第5章 20 フウカ先輩
真っ直ぐに振り下ろされたブレードは、そのままヨミの頭をスイカみたいに叩き割る--はず……
スケート靴の分厚いブレードがヨミに触れるより先に、どこからか飛んできた何かがその刃をあっけなく砕き割った。
「……っ。」
至近距離でブレードが割れたのを見るヨミの瞳に映ったのは、鉛玉だった。
発射されたばかりの、ほのかに表面の赤らんだ丸い弾丸が、透明な空気に起動を残す。まるで空気を切り裂くみたいな鋭い弾丸は、見事ブレードを砕き割りどこかへと飛んで行った。
弾丸…?
片足立ちで片足を大きく持ち上げた体勢から、鉛玉をぶち込まれた『ナイトメア』はバランスを崩して雪原にコミカルに転がった。
その隙によろよろとなんとも頼りなく立ち上がるヨミの背後に--彼女はいつの間にか立っていた。
なびかせる長髪は雪原の如く真っ白で、後ろで無造作に結ばれた一つ結びは馬の尾っぽのように優雅に風に乗って踊る。
スラリと伸びた長身に、長い手足。その手には西部劇のような古臭いライフルが握られていた。
たった今弾丸を撃ち出したであろう熱せられた銃口にキザったらしく唇を付ける彼女の頬には、大きな切り傷の跡があった。
『ナイトメア』を射すくめる双眸は青く鋭く、きっとその容貌を一度見たら忘れない。
「…大丈夫です?頭の中身はぶじですか?」
茶化すみたいにヨミを見下ろす彼女は、私もよく知るその顔で彼女に陽気に、場違いに笑ってみせた。
「--ああ、いけませんね。これは…少し怖がりすぎです。もっとリラックス…
こんなのは所詮、人のちっぽけな脳の見せる幻想ですから?」
※
ヨミの背後に立つ彼女こそ--フウカ先輩だった。
これが、ヨミとフウカ先輩との出会い…
「…?……?」
「む?」
眼前の『ナイトメア』そっちのけで、フウカは倒れるヨミの顔を覗き込んで、具合を確認している。その大仰な動作の一つひとつに、私は懐かしさを覚えて胸が苦しくなった。
「あら、酷くやられましたね…」
「……っ。」
ほっぺをつまむフウカに、ヨミは警戒と拒絶を込めてその手を振り払う。驚いた様子のフウカは、ヨミを安心させるようにクスリと笑った。
「大丈夫。私は敵では--」
直後だ。『ナイトメア』のスケート靴の蹴りが、フウカの腹部を強く穿った。
小柄で細い体躯から、彼女の背中まで突き抜けるような衝撃。フウカの足元から後ろの雪が一気に舞い上がった。
直撃--現実でもスケート靴なんかで思い切り蹴られたら大怪我だ。まして『ナイトメア』による攻撃……
息を呑む私とヨミの眼前。それは一瞬の事だった。
蹴りこんだ『ナイトメア』の脚が、フウカの手に掴まれる。捕まった『ナイトメア』が拳を握るより速く、フウカの手の中でライフルが回る。
スピンコックにより次弾を装填するのは、ヨミの夢の世界での愛銃--ウィンチェスターライフルだ。
全く同じ型のライフルがフウカの手の中で回り、のっぺらぼうの『ナイトメア』の顔面に銃口を突きつける。
直後、透き通る青と白の世界で、澄んだ空気が波紋を広げた。
乾いた銃声がどこまでもこだまし、世界を赤に染めるのは『ナイトメア』の鮮血だ。
顔面に巨大な風穴を空けられたのっぺらぼうが、その大穴から血を撒き散らす。足下にこぼれる血のシャワーは、白の殺風景な世界を鮮やかに濡らしていく。
目の前呆然と二人のやり取りをながめるヨミの目の前で、さらに事態は動いていく。
手を離し『ナイトメア』を突き飛ばしたフウカ。
頭を撃ち抜かれて力なく後ろに倒れ込むかと思われた『ナイトメア』は、大きく背中を反った体勢で動きを止める。
それはまるでフィギュアスケートの選手が、氷の上で優美に舞っているかのように…
そのままの体勢から、独楽のように回る少女。
回りながら片足を地面に並行になるまで持ち上げて、スピンにより存分に遠心力をつけたスケート靴のブレードが、反撃の狼煙としてフウカに向かう。
対峙するフウカは、ただそれを眺めていた。
「……っ!危な--」
ヨミが声を上げるより早く、回転する『ナイトメア』が銃口と共に吹っ飛んだ。
……っ。
見事な早業…
ヨミも私も、目で捉えられないくらいのスピードで、無造作にコッキングされたライフルが、回る『ナイトメア』を吹っ飛ばしていた。
地面を転がる『ナイトメア』に、間髪入れずに銃弾が叩き込まれる。
一発一発、コッキングが必要なはずのライフルから、まるでフルオートみたいに銃弾が浴びせられ、『ナイトメア』の小さな身体はみるみる穴だらけになっていく。
『いやァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!』
続くのは少女の絶叫。胸を引き裂かれた少女の苦悩が、悲しみが、失望が、痛みが--
それら全てを内包した少女の夢が、ひび割れ、絶叫する。
空と雪原がひび割れ、崩れていく。その中に巻き込まれるヨミが、身動きも取れずに落ちかける。
その手をフウカが掴んだ。
「……っ、あ。」
「しっかりしてください。後輩。」
目の前で巻き起こった目まぐるしい事態と、初めての『サイコダイブ』は、マザーが口にしていたような安易なものではなかった。
困惑と、何も出来ずにただ痛めつけられた事実に対する羞恥--私の中に流れ込むそれらの感情がヨミの心境を雄弁に語る。言葉より重く。
フウカはずっと、手を握っていてくれた。足場がなくなり、二人の身体が底の見えない深淵に落ちるその時も--
ヨミの意識が、夢から引き離される瞬間も……
※
--そう、初めての『サイコダイブ』の時、ヨミはしばらく自室で寝込んでしまった。
入院棟に詰め込まれるほどではないにしろ、安静にするようにとのことで、丸一日はベッドの上で丸くなっていた。
言いようのない不快感がヨミの胸中をぐるぐる巡っている。
重い泥のような感情が、ネバネバとヨミの中にへばりついて離れない。フラッシュバックする見覚えのない光景がさらに精神を削った。
何をするでもなくぼぅっとベッドに転がるヨミの鼓膜に、扉をノックする音が響いてきた。
「…入るわよ。」
聞き覚えしかない声が室内に向かって飛んでくる。ピクリとも反応しないヨミの返事を待たずに、扉が開かれた。
扉の隙間から顔を覗かせるのは私だ。私の姿を私が見つめる。その事態に混乱しかけるが、当然だ。ここはヨミの夢だから…
「…呆れた、まだ寝てるの?」
部屋に入ってくる私が布団に丸まったヨミを見咎めため息を吐く。今から考えればデリカシーがないことこの上ないが、この時の私にはまだ『サイコダイブ』の精神汚染を実感していない。
「……ほら、あんまり寝てたら病気になるよ?」
「…ん。」
布団を剥ぎ取ってヨミの顔色を確認する。ベッドのシーツの上で丸まるヨミの表情は暗く、顔色も悪い。
当時のあまりの弱りっぷりに、一体何があったのかと不安で動揺したのを覚えている。
「……ちょ、大丈夫?」
「……ちょっと気分悪いだけ。」
この時、背中をさする私の手が、ヨミに不思議なくらい温かい熱を送っているのがよく分かった。まるで自分の背中をさすられてるみたいな…自分で自分の手の熱を感じている。なんとも不思議な体験だ。
私の中--もといヨミの中にへばりついていた黒い不快感が、少し、ほんの少しだけ緩和され、気持ちが楽になっていく。
ひとりじゃなくなる--たったそれだけの事でかなり気持ちが楽になった。
血生臭い光景も少し薄れ、現実の景色が視界に映るようになってくる。
「……ホントに、ハルカは優しいな。」
「え?なに?」
かつては聞き取れなかった小さな呟きが私--ヨミの口からこぼれていた。同時に、思い知った。文字通り痛いほど…
この子は、私のことを大事に思ってくれてる……
私の中で、私自身への感謝と安心感が、淀んだ感情を押しのけるみたいに広がっていくのが分かった。
--私は、ヨミに大切に思われている。
ヨミはちゃんと、私のことを友人として見てくれている。それを実感し、私の胸が苦しくなった。
今までとは気色の違う息苦しさ。私はそれを自分のものだと確かに認識する。
「--失礼するよ?」
そんな、私とヨミの時間の中に、突然の来訪者が乱入する。
驚いた私と、億劫そうに扉の方へ顔を向けるヨミの二人--その視線の先に、彼女はいた。
「ああ、良かった。この部屋であってましたね。」
これが、“私”とフウカ先輩の出会い--朧気な記憶の景色の中で、あの時の軌跡が確かに綴られていく--