第6章 6 私の知らないマザー
※
--食堂を離れて私が連れていかれたのは、屋敷の外。
敷地内の、正面の門から見てちょうど反対側に、小さな離れが建てられていた。小さな、と言っても普通に小さな民家ぐらいありそうな立派な離れ。
私を部屋から連れ出した屈強な大男達に囲まれながら、私は庭の道を歩く。
道から外れようものなら庭の中を蠢く獣たちの牙が、容赦なく私に食らいつくだろう。今にも一雨来そうな曇天は、そんな屋敷の敷地内を一層不気味に染め上げる。
……そろそろ梅雨だ。
空を見上げながらそんなことを考えている間に、広大な敷地を横切って離れに到着する。
「…こちらです。」
男が野太い声でそう告げて扉の前から横に捌ける。
一人で入れということだろう。私は少し錆び付いた扉の取っ手を握り、重い扉を押した。
建付けの悪い扉が軋みながら、悲鳴のような音を立てて開かれる。薄暗い離れの中に、曇天の外の微かな明かりが差し込んだ。
「……」
私の視界に飛び込んでくる光景--
埃っぽい薄暗い部屋は蝋燭一本の明かりしかなく、扉を開けてすぐにだだっ広い空間が広がっている。奥には二階に続く階段があるのが分かる。
扉を開いた私の正面、ただひとつ置かれた椅子に両手足を拘束された女性が一人……
細く差し込む光に女性はその顔を上げて、正面の私を見て目を細めた。
「…ヨミ?」
私のマザーの憔悴した顔がそこにあった。
普段綺麗にまとめられている黒髪は解けて、長い前髪が顔を隠している。
優しげな双眸は疲れきっていて、顔に浮かぶ玉のような汗が彼女の体力の消耗を物語る。
目立った外傷は無い。強いて言うなら、拘束されたまま抵抗でもしたのか、縛られた手首が赤くなって皮が剥げていることくらい。
一体何をされたのか、私には検討もつかなかったけど、とにかく私は後ろを振り返った。
「……外して。」
私の声に従順に従う男たちがマザーの拘束を解いていく。
身体の自由を取り戻した彼女はおぼつかない足取りで立ち上がり私の方に歩いてくる。そんな危なっかしいマザーを私は支えるように抱きとめた。
「……ヨミ、あなたって子は…」
疲れきった声音でそう私の胸の中で呟くマザーに、私は表現できないです感情を覚える。
マザーのこと、そんなに好きじゃない。
ハルカとの過去を明確に思い出し、その気持ちは一層強いものになっていた。
マザーはハルカを助けてくれなかったから…
なのに今、目の前で弱りきった彼女の姿に、私は言いようのない憤りを感じていた。
マザーが酷い目に遭った。そして、私を取り戻しに来たから酷い目に遭わされた……
その事実に、私は激しく動揺していた。
「…マザー、何されたの?というか、なんでここに……」
「本当に、悪い子ね…」
マザーは私の腕の中で、私の顔を見上げて呟いた。なんとも弱々しい、安心しきった微笑みを浮かべて……
「…母さんをこんなに心配させて……」
※
ヨロヨロしたマザーを支えながら男達について庭を歩く。正面に巨大な門が見えてきて、私はそこに見知った人影を見た。
「…よ。」
なんとも気安い感じで片手を挙げて笑っているのは、いつも通りの黒いスーツに身を包んだクロエだった。
黒一色の装いは蒸し暑い今日の気温では暑苦しく感じ、対して白い肌に汗ひとつ滲ませていない彼女の身体の所々に、赤黒い傷跡を私は目ざとく見つけた。
スーツの袖や襟に隠れた手首や首元に、痛々しい--それこそさっき付けられたみたいな傷跡が刻まれている。
明らかに私が最後に会った時はなかったもの--そして、マザーのこの状態を見たあとだと、私は彼女のいつも通りのおちゃらけた笑顔に強ばった表情を返すのがやっとだった。
「……目、覚めたな。この寝坊助さんめ。」
固まる私にクロエはデコピンをひとつ。額を打つ小さな衝撃。それよりも、心臓に響くような胸の痛みが突き抜けた。
「……No.09…あなた、私の娘を巻き込んで……」
と、私の腕を振りほどいてマザーがクロエと向き合った。
その表情は今まで見たこともないような形相で、私はまたしても動揺する。
対して、マザーの怒りに濡れた視線を真っ向から受け止めるクロエはまるで意に介した様子もなくいつも通りの軽薄な態度。
「…なぁに怒ってんのさ?こうして無事にヨミっちに再会できたの、誰のお陰?」
「……これのどこが、無事だと言うの?」
「ヨミは無事だろ?見てくれで無事じゃねーのはウチとあんた……」
「この状況の、どこがっ!無事だと言うの!!」
全身の筋肉を緊張させ、喉が張り裂けんばかりの怒号を口から吐き出すマザー。弱った彼女の身体は、それだけでふらついた。
「……っ、もういいよ。マザー…」
「……親孝行なこって。」
ふらつくマザーを支えてやる私を見て、クロエはふっと覚めた口調と視線を私たちに投げた。
「…ヨミ、この女のせいで……あなたも…ハルカも……」
「分かってる。でも、違うんだ……私は自分の意思でやったことだ。それに……ハルカもきっと……」
環からおおよその事情を聞いている私にはマザーの憤慨の意図を察することができる。
だからこそ尚更、激しく困惑する。私の知ってるマザーはこんなことで感情を顕にしたりしない。
私の知ってるマザーは、同級生たちが『サイコダイブ』で消えていっても、淡々といつも通りをこなす、人のふりをした機会のような人のはず……
「No.09。車が待ってます。」
「ん。」
と、私が動揺と困惑を目に見えて顕にしながらマザーを立ち上がらせる間に、私たちを連れてきた男たちがクロエに告げた。
クロエはそれに短く返して、私たちに顎で門の外を指す。
帰るぞ。
そう言っているようだ。
私はマザーを支えたままクロエに続いて庭の石畳の道を歩き出す。
触れた身体にマザーの体温が伝わる度、私はなんでこんな気持ちになるんだろうって…
「No.09。」
門をくぐる直前、後ろから呼び止められたクロエが振り返り、私達も足を止めた。
「…No.01から……くれぐれも今後は“おいた“は控えるようにと……」
男の無機質な表情から放たれたそんな言伝に、クロエは反対に顔面の筋肉を全力で使って顔をしかめて、長い舌を突き出して見せた。
※
「……」
「……」
「……」
どれくらい車に揺られたろう。
外も見えない全面スモーク貼りのガラスに囲まれた車内は、のしかかるみたいな酷く重たい空気に包まれていた。
何を話そう……何から話そう……
ずっと考えを巡らせていた私の思考もまた酷く重たく、私は両脇を挟むクロエとマザーの顔も見れなかった。
「……い〜つまで黙ってんのさ。」
泥沼みたいな空気の膜を最初に破ったのはクロエだった。
前かがみで座って太ももに肘をついた彼女は、私の顔を下から覗き込むように伺ってから物理的に距離を詰める。
「なんか……言いたいことあんじゃね?」
「……そう、見える?」
「見える。」
じーっと、クロエの紅い瞳がこちらを真っ直ぐ射抜いている。正直、かなり居心地が悪い。
前かがみになったことで首元に覗く痛々しい傷跡が見えて……
「……」
「言うてみ?ウチに言いたいこと、訊きたいことあんじゃね?」
精神的にも詰めてくるクロエに、私はたまらず口を開いていた。
「……、その怪我。」
「……う?」
私の一言が予想外だったのか、クロエは面食らった顔をしてすぐに距離を取るように身体を離した。
「……どうしたんです?」
「…転けた。」
「クロエ先輩が、私への『サイコダイブ』を敢行したと……工藤理事長から聞いた…ハルカ達を連れて……」
「……そうよ!」
私の言葉に被せるみたいに、それまで目を閉じていたマザーが血走った目でクロエを睨んだ。
「あなたが…っ、あなたがハルカ達を巻き込んだから……っ!」
「マザー、私が言いたいのはそういうことじゃないんだって。」
興奮するマザーを私は宥める。これじゃさっきのやり取りの繰り返しだ。
というか、クロエに会ってからマザーの様子がおかしい。私はクロエの方を伺うように一瞥する。
「……か〜な〜り〜、精神いじめられてんな。今冷静じゃねーや。この人。」
「……精神?」
「こりゃ下手に痛めつけられた『ダイバー』よりひで。」
クロエはそう言って、身を乗り出して私を越え、マザーの額に手を伸ばす。
「……っ!?何を--……」
拒絶しようとするマザーの額にクロエの指が触れた。直後、まるで電池の切れたおもちゃみたいに、マザーがガクッと頭を落として目を瞑って静かになる。
「…クロエ先輩?」
「寝かしただけ。帰ったら藤村にでも診せな。」
目の前でサラッとやってのける超常テクニックにまたしても絶句。まるで漫画だ。
「んで!」
と、改めて私に向き直ったクロエがなぜか胸を張って偉そうに構える。
「言いたいことあんなら聞くぜ?マザーの言った通り、ハルカっち達を連れてったのはウチだ。」
なんだか開き直ったみたいに上から目線、文句あるのかとでも言ってるみたい…いや、言ってるんだな。
「……その怪我は、その落とし前だと……」
だから、私も言いたいことを言うことにする。
「……ごめんなさい。」
斜め上に構えていたクロエは頭を下げた私にぽかんと目を丸くした。
何を期待していたのやら。私の方にクロエを責め立てる理由はない。むしろ、説教が必要なのは私だろう。
全くの無計画で、無謀にも首を突っ込んだ。シオリを巻き込んで。
そして、その上周りにまで迷惑をかけた。関係ないハルカ達まで、危険に晒した。
「……私が、勝手なことしたせいだ…ごめんなさい。」
頭を深々下げて、ちらりとクロエの様子を伺う。彼女はなんともバツが悪そうに視線を逸らして見えもしない窓の外を眺めだす。
「……クロエ先輩。」
「いや、」
「怒ってますか?」
「いや、違……」
「許してくれませんよね?でも、何回でも謝ります。」
「きみ、そんなキャラだっけか?」
珍しくクロエが狼狽えたみたいに冷や汗を垂らす。なにか気味の悪いものでも見るみたいな目だ。すごく失礼。
「……私だって、自分に非があれば素直に謝る。」
「おお……それはいい心がけだな……でも、」
「でもじゃない。これから、許してくれるまで毎日でも--」
「実は謝る気ないっしょ?」
しつこいくらい食らいつく私にクロエは「やめやめ」と手で虫でも払うみたいに私を遠ざける。
傷だらけでもしっかりセットされた黒髪に手ぐしを通してガシガシ掻きむしって、なんとも調子が悪そうだ。
そんなクロエがおかしくて、私は気づかれないくらいに小さな微笑を漏らす。
この人のこともまるで分からない…けど、以前ほど嫌いでは無くなったのかもしれない。
なんとも単純で、虫のいい話だけど……