バイパス 唐揚げ弁当 白い雲
気まずい空気は自転車に乗っている間も変わらなかった。ほとんど会話はなく、ぼくはひたすら自転車を走らせていた。その間、ぼくはずっと万引きせずにご飯を食べる方法を考えていた。何かないだろうか、なにか違う方法は、と。
そしてついに思いついた。「なあ心、わかったぞ!」
「なにがだよ」
「タダで飯を食える方法だよ!」
そう言ってぼくは近くのドラッグストアに寄って安い包帯を買ってきて、それを自分の頭にぐるぐると巻きつけた。
「ほら、こうすれば今日退院してきましたって感じに見えるだろ? それでみんなから退院祝いをもらうんだよ。八百屋からはくだものを、肉屋からはコロッケを、おばあちゃんたちからはおにぎりをってな感じでさ。そうすれば百円の包帯が何百円もの食べ物に変わる。どうだ、すごいだろ?」
「なんだそれ。そんなので知らない人間がものくれるってのか?」
「わかってないな、お前は人の心ってもんが全くわかってない。心のくせに。人ってのはな、誰かを幸せにするのが好きなんだよ。わかるか? それでぼくはみんなに幸せになるチャンスを与えるんだ。つまり、こういうことだ。ぼくは無害で小さな嘘をついて、みんなからお祝いの品をもらう。それでそのお礼としてみんなに心のこもった感謝の言葉をプレゼントする。わかったか? 幸せを交換し合うんだよーーまるでクリスマスパーティーのように!」
でも結局のところ、その作戦は中止になった。八百屋の前まで行って、「よし、作戦開始だ!」っていうときにーー突然足が震えて、動けなくなった。そして怖くなって、ぼくはその場から逃げだした。で、ぼくは泣いたーーどっかの駐車場の隅っこで今すぐ死んじまえチキン野郎と自分の頭を殴りながら。
「なあ、包帯作戦はもうやらねえのか?」心は言ったけど、それ以上はなにも言わなかった。それからぼくらはコンビニで買った安くてやたら大きい味のないパンを分け合って食べた。それでついに財布から五百円玉が消えた。
「なあ、これからどうするんだ?」と心は言った。
これからどうしようか、と思った。これからどうしよう? ぼくは切実にそう思った。
ぼくらはふたたび国道を走った。ほかにすることがなかった。選択肢はそれだけだった。そのときぼくは人生のどん底だった。筋肉痛と寝不足と空腹と太陽の熱さで何がなんだかわからないまま、ただひたすら走り続けた。そしてついに国道8号線を渡りきった。それから人通りの多い新潟市の市街地をあっちこっちと迷いながら――信濃川を2、3回行ったり来たりしながら――ようやく国道7号線に乗ることができた。(新潟、山形、岩手へと続く国道7号線。ぼくはこれで山形県の南部まで走り続ける予定だった。)
でもぼくらは休むことなくそのまま国道7号線を走りだした。そしてバイパスに乗ったーー『自転車通行禁止』という看板を思いきり無視して走り続けた。
バイパスを走るのは大変だった。交通量が多い上に車はめちゃくちゃスピードを出していた。それだけでも十分怖いというのに、ずっと隅っこを走っているとそのままインターチェンジで降りてしまうので、インターチェンジごとに道路を渡らなくちゃ行けなかった。いつもだったら「盗塁だ!」なんて言いながら楽しんでいたかもしれないけれど、そのときのぼくにはそんな余裕はまったくなかった。ぼくはひたすら無心で走っていたーー何も考えず、何の感情も持たず、音量がばかでかいだけの音楽を聞きながら。ぼくは2時間ほど走り続けた――それでも2時間も走り続けたのだ。
(この2時間のあいだ、ぼくはひたすら頭のなかでチョイと道路にはみ出した瞬間に車と衝突するシーンを思い浮かべていた。どんなふうに衝突して、どんなふうに吹っ飛んで、どんなふうに転がって、どんなふうに出血して、どんなふうに人が集まってきて――そんなことしか考えることができないくらい頭がおかしくなっていた。)
そしてついに我慢できなくなって、ぼくは国道から離れた。
知らない道をしばらく走り、目に入ったスーパーマーケットに立ち寄った。涼しみにきただけで何も買うつもりはなかったーーでも気付けばバナナを買っていた。5本で120円。どうしてバナナなんて買ったか自分でもわからなかった。買った直後にはもう後悔していた。ぼくは店の入口のわきにあるベンチに座ってみじめな気持ちになりながらバナナを食べた。でももちろんそれだけじゃなんの腹の足しにもならなかった。
残りのバナナを心にあげようとしたーーでも、心の姿が見当たらなかった。何してんだよあいつ、どこに行ったんだ? そう思ったそのとき、心が駐車場のほうから歩いてきた。
「おい、そっちで何してたんだよ。ほら、バナナだぞ」
でも心は返事をしなかった。目も合わせようとしなかった。きまりが悪そうに視線をふらふらと地面に漂わせていた。そして心はぼくに右手を差し出した。
「これ、あっちに落ちてたぞ」そう言って心は手を差し出したーー手に持っていたのは唐揚げ弁当だった。
「嘘じゃねえぜ、本当に駐車場に落ちてたんだ。嘘だと思うだろ? でもマジなんだぜ」心は言った。「多分、誰か買ったけど落としていったんだよ。ばかなやつだよな」
ぼくはなんて言えばいいのかわからなかった。あまりの驚きでうまく言葉にできなかった。そしてぼくは言った。「奇跡だ」
「なあ、そうだよな? こんな奇跡あるのかってくらいの奇跡だよな。やっぱ神様は見てんだよ、おれたちのことを。死にそうなおれたちを見て恵んでやろうとでも思ったんだよ」
ぼくらはその生温かいから揚げ弁当をかみしめて食べた。時間をかけてゆっくりと食べた。こんなに美味しいご飯は初めてだった。白ご飯の上に乗っている梅干しがたまらなく美味しかった。
ぼくらはしばらくベンチに座って、ぼんやりと空を眺めていた。何も考える気になれず、動く気にもなれなかった。空は透きとおるように青く、白い雲が気持ちよさそうにゆったりと流れていた。
そんな空を眺めながら、ぼくはふと感じたことを口にした。
「なあ、心」
「なんだ」
「やっぱりさ、ふかふかのベッドで寝たいな」
「あの雲見てそう思ったろ? おれもいまそう思った」
ぼくらは力なく笑いあった。たったそれだけ――でもそれだけで十分だった。それがぼくらの仲直りのしるしだった。
「よし、じゃあそろそろ行くか」
「んだな、いくか」
ぼくらは立ちあがり、ふたたび自転車に乗りこんだ。
(ぼくらはそれ以上、話をしなかった。心も言わなかったし、ぼくも言わなかった。あの弁当はどう見てもスーパーから盗んできたものだった。でも、だからといって、なんと言えばいいというのだ? そうだ、心が言ったように、ぼくらは生きなきゃいけないんだ。それ以外に選択肢はないのだ。)