「うへぇ。」
十中八九、昨夜のミスのことだろう。そういう面白くない話は出来れば空腹の時には聞きたくない。
「きっと目が覚める素敵なお話よ…」
「そりゃよかったね。」
ハルカの軽口に適当に相槌をうちながら私は洗面台に辿り着き、今だ重たい頭を覚まさせるため手の平いっぱいに溜めた冷たい水を顔面に叩きつけた。
※
近年、爆発的に増加していく凶悪犯罪。ここ数十年、日本を含む先進国、そして発展途上国における犯罪件数は増加の一途を辿っており、国際的な問題にもなっている。
今では夜中に一人で出歩こうものなら、三歩も歩かぬうちに持ち物を盗られるか、後ろから刺されるか…
日本でも夜中の22時以降は外出禁止令が発令されている。ひと昔前なら到底信じられない話である。
原因は貧富の差やストレス社会化、世界情勢の不安定化による不安、宗教的思想の対立…よく分からないがいくらでもあるだろう。
そんなどうにもならないような現状に対して偉そぶった有識者達が眉間に皺を寄せてテレビの向こうであーでもない、こーでもないと議論している昨今…
そんな何かと不安の多いこのご時世、お宅のお子さんを安全、安心に教育できる理想の環境をご用意致します--
というのがこの寄宿学校の触れ込みらしい。
小中高一貫、完璧なセキュリティと最高の教育で次世代を担う子供たちを安全かつ完璧に育成する…
--しかし実際は、金はかけても手間はかけたくないという親達にとって都合のいいだけの学校。
その証拠に、私は物心ついた時からこの寄宿学校で生活していた。小中高一貫とうたってはいるが、実際はもっとずっと小さい子たちも--それこそ、産まれてすぐのまだ親の顔も知らないだろう子供たちまで…
金さえ出せば面倒な子供たちの世話を全部見てくれて、適当に大きくなって手がかからなくなったら適当な就職先、進学先を提供してお返しする…
ここはそんなところだ…
親にとっても、そして子供たちにとってもこんなに楽な話はない…
ただここで数十年、惰性で日々を過ごすだけで残りの人生を約束されるのだ。
自分の事を面倒だと突き放す親の顔など見たくもないだろう…
そんな思いも、ここではすることは無いのだから…
ただひとつ、ひとつだけ……
この学校に入れられた子供たちにはある仕事が課せられるのだが…