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オン・ザ・ロード  作者: seto yuzuki
7/8

タクシーの運転手 風呂 幸福

 明るい大通りを歩いていると、一台のタクシーが走ってきた。ぼくは反射的に手を上げた。タクシーはぼくの前を通り過ぎていったけれど、思い直したかのように10メートル先くらいで止まり、黄色のランプを点滅させた。タクシーに近づくと後部座席のドアが開いた。

「どうしたんだ、坊主? こんな時間にほっつき歩いて。家出でもしたのか? それとも迷子か?」

 タクシーに乗りこむやいなや、運転手はそう言ってきた。あまりにも無礼な態度だと思った。

「あの、いま何時ですか?」

「さあな。子どもはとっくに寝る時間だよ。で、どこに行きたいんだ? 家か?」

「わかりません」

「はあ? わかりませんだって?」

「どこでもいいです」とぼくは言った。「どこでもいいんで、どこかに向かってください」

「お前な、ふざけてんのか?」運転手は後ろを向いて言った。

「ふざけてなんてないです!」運転手の態度の悪さにイライラしながら、怒る気力もなく、ただポケットに入っている小銭520円を運転手に差し出して言った。「これがぼくの全財産です。本当にどこでもいいんです。どこでもいいからこれで行けるところまで行ってください。できればとても暗い所がいいです。明かりが全くなくて、自分の体も見えなくなるくらい暗いところがいいです。星が綺麗に見えるところがいいです」

 運転手はぼくを見て、ぼくの手を見て金額を確認して、それからまたぼくのことを見た。長いあいだぼくのことをじっと見てきた。その表情からはなにも読み取ることができなかった。運転手は何も言わなかった。でもやがて後部座席のドアが閉まり、車が静かに動きはじめた。


 タクシーが移動しているあいだ、ぼくは後部座席で横になっていた。このまま溶けてなくなればいいのに、とぼくは思った。

「男なら泣くんじゃねえよ、坊主」と運転手は言った。でも別に泣いてなんかいなかった。

 運転手はなにやらひとりでしゃべっていた。どうやら携帯電話で誰かと話をしているようだった。それにタバコのニオイもした。ダメな大人だなと思った。仕事中だってのに客前でタバコを数なんて最悪だ。ぼくがもしこいつと同じ年まで生きることができたなら、こんなやつより百倍も頭がよくて百倍も金持ちになっているはずなのに。そう思った。

 しばらくして車が止まった。どこか目的地に着いたのかと思ったら、「悪いけどな、ちょっと弁当買ってくるわ。そこで待ってな」と言って運転手は車から降りていった。そしてずっと帰ってこなかった。そのあいだにぼくは眠りに落ちた。それはまさに後部座席のシーツに溶けるような眠りだった。



「おい着いたぞ。起きろ」

 遠くのほうで声が聞こえた。ぼくは寝ぼけたままポケットからお金を取り出そうとしたけど、「そんなもんいらねえからとりあえず降りろ」と運転手は言った。車から降りると、そこは知らない家の前だった。運転手の顔を見ると、「おれの家だよ」と言った。

 ぼくはわけもわからず運転手のあとについていった。運転手は右手には鍵を、左手にはさっき買った弁当の袋を持っていた。運転手は玄関の扉を開けて、ぼくを家のなかに押し込んだ。家のなかは真っ暗で何ひとつ明かりがなかった。家のなかはしんと静かで誰の気配もしなかった。運転手は玄関の明かりをつけ靴を脱いで家に上がった。「ほら早くあがれ。こっちに来い」

 ぼくは言われるがままついていった。リビングに入ると、「そのへんに座ってろ」と言い残し、運転手はどこかに去っていった。ぼくはとりあえずソファに座った。2人がけのソファだった。とても柔らかいソファだった。

 しばらくして運転手が現れた。「風呂わいたから入ってこい。着替えはあるか?」

 ぼくはうなずいて、言われるがままにリビングを出た。そして風呂場に向かい、服を脱いで、湯ぶねに浸かった。(と、それまでは全てがぼんやりとしていて自分がどこにいるのかもあやふやだったけど)湯ぶねに浸かって、ふうっと息をついた瞬間、世界がすとんと落ち着いた感じがした。

 そしてこのとき、ぼくはこれまでに味わったことのないほどの幸福感を味わった。身体の奥底からあふれだす幸福感ーーそれは生の喜びだった。ぼくは無条件に――今までの問題もこれからの問題もそれに比べては何の価値も持たなくなるくらいに――生の喜びを、まさしく湯ぶねに浸かるように全身で味わった。

 このときぼくは、認めたくないくらいに幸福だった。ぼくは湯ぶねに浸かりながら、あー生きててよかったと呟いた。

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