第7章 10 クロエの冒険9
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--目の前で火花が散ったみたいに、チカッと光ってすぐ視界が暗転した。
動作中の機械の電源を強制的に落としたみたいな、突然の意識の喪失--直後に私を襲ってたのは、身体を包む浮遊感。
まるで水に浮いてるみたいな感覚、水面を揺蕩うみたいに、浮力に持ち上げられた私の身体がゆらゆら揺れてる気がした。
それもほんの数秒で、すぐに私の身体は下に引っ張られるように沈んでいく。
水に浮かんでる身体が自然に沈むというより、引っ張られて水底に引きずり込まれるみたいな力強さ。
--すごく、怖かった。
「……っ。」
息苦しさに喘いで上を向いたら、閉じた瞼の向こうが白んで眩しさを覚える。
状況が全く分からない中で恐る恐る目を開ける。
視界に飛び込んできたのは赤い空だった。
夜なのか真っ赤な月に照らされた夜の空、地面まで赤く照らされた不気味な世界はどう見てもさっきまで居た自宅の部屋どころか、現実の光景に見えなかった。
どうやら屋外の通りみたいだ。大きな道の両脇にずらりと建物が並ぶ。
木の格子付きの屋内が見える造りの座敷に、赤や紫の色とりどりの着物を纏った人の形をしたなにかがこちらを見て座ってる。
なにかは顔が真っ白で、穴が空いたみたいに真っ黒な目と口が不気味に笑ってた。
まるで客待ちをする遊女のようで、周りに広がる光景は昔の吉原遊郭のように感じた。
……いやなにこれ?
私を両脇の遊女屋から眺めてニタニタ笑う女達に囲まれながら、私は突然の異常事態に目を回してた。
視線を下ろして自分の身体を見る。特に異常はない。手も足も動く。
???なにこれ?夢?
「おー、ちゃんと潜れたな。」
後ろから飛んでくる声に肩を震わせて振り返る。
振り返った視線の先には、あのふざけたにやけ面が佇んでこちらに手を振って歩いてくる。
「……??……これ。」
私はどうなってしまったんだろうか?ここはどこ?もしかして、ネットなんかで見る安っぽいホラー体験談みたいな世界に本当に飛ばされてしまったのか?
いやこれは夢だ。きっと学校から帰って寝ちゃったんだ。だから私がコンビニに行ったのも、不良に襲われたのも、変なやつに絡まれたのも、これも全部--
「理解が追いついてねーな。これが『サイコダイブ』だ。」
と、目の前でこの状況を説明しだす女。こいつ名前なんて言ったっけ?
「『サイコダイブ』--きみは今誰かの夢の中に居る。夢はすなわち精神…ここは、どっかの誰かの精神世界ってことだ。」
……夢。ああやっぱり夢だ。だって夢だって言ってるもん。
どうやったらこの悪夢から覚めるのか。頬でもつねってみるか?
「この世界に入れるってことは、『ダイバー』の資質があるってことなんだが……どだ?信じる気になったか?」
なんか目の前で女がくっちゃべってるけど、無視して私は自分の頬をつねる。マクスの下に指を突っ込んで力いっぱい挟んで引っ張るけど……
「いててててっ。」
「……何してんの?」
指に触れた頬の感触に、熱。ヒリヒリと痺れるような痛みまで、本物みたいに体感した。
「……目が覚めない。」
「夢っつっても、現実みたいなもんだぞ?そんなんじゃ目ェ醒めねぇよ?」
何度も引っ張る私を見て女が笑ってる。
醒めない……いや予想はしてたけど…これは夢じゃないのか?というか夢って夢だって分かんないもんだよね?ん?じゃあこれなに?
「……ここ、どこ?」
「…きみ、ウチの話聞いてた?」
まさか本当にこれが『サイコダイブ』療法……?私は今、誰かの精神世界に居るっていうのか……?本当に?
じゃあ、こいつは本物……?私は本当に適正とやらがあるっていうの……?
「さ、のんびりしてる暇もねーぞ?」
と、女が私の前で屈伸しはじめる。なにかの準備体操のように見える。
通りに並ぶ遊女屋の中で、のっぺりした顔の遊女たちがケラケラ笑う。笑い声に意識を向けたら、それだけで気分が悪くなってくる気がした。
どうしようもない、原因不明のイライラが腹の底で煮えてくる。
「……あんた、これどうやったら終わるの?元の世界に帰してよ。」
「ん?そりゃ『サイコダイブ』が終われば帰れっぞ?」
「……だから、どうやったら終わるの?」
「器を空っぽにすんのさ。」
器を空っぽ?何を言っているのか理解できない。とにかく元の世界に帰りたい、ここは居るだけで不快になってくる。
「精神干渉ってさ、無理矢理したら拒否反応が起こんだよ。それを力づくで押さえ込んで、器の中身をぶっ壊すんだ。」
女が訳の分からないことを垂れてる間にも、私の耳の中で笑い声が増幅していくみたいに大きくなっていく。
頭が割れそうだ。しかも、幻覚まで見えてきた。
どこか分からないけど、覚えのない光景がフラッシュバックする。ネオンの輝く看板が見えた。それに知らない男の顔だ。
誰だこいつ。これ一体--
「器の中身ってのは、つまり“ここ”ね。」
ズキズキ痛みだす頭を抱えてうずくまる。
--直後、身体を揺さぶる程の振動が地面を伝って私に叩きつけられた。
「きゃっ!?なにっ!」
「おいでなすったぞー。」
振り返る先、遊女屋の屋根を踏み抜きながら這い回る巨大ななにかが映る。
シルエットは丸い胴体に四対の細長い虫の脚が生えたなにか。
ただ、その胴体には凹凸があり、それは目、鼻、口になっているのがわかる。
胴体にはデカデカと、髭面のおっさんの顔が張り付いていたのだ。というか、胴体がおっさんの顔そのものだった。
腫れた瞼に細い目、覗く瞳に光はなくまるで死んだ魚のよう。鼻は低く団子っ鼻、唇は乾燥して切れたような筋が走り、薄い。
顔全体は土気色で生気がなく、まるで死人の顔だった。
そんなものに黒い蜘蛛の脚が生えたなにかが、遊郭を縦横無尽に走り回ってた。
端的に例えて、悪夢だ。
「……。」
「あれが『ダイバー』の精神干渉によって発生する拒絶反応。それを体現したこの夢の番人だよ。」
相変わらず女が訳分からんことを言ってる。私の後ろに佇んでのんびり化け物を眺める女。
そんな視線の先で、駆け回るおっさん蜘蛛が遊女屋を破壊して回る。解放された遊女たちは通りに飛び出してある者は化け物から逃げ惑い、ある者は解放されたことを喜ぶみたいに嬉しそうに駆け回ってる。
ただ、全員が最初から表情を変えずに笑ってる。
……悪夢だ。
「……これ、なに。」
「『サイコダイブ』だって。」
呆然と頭痛に苛まれながら事態を眺めてると、化け物の目がこちらに向いた。
獲物を見つけた化け蜘蛛が、四対の脚を精密機械みたいに器用に動かしながらこちらに突進してきた。
近づくとよりその大きさが分かる。胴体だけで物置小屋くらいありそうだ。
はっきり分かることは、私は数秒後に死ぬってこと……
「避けろよ。」
眼前まで迫るおっさん蜘蛛を前に、私の後ろで女がツッコんだ。
直後、蜘蛛の動きが止まる。
いや、動きが止まったのでは無く、見えない縄に身体を縛り付けられたみたいに、動こうともがいてるけど先に進まない--そんな感じだ。
私の鼻先でおっさん蜘蛛の顔が荒い息を吐いてる。すごく生臭い。
軽くホラーな絵面に私の心臓がドックドック脈打つ。
じわじわと遅れて湧き上がるのは直前に確信した死の予感。それが今頃になって私の胸の底から這い上がってくる。
--誰も居ない冷たい部屋。
ただいまって言っても誰からの声も帰ってこない。
--生きる為にお金は必要……
私の身体に乗りニタニタ笑うのは、ある時はおじさんで、ある時は若い青年で--
「……っ、なんだ、これ……っ。」
「精神汚染だよ。きみは今、夢の世界から攻撃を受けてる。」
大口を開けて歯を剥き出すおっさん蜘蛛が私に食らいつこうともがいてる。
少しでも距離を取ろうと後ずさろうとするのに、私の脚はまるで人形の脚みたいに言うことを聞かない。
脚が…動かない……っ!?
目の前に化け物が迫ってるのに、女は平然とした様子で私とおっさん蜘蛛を交互に見ている。
「……ちょっ…あんた……これ……っ!!」
「ここから出るにはな〜……」
いよいよ脚に力が入らず尻もちをつく私に女はしゃがんで顔を覗き込む。ゆっくり伸ばした手で私のマスクをゆっくり外した。
「あいつを、やっつけてやるしかねーよ?」