運転手 相棒 宇宙
風呂からあがると運転手は弁当を食べていた。空いた缶ビールがふたつ机の端に転がっていた。
「お風呂ありがとうございました」とぼくはなんだか恥ずかしい気持ちでそう言うと、「今日ここに泊まってけよ」と運転手は弁当を食べながら言った。
「どうせこれから行くあてもねえんだろ? ちょうどたまたま使ってない部屋があるんだ。それを使えばいい」
ぼくはなんと言えばいいのかわからなかった。ただこくりとうなずいた。
「お前、腹へってるか? お前のぶんも買ってきてあるから、食いたきゃ食えよ」
するとそれに返事するようにお腹が鳴った。でも不思議と食欲がなかった。なんだか胃にフタがされているようだった。
「じゃあビールでも飲むか? 飲んだことあるか?」運転手は言った。もちろんそれは断った。ニオイすらかぎたくなかった。
運転手が缶ビールをさらにもう一本飲んだころ、おれはもともとこんな仕事をしてたわけじゃねえんだよ、と自分の過去を語りはじめた。
「自慢じゃねえけどよ、昔のおれはけっこうすごかったんだぜ。良い大学に入って、良い会社に就職して、良い――まあそこそこの――女とも結婚した。いわゆるジュンプウマンパンってやつだ。でもな、それは急にやってきた。そして全てががらがらっと崩れていくわけだ」と運転手は言った。
でも運転手は『それ』が何なんかは言わなかった。もしかしたら自分でもよくわかっていなかったのかもしれない。とにかく急に『それ』がやってきて、運転手は一年前に会社を辞めたらしい。辞めた理由も言わなかった。まあそれでなんか色々あったらしく三ヶ月前にタクシーの運転手の仕事に就いたのだという。
「こんな仕事1秒でもはやく辞めてえんだけどな。なんせ乗ってくる客なんか変なやつらばっかでよ、それにほら、おれこんな性格だから、すぐ客ともめるんだよ」
納得だ。それでひと月前に妻が愛想を尽かし、この家から飛び出して――で、ただいま別居中。確かにリビングの至るところに悲しげな隙間が残っていた。
「お前にこのあたりで一番暗いところに連れてって欲しいって言われた時、一番最初にこの家を思い浮かべたぜ」
そう行って運転手は笑って、それからすこし黙った。タバコに火をつけて、ゆっくりとひとくち吸った。そして、「お前が乗ってくる前までな、もうそろそろ死んでしまおうかと思ってたんだよ」と運転手は言った。
「いや、べつに本気で思ったわけじゃねえけどよ、まあふとそう思ったわけだ。このまま死んでも悪くねえなって。家族もなくなったし仕事もなくなった。それ以上に自分が自分であり続けることができなくなった。つまり守るべきものが何ひとつなくなったってわけだ。どこで足を踏み外したのかわからねえけどよ、じゃあどこから人生をやり直したいかって言われても、これがまたどこにも見当たらねえんだよな。おそらくもう一回人生やり直してもこうなるんだろうな。悲しいけど、本当にそう思うんだ」
運転手はまたタバコをひとくち吸って、言った。
「でもお前が乗ってきたとき、なんだかバカらしくなったんだ。こんな小さいガキがマジメな顔して死のうとしているのを見ると、同じこと考えてるおれがアホらしくなったんだ。それで、やめた。それだけだ。だからまあ見方によっちゃあ、お前に命を助けてもらったってわけだ」
話が終わったところでぼくはトイレに行った。トイレの壁にはいろんな紙が貼られていた。クラムチャウダーのレシピが書かれた雑誌の切り抜きとか、運転手が笑いながら車の前でポーズをとっている写真とか。そこにはまだ家庭の面影が残っていた。さらに一日一言の日めくりカレンダーもあった。ずいぶん昔の日のままだったので何枚もやぶって今日の日付に合わせてみると、今日の一言はこれだった。
明日は明日の風が吹く。
ぼくは小さな声で「イエス」とつぶやいた。
さらにもう一方の壁には一枚のキャンパスノートが貼られてあった。ずいぶん前から貼られているようで、紙がぱりぱりに乾いていた。何かの本からの引用文らしく紙の上側に著者名と著書が書かれていた。そして国語の先生のような達筆な字でこう書かれていた。
清貧の思想ではなく、清富の思想を持つこと。
富というのも、貧がなにであるかを知ることによって、
その真実をつかむことができる。
そしてその紙の下側には、女性が書いたらしい文字でこう書かれてあった。
これを何かに使うときは、あなたがこの本を読んでからですよ。約束!
リビングに戻ると運転手はソファでいびきをかいて眠っていた。それがなんともだらしない寝顔だったのでぼくはつい笑ってしまった。するとそのあと、ぼくの胃にかぶさっていたフタがぱかっと開いてようで急に食欲がわいてきた。で、ぼくは運転手が買ってきてくれた弁当をがつがつと食べはじめた。しょうが焼き弁当だった。胃がきゅうっとなって、あっという間に食べ終えてしまった。こんなにおいしいご飯を食べたのは初めてだった。
そしてしょうが焼き弁当を食べ終えてふうっと一息ついたとき、ぼくはしばらく心を見ていないことに気がついた。「おい、心? どこにいるんだ?」
「ここにいるぜ」後ろから声がした。振り返ると、心はぼくの後ろにいた。「よお」
「おい、今までどこにいたんだよ」
「ずっとおまえの後ろにいたぜ、相棒」ーー相棒、と心は言った。
「じゃあどうして今まで声をかけてこなかったんだよ?」
「何度も声をかけたぜ、相棒。公園にいたときからずっとな。でもおまえは自分のことばっかりでおれには目もくれなかった。まるでおれのことが見えないみたいにな」
「悪かったよ。でもわかってくれるだろ?」
「ああ、わかるよ。今日のおまえは人生で一番どん底だった。そしてもうひとつわかったことがある。それは、おまえはどん底のとき、おれのことが見えなくなる。どん底のとき、おまえはおれのことを必要としなくなる。よくわかった」
「でもいままでに必要したことなんてあったっけ?」とぼくは言った。もちろん冗談だった。でもそんなこと言わなければよかった。心は無表情のままこう言った。
「おまえがおれのことを必要としないなら、おれは何のために存在してるんだ? あのおっさんじゃねえけどよ、おれの生きる目的ってなんだ? なあ、教えてくれよ相棒。おれの生きる意味って何なんだ?」
心の声はいつになく冷淡で無表情だった。ぼくは何も言えなかった。心は言った。
「なあ、おれにはおまえしかいねえんだよ、相棒」
ぼくは驚いて声が出せなかった。そしてこの時になってぼくは初めて気がついた。ぼくが死ぬということで一番恐怖を感じているのはこのぼくじゃない、心なのだと。
(いつかの夜、ぼくは心に言ったことがあった。「ぼくが死んだら心も一緒に死ぬのかな?」と。その時、心はいつものように笑って「そんなわけねえだろ。なんで死ぬ時まで一緒なんだよ、勝手に死ねよ」と言ったけれどーーその通りだった。当然だけど、ぼくが死んでも心はひとりで生きていく。でもぼくが死んでしまえば心はこの世界とのつながりを全て失ってしまうのだ。もう誰とも話すことができなくなって、遊ぶことも笑い合うこともできなくなって、自分が今まで生きてきたことも今現在こうして生きていることも、誰にも知ってもらうことができなくなるのだ。『おれにはおまえしかいねえんだよ』――そんなこと、ぼくが一番知っているはずなのに。心にそう言わせてしまったことをぼくはものすごく後悔した。)
ぼくは心に謝った。何度も謝った。心はすぐに許してくれた。「言っとくけどよ、おれだってもうくたくたなんだ。だからはやく寝ようぜ」と心は言った。
「そうだな。寝ようか、相棒」
「おまえが言うなよ、気持ちわりいな」
ぼくらは笑いあって、電気を消して、眠った。
眠りが浅く、暗闇のなかで目が覚めた。ソファでは相変わらず運転手がいびきをかいて眠っていた。心もぐっすり眠っていた。
ぼくはカーペットの上で仰向けになったまま天井をじっと見つめていた。何だか変な感じがしていた。緊張とか不安とか、そういう感じではなかった。とても不思議な感情だった。
ぼくは自分が死んだ時のことを考えていた。自分が死んだら天国に行くのだろうか? いや、この世に天国とか地獄とか何もない、死んだらどこにも行かずにそのまま死ぬんだ。でも、どこにも行かないと行っても、少なくとも死んだ場所からどこかにいくはずだろう。その魂はどこへ向かうのだろう? すぐに違う生命に移って、違う人生を歩み始めるのだろうか? いや、違う。それも嘘なんだ。前世とか来世とかも本当はなくて魂はただ消えるんだ。でも、じゃあ消えた後の自分はどうなっているんだろう? スッと消えてそれでおしまいになるのだろうか? じゃあ、どうしてぼくは、ぼくらは、人間は、動物は、全ての生命は、必死に生きているのだろう? 何のためにこれほど頑張って生きているのだろう? ぼくがこうして生きていることにどんな意味があるのだろう?
ぼくは知らない家の暗闇の天井をじっと見つめていた。その闇は深く天井の高さは見えなかった。久しぶりの布団の上は天国のように柔らかかった。まるで宇宙で一人ぽつんと浮かんでいるようだった。
何だか、旅が終わった気がした。もちろんまだ旅は終わっていないし、明日自分がどうなるかもわかっていなかったので、そんな気持ちになるのはおかしかった。でも、どうしてかもう旅は終わってしまったような気がしたのだった。泣きたい気持ちになった。どうしてそんな気持ちになったのだろう、と思ったけれど、それ以上考えないことにした。
目をつむり、宇宙に浮かんでいる自分を想像した。何も考えなくていい。明日は明日の風は吹くんだ。無理して考える必要はない。
でも宇宙にも風は吹くのだろうか? ぼくはまた誰かに会えるのだろうか? 神様はこの世界にいるのだろうか? 神様は本当にぼくのことを見ているのだろうか?
何も考えないようにしていても、疑問は尽きなかった。次から次へと疑問が生まれては消え、胸がずっとドキドキしていた。
ぼくは生きているんだ、とぼくは思った。ぼくは生きているーー広大な宇宙の片隅でぼくは強く実感した。