9.「嬉しい」という言葉だけで前向きになれます
私とアルペジオが一緒に生活をするようになって、1週間ほどが過ぎた頃でしょうか。
国を守ってきた守護竜だというのが信じられないほどに、彼との時間は穏やかに過ぎていきました。
それは居心地の悪かった屋敷での日々と比べると、天国のような心地よい空間でした。
私とアルペジオは、向き合って食事をしていました。
現実離れした非日常も、慣れてしまえばまた日常の一部。
私は案外、適応能力が高いのかもしれませんね。
「毎日のように祈りを捧げているようだな? 祈りは精神力を酷使すると聞く。無理はしないで良いんだぞ?」
向き合うように食事をしていたアルペジオが、心配そうに私を覗き込みました。
「アルペジオ様には、ほんとうに感謝しています。ここでの暮らしはほんとうに楽しいですから。無理なんてしていませんが……ご迷惑でしょうか?」
私は少しだけ不安になります。
アルペジオは、守護竜という伝説の存在から身近な存在になりました。
感謝の気持ちを伝えるため――日々の祈りにも、自然と身が入ろうというものです。
「もちろん迷惑などと言うことはない。祈りはとても嬉しいものだ。だがな……気を遣いすぎて、無理をしていないか心配でな?」
「それなら先代聖女のラフィーネ様から訓練も受けました。心配は要りません」
アルペジオから「嬉しい」という言葉だけで、私は前向きになれました。
屋敷では馬鹿にされ、誰からも必要とされなかった私の祈りで、こんなにも喜んでくれる人がいる。
それが何よりも幸せに感じました。
そんな時でした。
アルペジオが突然、顔色を変えて空を仰いだのは。
「またあの者の祈りか。不純なものが混ざり合っている――極めて、不愉快だ」
顔を不機嫌そうに歪めて、ぽつりと呟きました。
ぞわりと背筋が冷たくなるような冷ややかな声。
さらには――
「ッ! またイリス嬢を貶めるのか! そのような醜い感情を祈りに乗せるなど、いったい何を考えているのだ――!」
アルペジオは燃えるような紅の瞳で叫び、外に飛び出しました。
立ち昇ったのは人々を恐れさせる竜の息吹。
激しい感情と呼応するように、大地が揺らぎました。
『イリスちゃん、イリスちゃん! 聞こえる? 私よ、私!』
そして私の耳には、先代聖女のラフィーネの言葉が届きました。
私はラフィーネの言葉で、私は王宮で何があったかを知ります。
私の妹がムキになって、見るに堪えない中途半端な祈りを行ってしまったこと。
そしてその祈りが――恐らくは、アルペジオの怒りを買ってしまったこと。
そして私の自惚れでなければ、その怒りというのは――
「アルペジオ様、どうか落ち着いて下さい! 私なら大丈夫ですから。国民が怯えているみたいですし、どうか穏便に……!」
どれだけ身近に感じても、彼はこの国を守護する竜なのです。
そんな存在が、私のためなんかに怒っているらしい。
その事実は嬉しくもあり、同時に恐ろしいものでもありました。