第5章 18 望まれない“特別”
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間近で見るとなんとも不可思議な光景だ。
淀んだ湖の水中には、なにか分からないゴミみたいな浮遊物がふわふわと漂っている。その中に混じって、流木や朽ちた橋の破片なんかが舞い上がり緑色の汚らしい水中で踊る。
そんなばっちい水の中に、不明瞭な記憶の断片が映像になって浮かび上がったり消えたりしている。
水中の浮遊物に掻き回されて、不安定な記憶の欠片がむらむらと揺れている。
そんななんとも不可思議な水中の景色と、見るからに汚い湖にこれから触れるという嫌悪感に、私の胃が搾られるみたいにキュッと縮む。
吐き気を押し殺して私は手を伸ばした。
暗く澱んだ湖へ…ヨミの心の深淵へ--
--ヨミ。
頭の中で火花が散った。
湖の断面に手を突っ込んだ瞬間、私の中に私を--否、ヨミを呼ぶ声が響いて脳が弾ける。
思い出すことを拒否するみたいに、頭が沸騰して熱くなる。胸の中に鉛みたいに重い恐怖がのしかかる。
「……っ、……っ。」
「ハルカ!?」
荒い息を吐いてひび割れた湖の地面に手を着いた。立っていられない。
駆け寄るシラユキとコハクの腕も濡れている。私と同じように湖に触れたのだ。精神汚染のダメージか、額に玉のような汗が滲んでいる。しかし、私ほど深刻ではない。
「大丈夫?」
「シッカリ……」
二人に支えられ立ち上がる私。今だにガンガンと痛む頭の中で、あの人が私に笑いかけている。
“私に”では無いか……“ヨミに”だ。
私の中に流れ込む記憶と感情が、私の物のように私の胸を締め付ける。
「……フウカ、先輩。」
私はヨミのトラウマそのものである彼女の名前を思わず口に出していた。そしてひとつはっきりしたこともある。
「……?フウカ?」
「…それってヨミに話しかけてるあの女の人かい?」
私の紡いだ言葉にコハクが尋ねていた。コハクも同じものが見えているみたいだ。
……やっぱり、ヨミの精神異常の原因はトラウマを精神汚染でほじくり返されたこと。そして、そのトラウマは……
私は自分の胸を強く手で抑える。薄い皮膚を内側から叩くようにドクンドクンと心臓が跳ねているのが分かった。
私のダメージがシラユキやコハクより大きい…それって私自身もあの人のこと思い出したくないからだ……
私は何とか立ち上がり、二人と向かい合った。
「……ヨミは、昔のトラウマに囚われてるの…多分。」
「ソレッテ、ソノフウカッテヒト?」
シラユキに私は無言で頷く。
先程までグロッキーだったシラユキもいくらかは回復してきている。あの人のことを知らない二人は精神汚染のダメージが少ない。
「じゃあ、それを忘れさせればいいってこと?」
「……できる、かな?正直、自信ないわ。」
「ハルカ?」
俯く私にコハクが心配そうに覗き込む。そんなコハクに私は視線を戻して尋ねてみた。
「…あんた、昔のこととか、覚えてる?」
「え?なに突然……」
「ここの生徒はさ、『サイコダイブ』のメンタルケアの影響で昔のこととか忘れていくじゃない…」
話の先が見えないシラユキが困惑した表情だ。しかし、コハクは私が言いたいことがわかった様子だ。
「ヨミも同じだと……そんなヨミがずっと抱えてるトラウマを忘れさせるのなんて簡単じゃないって?」
「そう、じゃなくて……いや、そうなんだけど……」
コハクと私の意見の齟齬を私は慎重に訂正する。諦めたような言い方はしたくない。
「辛い記憶でも、ヨミにとっては数少ない“記憶”なの…だから……」
「そんな呑気なこと言ってる場合かい?」
コハクが私に対して周りに視線を向けながら返した。
クロエが割った湖が、徐々にではあるが元の形に押し戻されかけている。少しずつ、でも確実にこちらに水の壁が迫っていた。
「クロエ、モウナノ!?」
「そんな「え?やっぱり約立たずじゃん」みてーな顔すんなよ雪見だいふく!見て!今ウチちょー必死だから見て!出力抑えてちょー繊細な作業見て!!」
「見てる暇ないです!頑張ってください!!」
「おうハルカちき!てめーらもさっさとしろ!呑気に井戸端会議開催してる場合じゃねーぞ!!」
そう悪態を吐くクロエの頭上で、水球の中の『ナイトメア』が今にも落ちてきそうだ。
「…ジカンナイヨ?ドウシヨウ…」
「攻撃以外の方法でヨミの夢に干渉する必要がある。ヨミのトラウマをかき消すか、大丈夫だよって慰めるか?とか……」
「…私たちが支えてあげればいい。」
シラユキとコハクが私の言葉にこちらを見る。
「あの子が自分の過去に苦しんでるなら…それはもう、あの子が乗り越えるしかないわ。」
私は知ってる--あの子があの人のことでどんな傷を背負ったか。
いや、知った気になっているだけだ。これから知る。
じゃなきゃ、支えてあげることなんてできない。
「ヨミの方から私たちの精神汚染できるなら、私たちだって無意識のヨミに働きかけられるはず……この水に触れた時みたいに…例えば、私たちの精神を剥き出しにしたら……」
「イマガソノジョウタイデショ?」
「もっとよ。もっと、もっと、私たちとヨミの境界をぼやけさせて……」
私の言葉にクロエが反応を示す。ただ口は挟まずただ私たちのやり取りをじっと聞いている。
「シラユキが自分じゃない精神に乗っ取られた時みたいにさ…」
「ヨミを乗っ取って上書きするって?」
「違う、それくらい私たちがヨミと一体化すれば……」
「それ、戻ってこれるの?」
コハクの指摘はもっともだ。私自身、何を言っているのか理解していない。
そんなことできるのかも知らない。ただ、ヨミの剥き出しの心に触れて記憶や感情を共有できるなら、逆もできるのではないか?と思っただけだ。
その後私たちがどうなるかは、これはもう、ヨミ次第なのかもしれない。
「…ヨミを精神汚染すると?私たちで?」
「フタリトモ、ナニイッテルノ?」
「コハク。伝えるんだよ。私たちが、ヨミを助けるって、その意思を…」
「ハルカ、さっきから--」
シラユキを挟んで私とコハクが言い合っている。そんな私たち三人の背中に何かがぶつかった。
「…え?」
振り返るが、何も無い。
いや、ぶつかったのではない。なにかに押されている。その力は徐々に大きくなって、湖の断面に押し込まれるように--
「夢の世界で思いどーりに動くコツはイメージ力だぞ。「ウチはできる!」って思えばあとは大体できる。」
こちらに左手を向けたクロエがそんな風に声を投げてきた。押しているのはクロエか?
「夢の世界にルールないし、大体その場の『ダイバー』の意志力次第。がんば!」
「「「は?」」」
クロエの無責任かつなんの参考にもならないアドバイス。
直後、私の背中で何かが弾けた。
真後ろの空気が爆ぜたみたいな衝撃--私たちの細い身体はなんとも頼りなく前方に弾き飛ばされた。
「--まじ!?」
クロエの暴挙に私は青ざめる。これではなんのために湖を割ったのか分からない。
眼前に濁った壁が迫った直後、私たちの身体は仲良く湖の断面に直撃し、僅かな抵抗の後にその身は濁水の中に放り込まれた。
※
--さっきハルカが口にしていたのは精神の上書き。より深い精神干渉。
対象の精神を傷つけずに“手に入れる”“洗脳”--その応用だ。
それこそ、ウチらと同等の適正があって初めてできるであろう所業…
『自分』という存在の同化--
もし可能ならば、夢の世界の掌握も不可能じゃない。しかし……
「それはそれで……」
多分面倒なことになる。少なくとも、マザーは黙っていない。
ウチはとりあえず抵抗を強める魚やろーをきつく締め上げてふたつのお下げを指で弄った。
『量産機』と呼ばれる彼女らの中からこれ以上、“先”に進むような個体が出てくると、『サイコダイブ』の本質にも迫りかねない。
『ダイバー』への『サイコダイブ』がタブーなのって多分そういうこと。
……多分、ウチ知らんけど…
だから、今回新たに部外者を巻き込んだのは、またマザーの不興を買うことになるかもしれない。だから一応湖に突っ込んだ。そう、“廃棄処分”だ。
でも、ウチは知らない。そう、知らない。
マザーの思惑なんて興味無いし、ウチがやりたいようにやるのを我慢するつもりもない。
『量産機』が何機潰れようとどうでもいい。けど……
「割と気に入っちゃったんだなぁ……」
水の中にぶっ込んだ後輩たちを見つめながらウチはため息を吐いた。
もし可能ならやればよし。出来なければ潰れるだけ。それはそれでよし、だ。
少しだけ悔恨は残るかもだけども……
『ナンバーズ』の空いた空席はひとつ。それ以上の“特別”をマザーは許さない。
「…お友達が潰れても、ウチが助けてやっからな?」
ウチはかわいい後輩の化身たる魚やろーを見上げながら呟いた。
このまま呑まれるか戻ってくるか--陽気な鼻歌でも歌いながら……