『令和』が国書由来だというのは
「まやかしだ」と言う人がいた。
まさにその通りです。
『令和』が国書由来だというのは大変な欺瞞です。
まず、
『国書』と呼ばれている万葉集他日本の古典の成り立ちを
わずかにでも、義務教育程度にでも知っていれば
『国書由来』などという言葉が使える訳がない。
あまりにも馬鹿馬鹿しい誤解あるいは無理解です。
最悪、悪意からの詐欺とも受け取れてしまいます。
『国書由来』などという言葉は日本語として成立していないとさえ言える。
そのような言葉を政府の指導者たちが、公の場で、
公的な発言として言い触らすのは日本国の信用に関わる問題です。
こうした事態がまかり通るという現状は、
一般において文化や創作の実態が
如何に理解されていないかを如実に示しています。
「天才がいきなり生い育つ訳ではない」(ゲーテ)のです。
「安倍政権は中国嫌いだから漢籍から選ばなかった」
という話も聞きますが、
例え本当に中国嫌いであったとしても、
例え中国をけん制する必要性が外交上実際に存在するとしても、
日本文化の土壌である古代中国の文化を否定するような真似をしていい理由にはならない。
政府の一連の行動は
中国古典への攻撃であり漢籍から元号(年号)を選ぶ伝統への攻撃、
元号の習慣そのものへの攻撃であり皇室への攻撃でもある。
読者の皆さんは、この攻撃の危険度が理解できますか?
何故危険なのか説明できますか?
分からない、声を挙げられないのはまさしく平和ボケに陥っているのだと
言わざるを得ません。
「意識とは、記憶を意味する。」(ベルクソン『思考と動き』)
人間は歴史を捕まえることはできない。
人間は時間を捉えておくことはできない。
だから、伝統とは人間と歴史を繋ぐもののことです。
伝統とは人間がかつて確かに存在した歴史を生き抜いたということの
『記憶』なのです。
その『記憶』が私が、あなたが、彼が彼女が
日本の歴史・日本文化の住人であるという意識の契機、源泉、根拠となる。
だから安々と捨てたり変えたりしてはいけない。
なのに、そんな伝統の一つを私たち日本人はこのたび失ったのです。
いいですか、失ったのです、
国の始まりと共にあったとも言える長い伝統をだ、
その意味を理解した上で
「元号なんてなんでもいいどうでもいい」と思ったり
あの安倍政権を支持したりする人間がいるのなら
その人間たちに対して私から言うことはもう何もない。
好きにするがいい。
あなたは、新しい時代が来るのが楽しみですか?
「絶望は罪である」(キルケゴール『死に至る病』)
私たちはいつかこの罪の意味を
絶望に気づくという形で思い知ることになるだろう。
もちろんこれは創作とも関係のある話です。
が、
令和についての話は多分もうしません。
追記・修整
「「まやかしだ」という人がいた。」から
「「まやかしだ」と言う人がいた。」に