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白石 13

「ほぉら、行こう。一緒に行こうね。足元に気をつけて。一緒に一階まで降りようねェ」

 ねちねちした声で耳の奥を舐め回されている。ぼくは身体を引き摺られて、二階の廊下を進んでいる。息が――鼻が。肺が。視界を男の背中で塞がれた。身体が宙に浮く。眼前に男の髪。油で固まった男の髪が顔に絡みついてきた。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だお願いだからおろして。頼むから床におろして、床に、床のうえに。それなのに――

「よかった。本当によかった。嬉しいなぁあ。ほぉら、もう少し。もう少しで到着だよお。ふふ。んふふふふ。君みたいな綺麗な顔をした男の子が、進んでわたしの家へきてくれるなんて、嬉しくて。本当に嬉しくて仕様がなくってねぇええ」

 ハぁあああァと吐く息が壁に反響して聞こえ、間を置かずして扉の開かれる音が耳へ届く。男は鼻息荒く、肩を上下させている。ぼくは背負われて階段をおり、リビングへ運ばれたようである。身体を解放され、床へ投げだされて、嫌な臭いは遠ざかったけれども、暗黒の闇に覆われた室内を瞳でとらえることはできなかった。ぐぐぐぐぐぐ、と。喉から発せられたノイズのような不快音がどこからか聞こえてくる。両目を見開き、闇を凝視する。靴音が聞こえる。しかしなにも見えない。

 ジジ、と明かりが灯る。

 闇の中にオレンジ色の炎が浮かびあがった。


 ひとつ。ふたつ。


 壁に沿って置かれた燭台の蝋燭に炎が灯る。


 よっつ。いつつ。


 リビングの奥に吊るされたグールとその影が、リビングのあちこちの壁で揺れている。グールはこちらへ顔を向けて低い声で唸っていた。

 目があう。

 その顔を、はじめて、じっくりと見た。

 グールは若く、ぼくとさほど歳の違わぬ青年のように見えた。身体は直視できないほど激しく傷つけられているのに、首からうえは綺麗に保たれている。人だ――人だった。醜く恐ろしい存在として認識してきたグールも近くで見てみれば、同じ人間として映った。いや、人である。紛うことなく人である。人以外のなにものでもない。はじめてグールの存在を知った日から今日まで――いま、この瞬間まで、ぼくの頭の中は偏見で満ちていたことに気づかされる。

 んふふ、んふふと、不快な笑い声を発する男が、視界に入ってくる。グールへ近づき、腰にさげていた棒状タイプのスタンガンを手にもってグールの脇を小突き、髪をつかんで、いやらしく微笑んだ。

「悪いなァ。悪いが、お前を可愛がってやるのも今日までだよォ、シン」

 直後に、風を切る音と打撃音とがリビング内に響き渡る。グールが悲痛な声をあげる。男は何度も何度もグールの腰を殴りつける。

「いぁははッ、痛いか? 痛いか、シン!」

 やめろ。

 やめてくれ。お願いだ。お願いだから、やめてくれ。

 振りおろされる凶器。

 室内に狂気が満ちる。

 やめろ。

 ――制したいのに、声が、

 やめてくれ。

 ――声すらぼくは発することができなくて、


 グールが表情を歪めて苦悶の声をあげる度に、身を挺してくれた母親の姿が脳裏を過る。血と煤と埃で汚れた顔で、ぼくを抱きしめた母の姿を否応無しに思いだしてしまう。暴徒と化した連中からぼくを守るために、盾となって命を落とした母の姿が脳裏に――痛めつけられるグールと、記憶の中の母親の姿とが重なりあって見えてしまう。


「ほぉォら……解くぞ。シン。解いてやるからな。大人しくしてろよ。おかしな真似をしたら、さっき以上に痛ぁああい、お仕置きをするからな」

 なぜ、暴力を振るう?

 なぜ、暴力を好む?

 どうして躊躇うことなく、他者を傷つけることができるんだ。

「よおぉおし、いいかァ、シン。思いっきり。思いっきり噛みついてやるんだぞ」

 両手と上半身に繋がっていた紐を解かれたグールは、大きな音を立てて床に倒れる。うううううう、と、怯えた声をあげながら、うつ伏せた姿勢で床を這おうとするグールの頭へ、男が靴底をあてて満足げな笑みをこぼす。

 男にとって、シンと名づけられたグールはただの玩具にすぎなかった様子だ。この屋敷の本当の主である峰岸氏が愛したフィギュアと同様に、己の欲望を満たすための存在でしかなかったらしい。そしてどうやら、今度は、このぼくが、シンに代わる新たな玩具として選ばれたようである。ぼくは縛られて、吊るされて、感染させられて、グールとして毎日毎日、弄ばれるのだろうか――この男に。醜く、臭く、薄汚いこの男に。暴力を好む、許し難いこの男に――

「さぁ、ほら、もっと近づけ。この子に近づくんだ。歯を見せろ。口を開け。ほら。この子に噛みつくんだよ。お前と同じにしてやるんだ」

 目があった。グールと。口を開いて、首を傾げて、瞬きをせずに大きく見開いたグールの瞳が、まっすぐぼくを捉えている。

 男が近づく。両脇に手を入れられて、抱き起こされる。不快な息をつむじに吐きかけられながらグールのほうへ引き摺られる。悍ましい呻き声が音量をあげ、悪臭の度合いが増して、眼前にグールの充血した目がふたつ並んだ。吐く息が顔にかかる。口の端から床へと濁った唾液が糸を引いている。

 嫌だ。

 嫌だ嫌だ。誰か、ぼくを。お願いだから、誰か、この場から、

「あァ? おい、なにやってんだ? なんで噛まねえんだよ、シン、ほら、噛むんだよ、この子を噛め。噛めっていってるだろうが! おい、どうした、どうした、シン。ったく……なにやってんだ、この役立たずがッ」

 ふいに拘束を解かれて、冷たい床へ放りだされた。肩をうった。続けて頭も。だけど痛みは感じない。感じるどころじゃない。視界は傾ぎ、べったりと床に貼りついた頬から熱が奪われていく。

 男はぼくから離れると、うつ伏せた姿勢のグールの脇に立った。すぐさま腰をおろして、グールの頭をもちあげる。ほら、噛め、とっとと噛め、噛んで感染させろ、と、聞きたくない言葉が耳に入ってくる。

 あぁ――

 なぜ。なぜだ。なぜこんなことになってしまったんだ? こんな目に。こんなひどい目に。どうしてぼくはこんなひどい目にあわなければならない? どこもかしこも暴力に満ちている。異常なまでに暴力で充ち満ちて――いや、おかしいだろ。おかしすぎるだろ。望まない暴力で溢れすぎている。なァ、ちくしょうッ。動け。動いてくれ。こんなところでくたばるものか、なァ、冗談じゃないぞ。起きろ、起きろよ。起きて立ち向かうんだよ、

 動け!

 お願いだ。

 動いてくれ。

 お願いだから、動いてくれ!


 暴力が(まか)り通る、こんな世界を認めるものか。

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