第7章 13 心の残滓
※
重い木製の扉をノックする。自動で開く扉から覗く執務室の向こうでは、予想外の来訪者にマザーが目を丸くしていた。
……いや、マザーの殻を被った“誰か”か。クロエの言葉を信じるなら。
「…おはよう。マザー。」
「おはようございます。早いわね。」
まるで精密機械を思わせるようなマザーの口調と、すぐに無表情に戻る表情筋。今までのマザーが纏っていたのが包み込むような森林のような雰囲気なら、彼女の雰囲気はまるで真っ白に広がる氷海だ。
「会いたくて……」
「私に?なんの用事?忙しいのだけれど。」
「お母さんに会うのに理由や用事がいるの?」
私の言葉に彼女は無機質な顔で小さくため息を吐く。
「……用事がないのなら戻りなさい。」
付き合うでもなく、窘めるでもなく、ただ突き放す。やっぱり、私の知ってるマザーではない。
鬱陶しいと、欺瞞だと、白々しいと、内心で唾を吐いていたあの人の態度とは違う……
居なくなってしまった。それを目の前で私は確かに確信し、受け止めた。
どうしてかな?嫌いだった。苦手だった。
なのに、居なくなって、成り代わって、あの人の居た場所に座っている誰かに私は不思議な感情が込み上げる。
ここに来たのは思いつき。同時に、心の靄をひとつ、せめて払おうと思って来た。
立ち尽くし動こうとしない、それでいて口をつぐむ私に彼女は再びため息と共に立ち上がる。
「……なに?何かあるの?」
「……。」
「あるなら早くしなさい。話は聞きます。ないなら戻りなさい。」
「--マザーはっ。」
衝動的に、何をするべきか、何がしたいのか考えもせずここに来た。
何を言うべきかも分からないまま、何をすべきか分からないまま、私は言葉を胸からそのままの形でひねり出した。
「……私たちのこと、好き?」
自分で何を言ってるのか…問いの意味、そして求めている答えも考えてない。
ただ、彼女から何かを聞きたい。何かを、どんな形であれ、答えを求めてた。
「……ええ。」
役割に殉じた、実に機械的な感情のない声が淡々と帰ってきた。
それが答えだった。
変わったマザーの姿や言動より、その一言こそが何よりこの人がマザーじゃないことを私に解らせた。
その瞬間、私には彼女の顔が見えなくなった。
「……そう。」
「質問は終わり?戻りなさい。忙しいの。」
「……マザーは、私たちに用事ないの?」
「……?」
質問の意図が分からない様子でマザーは黙りこくる。次に紡がれる私の言葉を待っていた。
「……マザーは、前のマザーのこと、どこまで知ってる?どんな人だったとか。」
「言っている意味が分からないわ。」
「あなたの前に、マザーをやってた人のことだよ。」
「……何を言ってるの?」
マザーの口の端が、微かに吊り上がった気がした。微かな同様と、得体の知れないものを見る恐怖が入り交じったみたいな……
「……私はずっと私よ?」
「……ううん。」
私は首を横に振った。
「ハルカがさ……私の友達が、マザーが変わってしまって傷ついてるんだ。」
「……。」
「あなたは、誰?」
外の薄暗さが室内を塗りつぶすみたいだ。部屋の暗さと、彼女の顔の影が私の胸をざわめかせる。
「聞かせて欲しいんだ。前のマザーが消えたのは、マザーへの『サイコダイブ』が原因なの?前のマザーが居なくなったのは、ハルカたちが原因なの?」
「……。」
答えが返ってくるのが怖かった。けど、聞かないのも怖かった。
聞かなくても分かってる。クロエも暗にそう言ってた。でも、はっきり言葉として聞きたかった。確かめたかった。
「……ヨミ。」
彼女の口が動いて、私の身体が震える。
「『サイコダイブ』は犯罪者や精神異常者に対して行われるわ。私は、対象ではない。私に対して『サイコダイブ』が行われた事実はない。」
プログラムされた返答を読み上げるみたいなマザーの答えには誠実さも、必死さもなかった。なんだか、人間と会話してる気がしなかった。
「……そう。」
「ええ。もう終わり?なら戻りなさい。」
「……マザーはどこまで知ってる?」
食い下がる私のさらなる問いかけに、彼女は露骨に嫌そうな反応を見せた。こういう瞬間のみ、彼女の人間味が覗いた。それも一瞬だけど。
「……なにを?」
「ハルカたちの『ダイブ』の後の朝。ハルカの部屋の前に居たよね……?--ナイフ持って。」
私の問いかけにマザーは薄い唇を固く閉じる。
あの朝、廊下でマザーは私から何かを隠した。差し込む日差しに光ったのは、銀色の刃だった。
「……この学校は、私たちをどうするつもりなの?」
梅雨の蒸し暑さのせいか、それとも私の内側の熱か……握った手の中に汗が滲む。
「--ヨミ。」
私を見下ろすように高い上背から降り注ぐ視線は抜き身の刀みたいに冷たかった。
「例え私が何者でも、それはあなたの学校生活には一切関係の無いことよ?」
鞘の中に隠された刃をチラつかせられた気がした。怖さより、腹の底が熱くなった。
「……それは--」
「時間よ。」
彼女が呟くと同時に重々しい鐘の音が寮と学舎に響き渡る。
起床の合図と共に彼女は私に背を向けて執務机の前に深々と腰掛けた。
「朝の支度をしてきなさい。朝食に遅れるわ。」
「……。」
起床の鐘の音とともに、辺りが騒がしくなってくるのを感じた。生徒やマザーたちが、一日の始まりの準備を始める。
私はゆっくり、彼女から目を離さないように扉に向かう。これ以上彼女に私の為に時間を割く意思は感じられなかった。
「--ヨミ。」
「……っ。」
ようやく彼女に背を向けた時、彼女は執務机の向こうから声を投げた。
「……なに?」
「近いうちに、『ダイブ』があるかもしれないので、準備しときなさい。以上です。」
「……私は--」
「以上です。戻りなさい。」
※
「--例の三人の処分は保留となった。聞いたね?」
寮監であり、この学舎の責任者であるマザー小林の部屋は、私たち普通のマザーたちの執務室とは比べ物にならないくらい広い。
部屋のグレードの違いは、そのままこの学校での私と彼女の格差を表していた。
七十は過ぎているだろう老齢の器には深いシワがいくつも刻まれてて、そのシワが表情の変化に応じて形を変える。
「……聞きました。シオリという生徒は……」
「あの子は三人の代役…保険さね。放っておけばいい……」
「…それで、新しい『ナンバーズ』は?」
私の質問に寮監は落窪んだ眼窩の中の目玉をこちらに向けた。濁った瞳が果たして正しく目の前を捉えられてるのか、それすらもう分からない。
「……あたしらは理事会からの指示にだけ従えばいい……『ナンバーズ』の穴埋めなんぞ、あたしらの考えることじゃないよ。」
「……。」
「余計なことは考えなさんな。あんたの仕事は?」
「……ヨミ、ハルカ、シラユキ、コハクの監視です。」
「なら、それだけやってればいい。」
寮監は大きな黒檀の机の上の葉巻に火をつけ、深く煙を吸い込む。シワだらけの口から濃い葉巻の匂いが煙と一緒に吐き出された。
「あんたの“前”も、余計なことをしたから消された。あんたも、長生きしたいだろう?事情は知らんけど、あんたも望んだ身体をものにできたんだ。」
「……。」
「新入りのあんたに教えとくけどね、ここの生徒は人間じゃない。要らん情は抱かないことだよ?いいね?」
「……。」
「…蛇足だったね。」
寮監は話は終わったと、しわくちゃの枯れた手を私に向かって払う。出ていけということだろう。
私は素直に従い、踵を返して背中を向ける。
回れ右した先で重い扉がゆっくり開いていく。それを見ながら私は立ち止まって再び身体を寮監の方に向けていた。
「……?」
「ひとつ、いいですか?」
顔をあげる寮監に私は問いかけていた。
「肉体に精神は宿りますか?」
「……なんだいいきなり?」
「……私以外の思念…感情を感じます。身体が、時々……動かなくなる。これは、前の器の主の感情ですか?」
私の問いかけに、寮監は露骨に嫌そうな顔をした。
「あたしのさっきの話、聞いてたかい?」
「……。」
「それが、『ダイブ』直後のハルカを始末をしなかった言い訳かい?いいかい?要らない感情移入は無用だよ?あいつらは人でも、お前の娘でもないんだから……」
「……。」
「……はぁ。まだ精神が上手く定着してないんだろう。カウンセリングを受けて調整しな。仕事の言い訳にはならないよ?」
「……分かりました。」
……私は何を訊いてるんだろうか?
ヨミが部屋に来た時、私の身体が--胸部を中心に全身が、ひどく重くなった。まるで周りの空気が重量を持ったみたいに、何か分からないものが身体にのしかかった。
……ほんの少しだけ、痛かった。
目の前の人形に、痛みを感じた。
廊下の窓にぼんやり映る私の--器の顔を見つめ返す。
これはあなたの感情?
あなたは、どうして消されたの?
あなたは、胸を痛めているの?
私のではない、私を苛む胸の痛みを忌々しく思いながら、私は廊下を歩く。
騒がしく廊下を走る学生たちを横目に、私は歩く。歩きながら思う。
この身体は私を主と認めてはいないんだって……