夕暮れの町 デミグラスソースの匂い 黒い塊
ぼくらは住宅街を歩いていた。すでに日は沈みあたりは薄暗くなっていた。家々からは幸せそうな明かりがついていた。テレビの音とか、子供を叱りつけるお母さんの声とかも聞こえてきた。そんな住宅街を、ぼくは野良猫のように食べ物を恵んでくれる家を探していた。でも、家は数えきれないほど並んでいるのに、どの家の扉もぴしゃりと閉じられていて、「ここにだけは来るな」「おれのところだけはやめてくれ」と言っているような気がして、入る勇気がでなかった。玄関の開いている家があればいいのにとぼくは思った。
「なあ、いつまで歩くんだ?」
「もうちょっと待てよ。いま探してるから」
「なあ、はやくしねえと夕飯の時間が終わっちまうぞ」
「わかった、わかったよ。十軒目、ここからちょうど十軒目の家に入ってやる」
ぼくらは再び歩きだしーー五軒目か六軒目あたりで足を止めた。どこかから風に乗ってデミグラスソースの素晴らしい香りが漂ってきた。それでぼくの頭はビーフシチューのことでいっぱいになった。それはもう暴力的な誘惑だった。その誘惑に立ち向かう元気もなかったし、立ち向かう理由もなかった。
ぼくはデミグラスソースの匂いがする家に近づいてーー1杯だけ、1杯だけでいいからビーフシチューを分けてもらおうーーそう思って玄関の前で立ち止まった。
胸がドキドキしていた。長いあいだ人差し指がインターホンの前で止まっていた。あとひとつの勇気のかけらが足りなかった。「初恋の時もこんな感じだったな、なあ相棒?」「うるさい黙ってろ」そしてインターホンを鳴らした。
ドキドキしながらぼくは待った。けっこう待った。でもいっこうに返事がなかった。足音ひとつしなかった。もう一度鳴らしてみた。でもやっぱり返事がなかった。
玄関のドアノブをつかんでみるとーーふわっと勝手に開いたようだった。鍵がかかっていなかった。ぼくはちらっとなかをのぞいてみた。人の気配がしなかった。
「ごめんなさい。誰かいますか」
ぼくは小さな声で言った。返事はなかった。ぼくはもう一度、今度はもっと大きな声で――これで返事がなかったら終わりにしよう――そう思いながらもう一度言った。
でも、うんともすんとも返事がなかった。
心が家の中に上がって匂いのするほうへと向かっていった。ぼくは呼び戻そうとした。でも心はかまわず先に進んでいった。心は廊下の向こうの扉を開けた。「おい、ハンバーグだぜ」心は言った。匂いが玄関まで届いてきた。ぼくはもう一度心を呼び戻そうとした。でも戻ってくる様子はなかった。
ぼくは心を連れ戻すためにサンダルを脱いで家に上がった。近づくにつれてデミグラスソースのにおいがますます強くなった。廊下の先の扉を抜けると台所に出た。心はフライパンのなかをのぞいていた。
「こんなかにハンバーグがあるぞ」「よくない。はやく出よう」でも心は言うことを聞かなかった。心はフライパンのなかのハンバーグをひとつ手でつかんでデミグラスソースしたたるハンバーグをひとくち食べた。そしてもうひとくち食べた。気がつくと、ぼくもハンバーグを手でつかんで、食べた。もうひとつ食べた。もうひとつ食べた。心は炊飯器を開けた。ぼくらは手づかみで温かいご飯を手にとり、食べた。水も飲まず胸が苦しくなるまで食べ続けた。げっぷをした。ふうっとため息をついた。そして、ぞっとした。われに返った。自分の行動にショックを受けた。とにかくこの家から出ようと思った。ぼくは台所を抜けて玄関に向かった。
そのとき、玄関の扉が開いた。「ただいま」と若い女性の声がした。その女性と目が合った。学生服を着た中学生くらいの少女だった。少女はぼくを見て驚いた表情を浮かべた。「だれ?」少女は言った。ぼくはとっさにめいっぱい愛想のいい表情を浮かべて、元気良く「おじゃましました」と言って、頭を下げながら少女のわきを通って玄関を抜けた。そして、背後で扉の閉まる音が聞こえた瞬間、ぼくは全力で逃げ出した。
とにかく走った。足が思うように進まなかった。空回りしているようだった。どれだけ走っても背中に感じる死者の手から逃れることができなかった。それでも走った、走った、狂ったウサギのように走り続けた。そして目に入った公園に駆けこんで芝生の上に飛びこむようにして倒れこんだ。そして仰向けになって激しく呼吸した。しばらく呼吸することしかできなかった。
ぼくはよくわからない感情が爆発寸前でどうすればいいのかわからずリュックからウィスキーを取りだしてスポーツドリンクのようにごくごく飲んだ。すると胸がいっきに熱くなり、頭がぽわんとして、脳がとろんとして、なんだかすべてがバカらしくなって、心と一緒に大声で笑いあって、芝生の上を転げまわり、身がよじれるほど笑いあい、何がおかしいのかわからなくなって、それがまたおかしくて笑った。それから体じゅうの水分が全部なくなるまで涙を流した。涙を流していると頭ががんがんして気持ち悪くなり、食べたものをすべて吐きだした。吐きだすものがなくなったあともぼくは何かを吐きだそうとしていた。なにか頭一個ぶんくらいある黒い塊を腹から吐きだそうとしていた。
なにもかもがめちゃくちゃだった。覚えているのはそこまでで、世界が潰れるようにしてぼくの意識がなくなった。