第6章 24 マザーの夢
絶叫し、無数の腕で駆け出した『ナイトメア』が突進する。動きは速くないが迫る山のような異様には威圧感があった。
濡れた地面を転がり突進を回避する私たち。狙いを外した『ナイトメア』はその巨体をのっぺらぼうたちに衝突させる。
『おかあさぁぁぁぁぁんっ!おかあさぁぁぁぁぁんっ!』
超質量の衝突にのっぺらぼうたちはそれでも母を呼ぶ。近くまで来てくれた“お母さん”に歓喜の声を上げてしがみつく。
そんなのっぺらぼうたちの身体を“お母さん”の無数の腕が抱擁する。
抱かれたのっぺらぼうたちが次々に、“お母さん”の身体に沈み込むように呑まれていく。目の前で繰り広げられる異様な光景に否応なく心がざわつく。
心に空いた穴に吹き抜ける風は冷たくて--私は手を伸ばしてた。
捨てた。身体を--新しい身体に、新しい“母”になる為に……
満たされた。満たされた。満たされた。満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた満たされた--
記憶の断片が狂気と共に流れ込む。その目で最後に見たのは白い天井--
目を閉じた先で私の--彼女の意識は引っ張られて沈んでいくみたいに深く深く……
……これって。
精神汚染に見る記憶と感覚に私は戦慄した。追体験するその感覚は紛れもなく……
……『サイコダイブ』?
穴を吹き抜ける寒さが柔らいでいく……その記憶の中で映る光景は--
「……っ!」
金槌で殴られたみたいな痛みを感じ私は顔を上げる。現実から引き離されていた意識を手繰り寄せ前を見る。
目の前で我が子たちを取り込んだ『ナイトメア』はさらに膨れ上がり、無数に掘られた顔たちは喜怒哀楽、様々な色を表情に浮かばせる。
その光景はまさに、現実に顕現した地獄のようで--
『おいでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!あぁいしてるぅぅぅぅわぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!』
いくつもの口から吐き散らされる母の愛の叫びが粘り着くみたいに押し付けられる。
大絶叫と共にシラユキに向かって転がるように走り出す『ナイトメア』が、抱擁を求めるように無数の腕を広げた。
「……っシラユキ!」
ハルカが引きつった表情で叫び、駆け出した。
正面、『ナイトメア』と対峙するシラユキちゃんは微動だにせず立ち尽くしている。シラユキちゃんと『ナイトメア』の間に割り込むハルカがナイフを構えた。
「……なっ!?」
シラユキちゃんを守るように前に立つハルカがその表情を苦悶に歪ませる。
先程同様、ハルカが振りぬこうとしたナイフが途中で動きを止めた。本人の意志の伝達を拒絶するみたいに、ハルカの腕は中途半端なタイミングで静止する。
半分予感していた光景に、私の反応は速かった。
影から取り出したのは一升瓶。中には並々注がれたアルコール。クロエの部屋で酒をちょびっと盗み飲んだおかげか、思うよりずっとスムーズにイメージを具現化できた。この世界ではなんでも創れるけど、知らないものは創れない。
同時に取り出した使い捨てライターで瓶から伸びたアルコールに浸った紙の栓に着火。
放り投げられた火炎瓶は弧を描いて『ナイトメア』の頭に直撃する。
私の創り出した想像の炎が『ナイトメア』の身体を紅蓮に包む。すかさず『ナイトメア』の前に滑り込んでシラユキちゃんとハルカを引っ張り出す。
「……ナンカ、ヘンダ。」
「私たち、動きが止まる!コハクは!?」
『ナイトメア』からの不可解なダメージを受けた二人が口を揃える。私は先の『ナイトメア』の発した言葉を思い返す。
しまいけんかはだめ--姉妹喧嘩。
ハルカがのっぺらぼうに斬りかかり、動きが止まった時『ナイトメア』はそう言った。それは、『ナイトメア』に顔を掴まれ、掴まれた箇所がのっぺらぼうになった後--
「……二人はあの『ナイトメア』の“娘”になったんだよ。」
「ムスメ!?」
二人の顔を指しそう指摘する。
「『ナイトメア』たちの言動や、精神汚染で流れてくる記憶の内容的にそう考えて間違いないと思う。」
この『ナイトメア』は“母親”で、“娘”に異常な執着を持っている。
……そう、“母親”だ。
「ノッペラボウニナッタカラ、ムスメニサレチャッタッテコト?ダカラ、ウゴキガヘン?」
「……というか、初めから娘だったんじゃない?」
と、ハルカが呟く。その表情は空模様同様酷く曇ってる。
私たちは十分な距離を取り、燃え盛る『ナイトメア』の視界から完全に逃れ走る。私の中に現状に対する不安がどんどん募っていく。
とにかく距離を取る事。意思疎通を介さず一致した私たちの考えは、三人全く同じように敵から逃げるように走ることでシンクロする。
「ハジメカラ?」
「…二人とも見たね。彼女の記憶……」
地面を蹴る度激しくアスファルトを打つ雨粒が後ろに蹴っ飛ばされ飛沫を上げていく。雨に濡れる住宅街の軒並みがひどく暗くて寂しげだ。
「……『ナイトメア』の子供たちは私たちと同じ制服…それに……」
それに--ハルカが言葉を詰まらせた。
私たちの頭に逆流してきた記憶の波が、私たちに見せたもの--
それは、“私たち”だった。
“母親”を囲み、慕い、笑顔を咲かせる“私たち”--あの『ナイトメア』の女学生たち同様の制服に身を包んだ、『ダイバー』たちだった。
寄宿学校の生徒たちの囲まれ、家族ごっこに興じるあの“母親”は、その時胸に空いた虚無感を、吹き抜ける寒さを忘れられた。
実の娘を奪われて、他人の娘を奪って、最後に彼女は“ここ”に来た。
「この『ダイブ』は…マザーの夢なんだ。」
はっきりと言及する私の隣でハルカとシラユキちゃんが息を飲む。
「……問題は、誰のマザーかってこと……」
走る脚を緩めずに、ハルカはあえてそう言った。
自分のマザーかもしれない--そんな予感でもあるのか、私には彼女の横顔にそんな気配を覚えてた。
「……ていうか、この『サイコダイブ』では私たちは危害を加えられない…って理解で良かったはずよね?コハク。」
と、実に痛い、そして私の懸念点をズバリとハルカが指摘した。私はハルカとシラユキちゃんにペースを合わせたまま影へ手を伸ばしてた。
「……のはずなんだけどな……」
「もし『ナンバーズ』が約束守らなかったら、あんたも『ナンバーズ』加入の件、よく考えなさいよ?」
「だから……それが目的ではないんだよ?」
「どうだろうとよ!」
ハルカに返しながら私は影から大鎌を引き抜いた。
身の丈ほどある大鎌の歪んだ刃はじっとり濡れて、テラテラ光る液体は刃にかかる雨に溶ける。
流れてしまう前に私はもうひとつ、先程出した使い捨てライターで刃に火を灯してた。
二人が私が武器を取り出したのを見て立ち止まったのと同時--
視界右端の家の屋根をどろりと濡らすみたいに染め上げる黒い流動体が、そのまま下に流れながら迫ってくる。
粘度の高いスライム状の黒い液体には、あの『ナイトメア』の不快な顔の陰影が確かにあった。
『まぁちなぁァさァァァァぃぃぃぃぃぃぃ。』
家を塗り潰すくらい大きな体が、地面に着いて広がっていく。足下に影のように広がるそれが再び山のように膨れ上がっていく。
「……ッ、ハルカ、コハク。」
「私たち、動けなくなってる!」
ハルカとシラユキちゃんが見つめる先で、『ナイトメア』が先程の形を成す。ただし、その表面には先程より多い顔がぎゅうぎゅうにひしめき合い、表情が変わる度にお互いの目鼻口に潰され合ってぐにゃぐにゃと変形していく。
『にぃげるなぁぁぁぁぁぁぁぁ。おぉしおおおおぉぉぉぉぉきぃぃぃ!!』
『ナイトメア』の声に反応してか--素直に声の指示に従う“娘”の身体。ハルカとシラユキちゃんは臨戦態勢すら取れずに棒立ちだ。
やはり、『ナイトメア』の攻撃で“娘”にされたら、夢の主への攻撃は不可能……
身の丈ほどある大鎌をグルングルン手で回す。刃を包む炎が軌跡を描いて、土砂降りの中で赤い円が虚空に広がる。
「……さっさと片付けるよ。」
もう、私しか戦えない。
一歩前に出る私に『ナイトメア』も体から腕を生やして攻撃の体勢。
『おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉまぁぁぁぁぁえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇもぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!』
無数の腕が寄り集まって絡み合い、一本の巨腕と化す。その腕がタコの足みたいな柔軟な軌道で私に振り下ろされた。
--遅い!
私の頬を腕が切り裂く空気の波が撫でていく。大きく身体を傾けて躱した私は地面を蹴った。
跳び上がって腕に飛び乗る私が走る。鎌の刃を肉に突き立て、そのまま引きずるみたいにしながら腕を切り裂いていく。
『おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!』
一気に駆け上がってくる私に、嘔吐く『ナイトメア』の口からのっぺらぼうたちがゾワゾワ這い出した。
同じ制服を着た『ダイバー』の化身たちは、無抵抗のあの時と違い手にはカッターナイフやハサミを握りしめ、『ナイトメア』の身体を蜘蛛みたいに這いずりながら私に襲いかかった。
「--邪魔だよっ!!」
そんな有象無象を私は鎌で一閃する。炎上する刃の軌道上に飛び込んできたのっぺらぼうたちが、悲鳴もあげずに千切れ飛んだ。
次から次へと--飛び出し、向かってきて、斬り掛かるのっぺらぼうたちを尽く、刃で弾き、突き、切り捨て、その一切を寄せ付けずに--
走りながら影から引き出した草刈り鎌を片手に、私は一気に跳び上がる。
無数に掴みかかってくる腕を空中で切り払い、草刈り鎌を肉の壁に突き立てる。
頼りない感触を無視して草刈り鎌の柄を踏んでさらに跳ぶ。
『やぁめぇぇぇろぉぉぉぉっ!!!!!!!!!!!!!!』
目の前跳び上がる私と『ナイトメア』の顔たちの視線が交差する。
目の前で“娘”たちを無惨に切り殺された怨嗟が顔に浮かび、呪詛を吐く口から数百にもなるかという大量の小さな腕が覗く。
その全てが私に掴みかからんと伸びるより速く--
「--さよならっ!」
空中で横に旋回する私の身体は一陣の風となり、降り注ぐ雨粒を切り払い、身体に引っ張られた刃の赤い軌跡が唸った。
夢の世界がひび割れる程の大絶叫と共に--私の刃が『ナイトメア』を…マザーを一閃した。