となりの誰かさん①
2月の最終水曜日は「ピンクシャツデー」
白川境は校門の前で足を止めた。
門柱には、青銅製の板が埋め込まれてある。"西岸高等学校"の文字が浮かび上がり、所々、つるりと光っている。
その下には立て看板。白い模造紙を張り合わせ、墨で大きく"入学式"と書かれていた。
真新しい制服に、緊張した面持ち。スーツ姿の母親、父親に付き添われているもの。中には、校門で立ち止まり、写真を撮るものもいた。
校舎へと続く道には、体操服やユニホーム姿の生徒たちが並ぶ。声を張り上げ、部活のチラシを手渡していた。
境は1人、立ち止まったまま。制服の襟はよれ、ズボンの裾は擦れている。手に持ったカバンは買ったばかりだ。
その横を新入生が通り過ぎている。戸惑いながら、あるいは期待に満ちた表情。これからは同級生として、この学校で過ごすのだ。
ここまでの道は春らしく、坂道にはうららかな光が降り注いでいた。そよそよと風が吹き、僅かに残る桜の花びらが舞っていた。
この学校は、どんよりとしている。暗い雲に覆われているように……。しかし、そう感じるのは、境だけかもしれない。
「ふ―っ」
自ずと溜息が出る。
無事に過ごすことが出来るだろうか…。目立たないように。何事も無いように。
境は意を決し、一歩、踏み出す。祈りながら校門をくぐった。
西岸高等学校は、小高い山の中腹にある。坂道の斜面には、桜並木が続いていた。
元々は尋常小学校で、戦後、隣接していた軍事施設の場所を拡張。高等学校になって、創立70年と歴史ある学校だ。
昔は、進学校として人気もあったが、校内暴力やいじめ問題などで、かなり荒れた時期もあった。
今は落ち着いたように見えるー表面上は。
"あそこの生徒が万引きした" ''ケンカで警察が来た" "屋上から誰かが飛び降りた"などの噂話。
ネットでも、先生やクラスの不満中傷が飛び交っている。
「わざわざ、そんな学校に行かなくても」
白川直は入学届の書類を手に、渋い顔だ。
「おまえなら、いい学校があっただろう」
中学校では、友だちもなく、休み時間は勉強ばかりしていた。境の成績は常にトップで、先生も期待していたのだが……。
「俺に気を遣ったのか?」
眼鏡のズレをなおし、境のほうを見た。
白川直は、境の父親である。ただし、戸籍上で、血の繋がりはない。身寄りのない境を養子にしたのだ。
その頃の直は、まだ、仏教系大学の学生。急死した父親の跡を継ぎ、"此地寺"の住職になったばかりだった。以来10年間、父子2人でこの寺に住んでいる。
直は父にしては若いし、兄にしては落ち着き過ぎている。坊主ということもないだろうが、趣味もセンスもジジむさいのだ。境自身も、父という存在を知らずにいたので、「おじさん」と呼んでいた。
「そんな事はないよ」
境の本心は、学校なんか行きたくなかった。この寺が一番落ち着く。
だが、そうも言ってられず、「高校は行っておけ」という直の言葉を受け、家から一番近い西岸高校にしたのだ。歩いて5分。電車に乗らなくてもいい。寺の手伝いも出来る。
「おじさんだって、西岸だったよね。後輩になれるし、それに制服買わなくてすむし」
と愛想笑いをする。
「まぁ、そうだが」
進学の相談をされた時、チラリと出身校を言ってしまったことを、直は後悔していた。
「いい話は聞かないしなあ。俺が行ってた時も、良くなかった」
入学届を前にして、今更なんだが、父親としては複雑だ。
「あの学校には、いろんな噂があるぞ。例えば……迷える兵士とかな〜」
いかにも恐ろしげに、顔を近づけた。
「ああ、知ってる」
境は、半ば、呆れたように息を吐いた。
学校の怪談を出してくるとは……。しかし、「じゃあ、やめます」とは言えないだろう。
「他にもあるぞ。動く人体模型やお化けの写る鏡なんか、怖いぞ〜」
「どこの学校にもある話だよ」
そう、どこに行っても同じ。
「まあ、そうだが……」
直は咳払いをした。境は覚悟しているようだ。それなら、何も言えないのだが……
「あの学校では、生徒が2人も自殺している。なんか、嫌な予感がするんだ」
直は腕を組んだ。
境は俯く。今まで、心配ばかりかけてきた。直が言うことはもっともだ。
「おじさん」
境は顔を上げ、笑いかける。
「大丈夫。気をつけるよ」
もう、高校生になるんだ。直が安心出来るように、学校生活を送る。自信はないが、境は強くおもった。
初めは、ほとんど知らないもの同士。お互いなんとなく遠慮していたが、様子を見て、こいつならいいかと話しかけてみる。
G.W.も近づくと、徐々に打ち解けてくる。と同時に、それぞれの位置が決まってくるのだ。いわゆる、スクールカースト。積極的な生徒が、クラスの雰囲気を作っていた。
白川境は、とにかく静かに大人しく。
はじめは慣れずについ声を上げてしまい、みんなを振り向かせてることもあった。これが幸いしてか。話しかける者もなく、1人でいることが多かった。このまま、穏やかにやり過ごしたいのだが……。
境には、気掛かりなことがある。同じクラスの青山電。彼はクラスのリーダー格のといっていいだろう。いつも、数人とつるんで、誰彼なしにちょっかいをかけていた。
宿題をやらせる。強引に物を取り上げる。一緒に遊ぼう、と言いながら金を払わせる。
された方は、嫌な気分になるのだが、青山本人は面白半分。楽しんでいるだけだ。
そのうち。1人に集中し始めた。配島という小柄な男子だ。
気の利くやつなら、青山を上手くかわし、距離を置いている。配島は「嫌だよ」「無理だよ」と言いながらも、結局、言うことを聞いてしまう。
青山の要求は段々とエスカレートしていき、クラスメイトの目にもつくようになっていた。それを咎めるものは、ほとんどいない。とばっちりを受けるのは、誰でも嫌だ。
見かねて女子が注意するものの、
「てめえら、関係ねぇーだろ。遊びだよ。遊び。なぁ」
と凄まれ、配島は「……うん」と小さく言っのだ。
みんな、配島に悪いと思いながらも、自分でなくて良かった、と安堵する。何とかしたいと思っても、青山は威圧的で、とにかく暴力では勝てない。
「言い返せない配島が悪いんだ」
「配島が好きでやってるんだ」
と、この状況を受け入れていた。中には、機嫌をとるためか。青山と同じような事をする奴も出てきた。
面白がってるのは、一部の生徒だけ。クラスは、嫌な空気が流れ始めていた。
とある昼休み。
この日も、廊下の端で、青山を中心に数人が配島と集まっていた。
教室だと、目につく。1人の女子生徒なんかは、注意もする。怒鳴ったり脅したりするが、いまいち強気に出れない。他の奴なら、簡単なのに。どうも、苦手だ。
青山は配島を見下すように、睨む。配島は小さな身体を、ますます小さくしていく。
「イヤだよ。出来ないよ」
いくら訴えても、まるで聞いていない。口元をニヤつかせていた。
「この階段から飛び降りるのが、ムリだって言うんだな」
誰ともなしに、"下の踊り場まで一気飛びしよう"ということになった。一番目は配島だ。
「こんなの高過ぎるよ。許してよー」
泣き出しそうになりながら、懇願する。
クスクスと失笑が漏れ、「バッカじゃねーのー」「簡単じゃん」という声が聞こえた。
「なら、お前がやれよ」と思いながらも、配島は反論できない。
「仕方ない」
青山は配島の肩にポンと手を置く。
「許してやるよ。その代わり、罰金な」
そのまま、肘をつき、配島を覗き込む。
「じゅうまんえん」
ゾッとするような、不快な笑いが沸き起こる。
廊下にいた他の生徒達はチラリと見たが、それだけだ。自分たちのお喋りで忙しかった。いや、忙しいフリをしていた。
「そんな…そんな大金持ってないよ」
「いくらなら払えるんだ?」
青山はニヤニヤしながら、訊き返す。配島は困ったように考えていた。そして、
「じゃあ」
と詰まりながらも、口を開く。そこへ、聞きなれない声が、割って入った。
「えーと……あー、ちょっと」
遠慮がちだが、ハッキリとした口調。
突然のことに、配島は言葉を呑み込んだ。青山たちは中断され、ムッとしたように顔を向ける。
「誰だ? こいつ」
青山の問いに、取り巻きが答える。
「白川だよ」
「1人でブツブツ言ってる変な奴」
どっと笑いが起こる。
境が教室に入ろうとした時、何やら騒いでいるのが、目の端に入った。迷ったが、どうにも放っておくことが出来ない。今まで見ぬフリをしてきたが、思い切って声を掛けた。
「あん? なんだ」
青山は、すぐさま境を睨みつけた。
「その……そういう事は、やめよ」
気後れしながらも、言い切った。青山を見返している。が、圧倒されているのか、肩の向こうに目を向けている。
ーこいつ、やっぱビビってんじゃねーか。
「ふん」
青山は鼻で笑い、更に脅すように体を反らした。
「いいか。オレたち楽しく遊んでんだ。邪魔すんな!」
これで、すごすご引き返すだろう。どうだと言わんばかりに、鼻から息を吐く。
境は暫く俯いていたが、顔を上げ、しっかりと前を向いた。その瞳には、何か思いが込められている。
「これは遊びじゃない。君も分かってる。本当はこんなこと、したくないはずだ」
「なんだとぉ」
青山は瞬時に怒りを剥き出しにし、境の胸ぐらを掴んだ。周りのものに緊張が走る。さらに、掴んだ手に力を入れる。
こんなザコが何言ってんだ。相手にもならねえ。
そう思いながらも、青山はムカついていた。境に見透かされているようで…とにかく、腹がたつ。
「おい! お前たち。何をしている!」
野太い声に、一同、ハッとする。
ジャージ姿のガタイのいい男性が、仁王立ちで腕を組んでいた。
体育教師で生活指導担当の赤井だ。声も体格も大きく、迫力もある。やんちゃな生徒からも、一目置かれていた。
「喧嘩か?」
赤井は訝しげに眉を上げる。
悪いヤツに見つかってしまった。青山もさっきまでの勢いはどこへやら。
「いや、あの……」
と焦りながら、境を掴んでいた手を緩めていった。
「柔道の技を教えてもらってたんです」
境が明朗に答える。赤井はもちろん、その場の生徒たちも意表を突かれ、口を開けた。
「体育で柔道してるけど、どうも苦手で。青山くんが得意って言うから、みんなで教えてもらってたんです」
と笑った。
「本当か?」
周りは、首を縦に振っているような、微妙なリアクションだ。
赤井はまだ疑ってるようで、問いただすように青山を睨む。
「うん、まあ……」
境を見ると、ニコニコしている。
ーなんだ、こいつ。ますます胸糞悪い。
が、このままでは指導室送りになりかねない。
「そういうことっす」
と頷いた。その時、予鈴が鳴り響く。赤井は納得いかないようだが、
「あんまり廊下で暴れんなよ」
に留まった。
「さっ、教室に戻れ」
と促され、集まっていたものは、ダラダラと歩き出した。
校門をくぐり、駆けていく。地面を見ながらいくものや、ふざけたり、喋ったり。皆、様ように同じ方向に歩いている。
いつもと変わらない、朝の登校風景。境もその中の1人だ。
昨日の出来事を思い返しながら、校舎へと向かう。途中、立ち止まり何やら呟く。程なくして、また歩き出した。
「何やってんだ?―お、来た。来た」
窓を除いていた生徒が、周りに知らせる。
「どんな顔、すっかなー」
「いい気味だ」
境が教室に入ると、テレビのスイッチを切ったように静かになった。クラスには、何人かいるが、ジッと動かない。後から来た者は、気配を感じ、こっそりと入ってきた。
それもそのはず。境の机には、落書き。その上に、泥、ゴミがぶちまけられていた。
青山たちはニヤニヤして、こっちを見ている。境は微かに笑え返し、
「そういうこと……」と小さく言った。
ーさて、どうするか。
境は道具ロッカーから、バケツや箒、雑巾などを持ってきた。1人で黙々と、泥やゴミを片付け始める。
それを見て、クラスメートばボツボツと話し出した。誰も手を貸すものはいない。
青山たちからは、笑いが消えていった。なんか、面白くない。思った以上に、反応が薄いのだ。
朝のチャイムが鳴り、それと同時に女子生徒が駆け込んできた。
「いやー、危なかったー」
ニコニコしながら、明るく笑う。が、教室の様子を見て、顔色が変わった。
境は泥、ゴミをバケツに入れ終わり、机の落書きを雑巾で拭いていた。
「何? これ…ひどい…」
そう言いながら、境へと歩み寄る。
次に教室に入ってきたのは、担任の大目《おおめ》だ。化学を教えているが、ただ教科書を流しているだけ。生徒が相談しても「ちょっと何言ってるか分からない」で済ましてしまう。面倒な事は遠ざける、事なかれ主義。
境を見ると、ムッとしたように尋ねた。
「白川、何をしている」
みな、しーんと静まり返っていた。
「えーっと……」
境はチラリと青山の方を見る。イスに座って、すましている。
「机が汚れていたので、その…気になって…」
大目は、床に置いてあるバケツを見、机の上に目をやった。落書きの痕が、所々残っている。"しね"だの"消えろ"だの。なんとなく読める。
「もうすぐ授業だ。早く片付けろ」
そう言い放ち、教壇の前に立った。
「欠席はいないな。それじゃ」
「先生!」
女子生徒が、訴えるように声を上げる。
「どうした、途波。席につけ」
「待って下さい。これって、酷くないですか」
「あの〜、先生」
遮るように、境が口を挟んだ。
「バケツのゴミ、捨ててきていいですか?」
「ああ、早く帰ってこいよ」
大目は境の方を見もせず、「それじゃー」と朝礼を始める。
「あ、ちょっと」
女子生徒が声をかけるが、境は微笑むと、バケツを持って教室を、出ていった。
本人がいなければ、何も言うことが出来ない。心配そうに、ドアの向こうを見守る。
「おい」
大目に言われて、渋々席に着いた。
それを機に、ターゲットは境に替わった。
廊下を歩いていると、足を出され、躓き、よろける。倒れることもあり、更に足蹴りをされる。
「悪り〜な〜。見えなかったよ〜」
とヘラヘラとしている。
教科書や体操服を隠されたりもした。しかし、境はすぐに探し出してしまう。そうなると、もっと懲らしめてやろう、と悪質になっていった。
クラスメートの態度は、今までと同じ。配島もそうだ。自分が外され、ほっとしていた。再び、狙われないように関わらない。
ー本当にそれでいいのか?
問われると、いい訳ない。罪悪感は常にあった。が、粗暴になっていく青山を恐れ、避け続けていた。
誰も文句を言えない。ますます態度をデカくしていった。もはや、先生も見て見ぬ振りだ。赤井でさえ手こずっていた。生活指導ではあるが、学年が違うため、ずっと見張ってるわけにもいかない。
やっと現場を押さえた、と思っても、当の境が「問題ないです」と爽やかに答える。青山は高上がり、
「なんでもないって」
と薄ら笑いをうかべる。もう少し話を聞こうと「おい」と腕を掴むと、
「あ、先生。それ、パワハラっす」
などと生意気な口をきく。
担任の大目は、全く当てにならない。大事にならないうちに芽を摘んでおきたいのだが……。
この高校では、自殺者を出している。赤井が赴任するずっと前だが、生徒にその選択だけはさせたくない。
ー何をすればよいのか。
気を揉むばかりで、現実を見るとガックリとくるのだ。
最近、青山は、苛立っていた。いや、最近だけではない。ずーっとだ。
小学校の頃から、気に入らない事があると、怒鳴って、暴れて、周りを思い通りにしてきた。何か心に蟠りがあるものの、それで満足だった。
今もそうだ。皆、青山には逆らえない。そう、従っている。それなのに……。
「白川境ぃ〜」
あいつだって、別に楯ついたり、口答えしたりしない。だが、何をやってもダメージを受けていない。少なくとも、そう見える。
この前も、スマホをぶっ壊してやった。
「あっ」と一瞬、顔が曇ったものの、
「わざとじゃないんだよ」
「そんな弱っちいの、持ってっからだよ」
嫌味に笑っても、
「仕方ないな」
とさらりと言った。それから、引きずることもなく、普通に過ごしている。
周りの奴らは、
「あいつ、友だちいねーから、スマホなくてもいいんじゃね」
「そうそう、ぼっちなんだよ。ぼっち」
なんて言ってたが、何か、引っ掛かる。忘れていた蟠りが転がるように、心を燻る。
「強がってるだけだよ」
「家では、大泣きだって」
と大笑いする。そのわりには遅刻もせず、学校に来てるじゃないか。
しかも、先生にバレても、ちくったりしない。それどころか、青山たちを庇うのだ。それで、先生も引き下がるしかない。
助けてるつもりなのか? あいつが優位に立ったようで、どうも嫌な気分になる。
「うっせー!」
こいつら、何にもわかっちゃいない。あいつをなんとかしないと。
これは、ゲームだ。絶対に勝たなければいけないゲーム。でなければ、学校での、クラスでの、立ち位置はどうなる。
「オレを舐めんじゃねーぞー」
待ってろよ。青山は拳をぎりぎりと握りしめた。
教室では、生徒がカバンを机の上に置き、談笑したり、スマホを見たり。1日の授業が終わり、のびのびとした空気が漂っていた。廊下でも、楽しげな笑い声が飛び交っている。
その中に不穏な集まり。教室を出た一角で、青山たちが境を取り囲んでいた。通りかかった生徒も、そこだけは下を向き、そそくさと階段を降りていく。
「だ、か、ら〜」
取り巻きが、境の目の前にペンをチラつかせる。
「お前が盗ったんだって」
「お前のカバンにあったんだからな」
「言い訳出来ないぞ」
境は言い訳するでも、焦るわけでもない。顔を上げ、周りを見る。悪意を楽しむように、笑っている。…そうでないものもいるか。
「みんなが知ったら、どう思うかなぁ」
「先生に言っちゃおーかなー」
今まで黙っていた青山が、境の前に出る。
「言われちゃ困るよな、白川。ずっと、泥棒呼ばわりだぞ」
「フフフン」
周りから、軽蔑したような声。
「僕はやってない」
「じゃ、なんで、てめーのカバンにはいってんだよ!」
境の言葉を打ち消すように、1人が怒鳴る。
カバンに入っていたと言っても、ポケットに差し込まれていた。それを見て「盗っただろう」と脅す。シナリオ通りだ。
「そんなの誰も信じないよ。お前がやったんだ。みんなそう思う」
青山は静かに話すが、イライラが所々に感じられた。
こんなに落ち着いていられるのは、何故だ。怯えもしなければ、パニックで騒ぐわけでもない。
「オレたち、優しいから黙っててやるよ。その代わり、分かってるよな」
肩をイカらして、堺を覗き込む。そして、指を3本立てた。
「とりあえず、こんなもんか」
これは完全な言い掛かりだ。その上、ゆすろうというのだ。
ここで断れば、もっと酷い目に遭うだろう。もちろん、先生や親に言えばどうなるか。容易に想像できる。
「え!? 明日、持ってくるよなぁ? なんなら、今から一緒に取りに行ってもいいぜ」
境はじっと青山の方を見ていた。目は合わせない。
青山は落ち着きなく、返事を待つ。ジリジリとし始め、
「どうなんだ!!」
と恫喝する。
「君が望むものは、そんなものじゃない」
境の言葉に青山は目を剥いた。
「本当は、話を聞いてほしいだけなんだ」
ド ン!!
青山は境の胸に肘をつけ、壁に押し当てる。さすがに、苦しそうに口を歪めた。
「てめーは金を持ってくりゃー、いいんだよ!」
グイグイと腕を食い込ませる。境は息を詰まらせ、顔は真っ赤だ。
青山が手を離すと、境は廊下に倒れ込んだ。
「おい」
声を掛けながら、境のカバンを手渡す。渡された取り巻きが、カバンから教科書を外に放り出した。そして、ガサガサと中を探っている。
「こいつ、財布ねーぞ」
青山は、起き上がろうとする境の頭を掴む。
「学校に金も持ってきてねーって」
フン、と鼻で笑う。
「とにかく、明日持ってこいよ」
と境を廊下に打ち付けた。
「つっ…」
痛いながらも、境は身体を起こし、
「いつでも話を聞くよ。君だって、みんなと仲良くなり、」
「しゃべんな!」
それ以上、何も言うな。
青山は、足で境の手や背中を、何度も踏みつける。それでも、気持ちが収まらない。とうとう、脚で突き、階段の下へと蹴り飛ばした。
無様に落ちた境を見て、流石に遣り過ぎだ、と周りは息を呑む。誰も口を開かなかった。青山の怒りが、ヒシヒシと伝わってくるからだ。逆鱗に触れるわけにはいかない。
「ふん、ざまーねー」
青山が言うと、「ハ、ハ、ハ」パラパラと笑いが起こる。
「大人しく言うこと聞いてりゃいいんだよ」
「へん、バーカ」
悪態をつきながら、階段を降りていく。境のカバンを持ってた者は、廊下の窓から投げると、急いで後を追いかけた。
境は踊り場に倒れたまま。彼らが去っていく足元を見ていた。やがて、それが霞んでくる。声が遠のき、聞こえなくなっても動かずにいたが、
「いや、大丈夫だ」
と起き上がった。座り込んで、目を瞑り、大きく息を吐く。
「うん、…大丈夫」
だが、あちこちが痛い。壁伝いに、そろそろと立ち上がる。
「足はなんともない。歩けるよ」
踏まれた手はズキズキする。動かさないどころか、何もしなくても痛みが走る。
「どうしたらいいかな…」
境は暫く立ち止まっていたが、そのうち階段を降りていった。
カタカタとキーボードの音だけが鳴っている。止まると同時に、
「はぁー」と大きな溜息。
「ダメだ。ダメだ。また、ついちゃった」
保健室に、白衣を着た女性。大きな独り言である。
「あぁー」
気をつけたいが、やはり溜息は出る。保険教諭になって、もう20年。最近、めっきり疲れやすくなってきた。とは言うもの、スタイルにはかなり気を使っている。生徒には年齢を内緒にしているし、アラフォーには見えないだろう。
男子生徒にはもちろん、女子だって「先生みたいになりたい」と憧れを抱いている。みんなからは「点子《てんこ》先生」と呼ばれ、慕われていた。
「いや、いや」
人気取りのために、やってるわけではない。まずは生徒たちの事を考えなくては。
今日だって、授業中にふらっとやって来て、グチグチしていたり。昼休みにも、「先生、聞いて〜」と真剣な眼差しだ。つまらない事でも、本人達にとっては一大事。
一応、担任には伝える。が、先生も人の子。どうするかは、それぞれである。これは放っておかない、と思うこともあるが、「クラスの事に口出しするな」と言われればそれまで。
点子の出来ることは、生徒たちの話を聞く。それが、あの子たちに何かしら力になっている、と願うしかない。
「点子は、真面目すぎるのよ。気楽に、気楽に」
若い頃は気持ちが入り過ぎ、同僚からよく言われた。
父母も祖母も、そういえばひーおじいちゃんの妹だっけ。代々、ずーっと先生をやってきている。気質だろか。どうも、気を回してしまう。
今の子供たちにとって、問題が多過ぎる。何か出来ないかと模索するが、…今は少々諦めムードだ。
「気楽に、気楽に…か」
再び、キーボードに手を置いた時、
ドン ドン
保健室のドアがガタガタと揺れ、そっと男子生徒が入って来た。
「あの…」
遠慮がちに声をかける。
ーこれは何かあったな。
声の調子がわかる。なるべく、気にしないように。
「どうした?」
PCの画面を見ながら、平静を装う。
「湿布ください」
「うん?」
顔を生徒に向け、様子を伺う。
「怪我したの? 見せてくれる?」
「いや…まあ…」
と曖昧な返事をしながら、赤くなっている手を後ろの方に回した。
「やっぱり、大丈夫です」
「あ、待って」
教室を出ようとするのを、慌てて引き留める。
何か、話したいはずだ。帰したら、もう来ないかもしれない。
「湿布っていっても、いろいろな種類があるの。どんな感じか見ないとわからないわ。ね」
と近づき、手を差し伸べる。相手は迷ってるようだ。点子は、半ば、強引に肩を押した。
「はい、座って」
と椅子にトンと座らせる。この手のタイプは、こっちが強気に出た方がいい。
点子は正面に腰掛け、グッと顔を近づけた。生徒は観念したのか、手を出す。
「あらー。これは…」
点子が手を取ると、顔をしかめ、歯をくいしばる。全体に赤く腫れ上がっていた。制服も所々白くなっていた。
「名前は? 何年生?」
「1年の白川境です」
痛みに耐えながら、答える。
「2組の白川くんね。…特に、アレルギーとか病歴はなかったかなぁー」
境は、一瞬、痛みを忘れたかのようにびっくりした様子だ。
「僕のこと、知ってるんですか?」
点子はフフッと短く笑った。
「入学の時に、保健カードを、書いてもらうでしょ。それで」
境が保健室に来たのは、これが初めてだ。どうして、覚えているのだろう。
「この学校の生徒のことは、なるべく知っておきたいの」
何かあってから、カードを、ペラペラと捲っていては遅い。点子は全員分、カードに記入している全てを記憶していた。
「白川くんは独り言が多いそうね。これもカードからの情報よ。でも、気にしないで下さいって」
「は、は…」
返事をしようとしたが、境は思わず笑ってしまった。直が書いてくれたのだろう。
「さて、」
点子の表情が険しくなる。
「この手、どうしたの? 制服もかなり埃だらけだけど」
「あー」
境は俯く。訊かれると思ったので、見せたくなかったのだが。
「その…ボーッとしてたから、階段から落ちて…」
「1人で落ちたの? 周りには誰もいなかった?」
「ええ…まあ…」
おぼろげに答えると、視線を外した。点子は息を吐くと、
「今の階段って、靴を履いているのね」
境に手の甲を見せる。うっすらと、靴の跡が、ついている。制服にも、靴底の模様が残っていた。
「う……そうなのかな…」
唇をキュッと締め、困ったように下を向く。
しばしの沈黙。
これはなかなか手強い。報復を恐れているのかしら。
点子は椅子から立ち上がり、棚から湿布を取り出した。
「同じクラスの途波マリアが心配してたわよ。あなたが、一部の生徒から嫌がらせを受けてるって」
"受けている"という断定だ。生徒の名前も聞いている。みんな承知しているのだろう。担任の大目に言った時も分かっているようだった。だか、邪魔臭そうに話を切り上げ、それで終わり。あいつは何もしない。
「はあ」
境は間の抜けた声を出すだけ。知られたくないのなら、否定するとか。もう少し、反応があってもよさそうなのに。
湿布を貼りながら、様子を伺う。何か、考え込んでいるようだ。
「骨は折れてないみたいだけど…。ちゃんと、病院行ってね」
境の手を軽く撫ぜる。まだ、痛むようで、すぐに手を引いた。
「どうだったか、また教えて」
「…はい」
ぼんやりと返事をする。
「ありがとうございました」とぺこりとお辞儀をし、ドアを、閉めた。
「ふーっ」
病院の報告と言っておけば、ここに来る口実になる。ただ、病院に行くかどうか。
「気が向いて、話に来てくれればいいんだけど」
点子は、PCの画面を前にした。自然と境の事が思い出され、また溜息を吐いてしまうのだ。
境は保健室を出て、湿布の貼った手を見る。スーッとした冷たさが、痛みを和らげているようだ。
「途波マリアって…」
誰だろう。考えながら、廊下を歩く。
クラスメートの顔も名前も、まともに覚えていない。はっきりしているのは、青山を始め、ほんの数人。境にとって、それどころではないのだ。
みな、もう下校したのだろう。遠くで部活の声はしているが、校舎の中は静かだ。誰もいない。
正面玄関を出ると、すぐの所に境のカバンがぽつんと置いてあった。それを怪我していない手で持ち上げる。教科書も入って、ずっしり重い。
境は後ろを振り向き、手を上げる。そして、校門へと歩き出した。
学校を出て、坂を下ろうとした時、誰かに呼び止められたような気がした。見ると、にっこりと笑いながら、1人の女子生徒が駆け寄ってきた。
「白川くん。今、帰り?」
「…うん」
頷きながらも、眉をひそめた。…誰だっけ?
「わたしも。他のクラスの子と喋ってたら、遅くなっちゃった。あっと言う間よねー」
と親しげに話しかけてくる。
その間も境はクラスメートの顔を思い浮かべていた。
日は傾き、辺りは赤く染まっている。彼女も夕日に照らされているからか。いつにも増して、輝いて見える。
「あの後、なんともない?」
「あの後?……!」
あ〜、思い出した。机を掃除している時に、ギリギリで登校してきた子だ。
「うん」
まだ気にかけていたのか。境は、少し驚いた。みんな、神経を尖らせ、触れないようにしている。配島も寄りつこうとしない。
もう、忘れていると思っていたが…。そう言えば、青山に時々、何か意見してたな。まあ、彼女なら仕方ないか。
「ねえ、その手。どうしたの?」
女子生徒は気遣うように、境の手を取る。
「ああ、これ。もう大丈夫だよ」
「ほんと?」
湿布をしていても、腫れているのがわかった。よく見ると、制服も汚れている。
「青山くんたちがやったんじゃない?」
「保健室にも行ったし、大したことないよ」
と笑みを浮かべる。
「保健室行ったの? 点子先生、何か言ってなかった?」
この言い方だと、相談したのは彼女なのか。と言うことは、途波マリアは彼女か。
しかし、矢継ぎ早に質問されて、閉口気味だ。
「ほんと、大丈夫」
この場は離れた方がいいな。「じゃ」と走り出そうとすると、
「待って!」
余りの必死さに、境は思わず足を止めた。
「毎日酷い目に遭って、辛いんじゃない? よかったら、話聞くよ」
心配そうに境を見る。
「あ、そうだ」
女子生徒は、カバンからスマホを取り出す。
「メール交換しよ」
境は笑いながら、
「スマホ、持ってないんだ」
と気にする風でもない。
壊されたって聞いたけど、本当だったのか。それとも、初めから持っていないのか。なんとなく、訊きそびれて
「そう…」
とカバンにしまった。スマホなら、面と向かって言いづらい事も話してもらえる、と思ったのだが。
「1人で我慢する事ないよ」
「うん、ありがとう。まあ、1人ってわけじゃないし。心配ないよ」
「でも……」
いくら本人が「いい」といっても、気になってしまう。
「わたしの家、教会なの。毎週日曜は集会してるし、いつでも出入り自由だから。今度、来て」
「あ〜。それでか」
境は納得したように頷き、女子生徒に微笑みかけた。
「え? なに?」
と怪訝そうに見返す。
「あ、いや。何でもないよ」
境はあたふたと手を振り、「それじゃ」と去っていった。
何か力になれば、いや、なりたいと思っていたのに。
「何とも思ってないのかしら」
夕日に向かって駆けていく境の背中は、影となり、光に溶け込んでいった。
教室はザワザワと騒がしい。後ろのロッカーから荷物を出したり、カバンを置いて、後ろや横と喋ったり。
教壇には大目が立ち、
「終礼、始めるぞ」
と言っても、座っているのは半分程。中には、早々に教室を後にしていた。
大目は気に留めることなく、ボソボソと話し、「はい、終わり」と切り上げる。生徒たちはダラダラと立ち上がった。
「おい、日直!」
大目は黒板に書いてある名前を見る。1人はとうに教室を出た後。もう1人は「用あっから。さいなら〜」と帰っていった。
「白川!」
一番頼みやすい奴に声を掛ける。
「理科準備室から、提出のノートを持ってきてくれ。カギも掛けとけよ」
そう言うと、"準備室"の札がついたカギを投げるように渡す。そして、返事も聞かずに行ってしまった。
境はカバンを机の上に置くと、カギを持って、準備室へと向かった。
ドアをノックして、中に入る。当然、誰もいない。ガランとした教室の真ん中にある台に、ノートが積まれていた。
「結構、あるなぁ」
2、3クラス分はあるだろうか。1人で持てるか。カギも閉めなければならないし、手もまだ、少し痛む。
「手伝ってもらうか」
両手でノートを抱え、そっと廊下を伺う。
「よし、誰もいないな」
準備室を出ると、素早くカギを掛ける。
境が歩き出すと、
「白川くん」
声をかけられ、ギクリとする。とノートを落とし、廊下にぶちまけた。
「あ、ごめんなさい」
見ると、あの女子生徒がノートを手に、謝っている。ノートには"途波マリア"と書いていた。
「やっぱり、君がそうだったんだ」
境は笑いかけ、ノートを拾い始めた。
「?」
疑問に思いながら、マリアもしゃがむ。
「提出、忘れてて…。その、急に声かけちゃって、ごめん」
とノートを一緒に拾う。
それにしても、可笑しい。境1人で、このノート全部持ってたっけ。…なんか変?
「いいよ。僕がするから」
「でも、これ全部、1人で持てないんじゃない? 手伝うよ」
「あ、いや。そんな事は…」
と焦りながら言う。
「あのね、さっき」
マリアが先程の違和感をぶつけようとした時、青山が駄弁りながら歩いてきた。境を見つけると、あからさまに顔を顰める。
「何、やってんだよ」
横にマリアがいるのを見て、ますます不機嫌になる。
なんで、こんなザコが、クラスで人気高めの女子と一緒にいるんだ?
マリアは分け隔てなく、みんなに平等だ。悪い言い方をすれば、八方美人。だが、間違っていることもズバッと指摘して、嫌味もない。困っていると、手を貸してくれる優しさもある。
だからこそ、青山も扱いに困るのだ。
「ちょうどいい所に来たわ。青山くんも手伝って」
今も屈託無く話しかけてくる。
「けっ。なんでオレが」
と境の持っているノートを足で蹴る。
「うわ」
集めたノートは、再び廊下へ。境ははずみで尻もちをついた。
「だめじゃない。みんなのノートなのよ。それに白川くんが怪我したら、どうするの」
そう言いながら、境が起き上がろうとするのを、手伝っている。
「なんだよ」
青山は、更にノートを蹴散らした。見てるとムカムカしてくる。心の蟠りが大きくなっていくようで、抑えられない。
「行くぞ。途波も来いよ」
「でも…」
マリアが戸惑っていると、
「大丈夫だよ。1人で出来るから」
境は、また、ノートを集めだした。
「ふん。こんな奴、放っておけ」
青山はマリアの手首を掴み、引っ張る。そのまま立ち上がり、よろよろとついて行くように歩き出す。
「あ、ちょっと」
戻ろうとすると、境がにこやかに手を上げ、そして、ノートを拾い出した。
「青山くん!」
マリアが呼んでも、ずんずんと前に進んで、廊下を曲がる。
「どうして、白川くんなの?」
青山はようやく足を止めた。
「わたしだって、白川くんを庇ってるんだから、イジメの対象でしょ。どうして、そんな事するの?」
「うっせーなー」
ぼそりと言うと、マリアの手を乱暴に放す。
「いじめてねーよ」
「だって、あんまりよ。スマホ壊したり、怪我させたり」
「オレがやったのか⁉︎ 証拠は!」
語気を荒げらる。肩をイカらせ、詰め寄った。マリアは怯まず、青山を見る。
「あなたが一番よく知ってる」
「へえー」
背中を反らせ、上から見下すように顎を上げる。威嚇するが、どうも上手くいかない。真っ直ぐな瞳で見られると、心が揺れるのだ。
ーやっぱり、こいつは苦手だ。
「試してんだ」
マリアは厳しさを崩し、目を見張る。
「試すって……」
「そう。だから、口出しすんな」
鼻を鳴らし、その場から去っていった。
青山たちが遠ざかると、マリアは元へと引き返す。あのノートの量だと、時間がかかる。境は手間取っているはずだ。
廊下を曲がる。
理科準備室の前には、何も、誰もいない。し〜んと静まり返っていた。
職員室のドアを閉め、境は息をついた。そして、教室へと向かう。校舎は静かだ。廊下には、境の足音だけが響いていた。
「ありがとう。助かったよ」
隣を見て笑いかける。
側からは、生徒が1人で歩いているだけ。誰もいないのに、何をやっているんだ。と首を傾げたくなるが…。
隣では、旧日本軍兵が「はっ」と敬礼していた。
境にはわかる。霊が見えるのだ。
物心ついた時には、もう見えていた。見えるだけではない。普通に話し、触れることも出来る。実体がない分、軽い感じだが、人間となんら変わりないのだ。
霊は人に気付かれないのをいいことに、いろいろな所に出没する。
「これが気掛かりだ」「心残りがある」というものが大半だ。そのうち忘れて、成仏したり、ただ浮遊するだけになる。状況に慣れ、人間を混乱させたり、いたずらを楽しんで、この世に残るものもいる。
しかし、思いが強いとその部分だけが誇張し、人に取り憑いたり、悪霊になってしまう。まあ、そういう霊は、滅多にいないが。
小さい頃は、見分けがつかなかった。お構いなしに話しかけてくる。家のものを使う。境にとって、それが当たり前だった。だが、母親にとっては不可解な行動。
何かを触るように手を動かしたり、急に笑い出したり。話せるようになると、喋り出す。
「何、1人で言ってんの?」
「誰もいないのよ」
母によく注意された。それが、段々と叱責へと変わっていった。
境は他の人と同じように接しているのに。何故怒られるのか。どうも腑に落ちない。
外出しても、誰彼なしに話しかけてくる。青い顔をして、具合悪そうにしている。それが、人間なのか、霊なのか。無邪気に話していると、
「またそんな事言ってるの!」
母がヒステリックに喚くのだ。
何度怒っても、境の態度は相変わらず。そのうち、外に放り出されるようになった。
夜だろうが、雨だろうが、関係ない。アパートの2階の端で、冬は風が吹きさらしだ。手も足も冷え、蹲って耐える。
中には親切な霊もいて、「さ、中に入んな」とカギを開けてくれる。が、勝手に家に入ると、叱られる。ただ、ドアの前で待つしかなかった。
もしかしたら、自分には見えて、母ー他の人にはわからない。そう思ったのは、保育園に通い始めてからだ。
分かってもらおうと説明したが、無理だった。"見えない" "誰もいない"と言われ、みんなから「変なやつ」と気味悪がられた。
先生にも、「1人でお喋りせず、お友だちと遊ぼうね」と幾度となく注意される。
母はますます神経質になり、とうとう外に出してもらえなくなった。保育園にも行けず、母が働きに出ている間、ずっと1人ー入れ替わり立ち代わり、霊が来るので退屈はしなかった。
母がいる時も、霊はウロウロしている。母の知り合いかな、と思う人もいたが、もし間違ってたら…。怒りを買いたくなかったので、境は、母の前では口を結び静かにしていた。
それはそれで、彼女の勘に障るらしく、いつも不機嫌だ。
ー何とかしなくては…でも、何をすれば良いのか。
母に訊けば、また怒られる。何もしなくても、八つ当たりされる。そんな時は、家にいる霊が教えてくれた。境はいつも、母の顔色を伺っていた。
その日、母は仏頂面で遅い夕飯の支度をしていた。境も黙って、手伝っていた。
ふと顔を上げると、血塗れの女性が立っている。一目で霊だとわかった。いつもなら無視するのだが、その女性は同じアパートに住んでいる。
境が外に出されていると、時折、深夜近くに帰ってくる。派手な格好に、濃い化粧。大概はお酒を飲んでいて、ご機嫌だ。境を見ると、手を振ったり、笑いかけてくれたり。そのうち、「寒いっしょ」と暖かい缶コーヒーを差し入れてくれた。
その女が、何故ここにいるのか。
境は手を止め、彼女を見た。いつものように、ゴージャスな毛皮は着ておらず、服には血がべっとり付いている。
髪を濡らし、土や枯葉もついている。顔は真っ白で、ぼーっと浮かび上がり、赤い唇を上げていた。笑っているのに、ひどく寂しそうで、心がズキンと痛い。
スーッと境に近くと、腰を屈め、耳元で囁いた。
母は異変に気付き、「また…」と舌打ちする。
「何やってるの!」
と持っていた皿を、テーブルにドンと置く。勢いで皿は割れ、中のおかずが溢れでた。
境はビクンと肩を震わせる。このまま、「なんでもない」と知らんぷりする事も出来るが、
「母さん! 大変なんだ」
叫ぶと同時に、家を飛び出した。
外はキーンと冷え、霙混じりの雪が降ってる。幹線道路を渡り、公園へと入った。
公園には、雑木林に小高い丘、鯉のいる池もある。境も保育園のみんなと訪れたことがあった。
土はぬかるんでいたが、その上を走って奥へと進んでいく。
彼女が何をしているのか。名前すらも知らない。ただ、寒くて1人震えていると、にこにこと笑って声をかけてくれた。
その彼女が囁いた言葉。
「ここは寒くてたまらないの。迎えに来て」
木が生い茂る草むらの隅。彼女は横たわっていた。胸に、数カ所刺された痕。死後3日経っていた。
追いかけてきた母が警察に電話し、夜中の公園は騒然とし始める。
母は警察の質問に、冷や汗をかいていた。
「雪を見に散歩してて、たまたま通りかかった」
という言い訳を、どうにか信じてもらえた。
遺体は担架に移られ、すっぽりと布を被せられる。境は運ばれていくのを、見ていた。運ばれてもなお、彼女はそこに立っていた。
同じように見送っている。
やがて、境の方を見ると、
「彼を怒らせたのは、私なの。だから、気にしないで」
笑みを浮かべた。前と同じ。物哀しげだが、ホッとした安心感がある。
「あ・り・が・と・う」
唇が、そう動いたように思えた。そして、手を振る。影が薄くなり、消えていった。
一段落つき、警察に解放されたのは早朝。
歩き出した母の後ろを、境は黙ってついていった。鼻をすすっているのは、寒いからか、泣いているのか…。いつものように、怒ったり、喚いたりしない。
家に帰らず、そのまま駅に向かう。
「母さん…」
声をかけるが、何も答えず歩いていく。
始発の電車は、人もまばらだ。外は暗いが、早々出勤するのだろう。サラリーマンらしき人もいた。
座席につき、母を見上げる。口を結び、ただ、前を向いてる。窓には、青白い顔が映っていた。
肩を突かれ、目を開ける。どうやら眠っていたらしい。駅を降りると、辺りは明るく、朝日に照らされていた。寝ぼけ眼で、手を引かれるまま歩いていく。
「ここで待ってて」
母は、そのまま、何処かへ行ってしまった。
古い町並み。瓦の屋根がある塀が続く。建物も瓦に、壁は漆喰。立派な樹木もある。鳥が囀り、清々しい空気。遠くで、車のエンジン音が聞こえた。
境は、後を追いかけるでもなく、軒下に座り込んだ。もう、母はここには来ない。彼女には、般若が憑いている。不安、怒りがつのり呼び寄せた。
ーそうさせたのは、僕だ。
「曹長殿」
日本兵は敬礼したまま、境に呼びかける。彼は横井。この学校の入試に来た時、場所を聞こうとうっかり声を掛けてしまった。
それをどう間違えたのか。中学校の制服は学ランだったし、襟に校章もつけていた。軍服、勲章に見えたのか。境を上官だと思っている。常に命令を待ち、境が困っているとすぐに飛んで来るのだ。
「僭越ながら、曹長殿は甘いのでは。だから、あんな輩をのさばらせるのです」
「ハ、ハ、ハ…そうだね」
一介の高校生に、上官らしいことはしてやらない。年も同じくらいだ。
横井は、学校になる前の軍事施設に入団。入ったばかりの時に、空襲をうけ亡くなったのだろう。
家族の期待を背負って、希望に満ちていた。何もせずに果てるのは、無念だったに違いない。堺と出会い、再び熱意を燃やしているのだ。
だが、今は平時。なくなった境の持ち物を探したり、ノート運びくらいしかない。それでも、横井は全力で取り組んでいる。いつか、大きな任務が回ってくると信じて…。
「横井くん」
「ハッ! 二等兵であります」
緊張した面持ちで、敬礼し直す。
境は息を吐き「横井二等兵」と言った。
「別にいいんだよ。わかってくれる」
不満げだが、口には出さず、背筋を伸ばしている。
「あー。その」
「なんだありますか」
境の言葉にすぐさま、返答する。
「いや、いいんだ。ご苦労。今日は解散」
「ハッ」
横井は後ろを向くと、駆け足で去り消えていった。
彼が空襲に遭わず、兵として軍に従事していたら、と考える。上級や古参の兵が、新兵にイジメや体罰を加えていたことはあったようだ。全ての軍隊がそうでないにしても、そうなると、今の情熱は無くなっていたかもしれない。
横井は、とうの昔に軍がなくなったことを、知っているのではないか。境が上官ではない、と気づいているのではないか。それなのに…ここに留まる理由があるのだろうか。
もし、彼が生きていたら、どんな人生を送って、何を思ったのだろう。
人で混み合い、ガチャガチャと騒がしい。青山は気にすることなく、ゲーム機のボタンを強く押していた。
「チッ」
気持ちがガリガリして、収まらない。
今までは思い通りだった。強制的にそうしてきた。それが、高校に入ってからはどうだ。
「くそっ! どいつも、こいつも」
ゲーム機でさえ"GAMEOVER"と舌を出す。青山はさらに乱暴に叩いた。
「おい、青山」
仲間に呼ばれ、顔を向ける。横には、黒メガネをかけた、冴えない店員。
「あの〜、お客様。そういったことは…」
冷や汗をかき、及び腰だ。青山に睨まれ、ますますたじろぐ。
青山はかばんを引っ掴むと、無言で立ち去った。その後を、数人が追いかける。
ファストフード店に入っても、不機嫌なままだ。
「そう思うだろ、青山」
気を使って話を振るが、「あぁ」と返事のみ。会話に混じることもなく、ブスッとしている。
「何、怒ってんだ?」
放っておけなくて、1人がこっそり訊く。
「途波だろ」
「白川、構うから。面白くねーんじゃねーの?」
ボソボソと喋っていると、
「聞こえてんぞー」
高圧的な青山の低い声に、顔を強張らせる。
「気にすることないって」
と愛想笑いを浮かべた。
「あーゆー女子って、庇ってる私って優しい。みたいな感じじゃねーの?」
「一回、ガツンとやってやりゃーいいんだよ」
下品に笑い出す。
「白川も、さすがに凹むんじゃねー」
「なんでだよ」
青山が興味深かげに、話に入ってきた。
「あいつら、付き合ってんじゃねーか。こないだ、手ーつないで、帰ってたぜ」
ヒヒヒと薄ら笑う。
青山は見る間に、表情を険しくした。
「ほんとかよ!」
「…あ…あぁ…」
思ってもない怒りに、焦りながら答える。
「前に忘れ物取りに行った時に、ちょっと見ただけだよ。今日も一緒だったし、仲いいのかなぁーって」
バ ン‼︎
言い終わらないうちに、青山はテーブルを叩き、立ち上がる。
ーなんで、あんな奴に…。
「気に入らねー」
再び、ドカッと座る。
どうしょうもないイライラを抑える為か。紙コップを手に、ストローをくわえた。というよりかは、ギシギシと噛んだ。
「やっぱ、ガツンと。な?」
1人が同意を求める。
「そうだなぁ」
青山が唇を上げ、ニヤリと笑う。知らずと手に力が入り、紙コップがグシャグシャと崩れていく。
「それがいい。二度と立ち直れなくしてやる」
紙コップをタン!と置き、テーブルに身を乗り出す。仲間たちも顔を寄せてきた。程なくして、店内に大きな笑い声が響き渡った。
教室に入って来たものは、一瞬、足を止める。いつもなら遅刻なのに…。青山たちがいる。
こんな朝早くから、何かある。と気にしながらも、無関心を装っていた。
「来た、来た」
1人が笑いながら、窓から離れる。
「よお、白川」
教室に入ってきた境に、手を上げる。青山が親しげに声をかけた。教室の皆はギクリとする。が、表には出さず、何でもないフリをしていた。
「…あ、おはよ」
考えてから、答える。そのまま席に着こうとすると、
「ちょっと、こっち来い。あのさー、おまえさー」
ニヤニヤしながら、肩を組む。そして、愚にもならない事を言い始めた。
マリアも登校してくると、
「あら、仲良くなったのね」
と嬉しそうに声をかけた。青山たちはヘラヘラと笑ってるだけ。
境は青山に微笑みかける。何か、企んでいる…?
「これで、気がすむかな」
青山は、ハッとして何か言おうとしたが、チャイムにかき消された。
騒ついた教室に、大目が入ってきた。席に座る者もいれば、青山たちのように机に座ったり、その場に留まったり。大目は構わず、朝礼を始める。
境もイスを引き、席に着いた。机の引き出しに教科書を入れようとするが、何かにつっかえる。
「ん?」
手を入れると、固いプラスチック。四角くうすい。引っ張り出すと同時に、バラバラと音を立てて、床に落ちた。
DVDのケースが数個。ケースカバーには、ほぼ何も身につけていないお姉さんが、セクシーなポーズをとっている。
ーこれは……。
「シ、シ、シ、シ」
青山たちは笑いを押し殺す。周りはギョッとし、女子たちは
「きゃー、何? 信じられない」
「やらしい」とヒソヒソし始める。
大目が騒ぎに気づき、白川に近づく。足元のDVDを見つけると、目を剥いた。
「なんだ! これは!」
血相を変え、怒鳴る。
「あー、いえ…そのー」
境は乾いた笑いを浮かべた。
「これはなんだ。と聞いとるんだ!」
どうも今の生徒は、問題ばかり起こす。学校では、勉強しとけばいいんだ。大目の怒りは、ピークに達していた。
境は青山の方を見る。笑ってるのは周りだけ。何やら、考え込んでいた。いや、訴えているのか…。
境は覚悟を決めた。
「その…思春期の男の子なら、こういうのもあったりするのかな…と…」
ダ ー ン ‼︎
瞬間湯沸かし器のごとく、大目は顔を真っ赤にした。
「何を考えとるんだ! おまえは!」
叱声は教室を駆け抜け、廊下に響き渡った。
俯き加減に直の背中を追う。正午近くの道路には、車が通るものの、人影はほとんどない。その中を、2人、列になってトボトボと坂を下りていく。
大目はDVDを拾うと、境の腕をきつく掴む。引き摺られるように、校長室へと放り込まれた。
校長や赤井に今までの経緯を説明していても、怒りは収まらず。ギャンギャンと喚き散らしていた。
校長は聞いているのか、いないのか。ただ、汗を拭くばかり。赤井が、境の座っている椅子の横に立つ。
「白川が持ってきた訳じゃないんだろ?」
青山が絡んでいることは明らかだ。じっくり聞いてやれば、本当の事を話してくれるかもしれない。
「まあ…」
境が頷くと、
「じゃ、誰なんだ! え!?」
すかさず、がなり立てられ、境は下を向く。
「こいつの机にあったんだ! こいつだ!」
大目は烈火のごとく、怒り出す。
校長では、どうにも押さえられず。結局、保護者を呼んで謝ってもらい、停学3日で大目は納得した。
「処分が重たくないですか、校長。言ってみれば、不要な物を学校に持ってきたってもんでしょう」
まあ、モノはともかく、注意だけで済む問題だ。
「いや、いや。まぁ、まぁ」
校長も同感だが、これ以上大目に暴れられたら、それこそ問題だ。当の生徒が休めば、頭も冷えるだろう。
「白川。停学終わったら、ちゃんと学校に来いよ」
赤井が心配気に言うと、境はペコリと頭を下げた。
校長室を出てからも、直は何も言わなかった。
「まずいぞ、これは」
境は黙って頷く。話しているのは白川罫太郎。直の曽祖父だ。もちろん、もう生きていない。守護霊となって、直についているのだ。
守護霊がいない者も多い。祖父母が亡くなると、途中でついてくれたり、親戚や知人の場合もある。一件、関係のないような霊もいる。が、何かしら因果があるものだ。
途波マリアの守護霊は、青い瞳の修道女だ。彼女元来の性格もあり、どこへ行っても周りに愛を与え、誰からも好かれるだろう。
「いやはや。いやはや」
直の守護霊なのだから、心配なのだろう。
「お寺の息子があんなハレンチなことをしては、直も非難されかねない」
境は、拳を握りしめる。全くその通りだ。何故、そういう考えに至らなかったんだろう。
「非常にまずい」
罫太郎はヒゲを撫ぜながら、難しい顔をしていた。
軒下に座っていた境は、霊たちに囲まれていた。母に置いていかれたのもショックだが、怒りや不安で母が母でなくなってしまうのではないか。どうにも苦しくて、辛くて…離れれば、もう怒らなくて済むかな。
霊は悲しみにつけ込んでくる。
「自分だけ、なんで不幸にならなきゃいけないんだ?」
「オレたちがついてるって。何やってもいいよ」
「もっと楽しくやろうぜ」
1人になって、これからどうすればいいんだろう。境はこの霊たちに頼ってもいいかな、と思っていた。
「おぉ、貴様ら。勝手な事するな!」
口ひげを蓄えてた老人が、一喝する。集まっていた霊たちは、散々に消えていった。と同時に、木々に止まっていた鳥たちが、一斉に飛び立つ。
奥の建物から、眼鏡に作務衣姿の若い男性が出てきた。上を見上げて、キョロキョロしている。
「何をやっておるのじゃ」
老人はもどかしそうに、若い男性を引っ張ってきた。で、ようやく境に気付く。
「1人?」
「ここで、何してるんだい?」
「どこから来たのかなぁ」
いろいろと質問するが、境は黙ったまま。
「俺は白川直。この寺の住職なんだ。って、なったばっかなんだけど」
境は上目遣いに直を見る。細い目をさらに細め、微笑んでいる。果たして、この人はどっちなんだろう。
「わしは白川罫太郎だ。こいつの守護霊をしてある」
老人はそう言うと、直の背中を軽く叩いた。が、彼は全く気にしていない。
「僕は……」
その後が続かない。
一体誰なんだろう。ーみんなに見えないものが見え、気味悪がられ、母親にも見限られて…
「僕は、いない方がいい」
口から出してしまうと、それを埋めるかのように、感情が溢れ出す。それが涙となって、次から次へと流れた。
「寒いから、取り敢えず、中に入ろ」
直は優しく話しかけると、境を立たせた。腰に下げていた手拭いで、涙をぬぐう。
「さあ」
と境の手を握る。直の手は、大きくて暖かだった。
此地寺は、棟門に両側は塀で囲まれている。境内には、仏像を祀っている本堂と住居となる庫裏。庭には、数本の樹木がある。
辺りも、何代も続く老舗や古民家が多い。
白川罫太郎は医者であった。此地寺の跡継ぎがなく、次男で直の祖父に話が回ってきた。祖父ー父ーそして直と、3代住職を務めている。此地寺としては、8代目だ。
直が高校生の時に母親が、そして父親と、相次いで亡くなった。兄弟もおらず、身内も皆無。そこに境が現れた。
罫太郎は直が1人で、心配していた。子供とはいえ、境がいるので一先ず安心だ。しかも、会話もできる。
直も、小さい頃はそうだった。曽祖父は、古ぼけた写真でしか見たことがない。しかし、存在は感じる事ができた。他の霊の気配もわかっていた。人との関わりが増えるにつれ、それも薄れていったが、今でも、わかる時はある。
「いいか、境」
直はしゃがむと、境の瞳を見据える。
「今は辛いかもしれない。これからも嫌な事があるかもしれない。だか、おまえはここにいる。そして、俺と会った。これは何かの縁かもしれないな」
境も直をジッと見ていた。
「霊がわかるというのも、縁かもしれない。その縁を大事にするんだ」
こっくりと頷くと、直は目を細めた。
「俺もこの縁を大事にする。境と出会えてよかったよ」
直のためにも"普通"であろうと、常に気を配った。だが、一度「皆と違う」と思われると、線を引かれ、向こう側へと追いやられる。
そこで、境は何もしない。わかっても無視する。という選択をした。そう決めたのに、どうも放っておけない。
「困ったものだ」
罫太郎は宙を仰ぐ。腕を組み、指を神経質にトントンと動かしている。
もうすぐ坂が終わる。下って最初の角を曲がれば、此地寺だ。
「お前がやった訳じゃなかろ。直はわしがなんとかしよう」
「ごめんなさい…」
境は立ち止まる。直も足を止めて、振り向いた。
「俺も気にしていない、と言えば嘘になる。質問も山程あるが、どうだ?」
と顔を覗き込んだ。
「僕は……」
境は拳を握りしめ、肩を震わせている。どう返答すればよいのか。
「ふーっ」
直は息を吐くと、
「話したくなければ、今でなくていい。そのうち、ちゃんと説明してくれよ」
「ごめんなさい」
境は堪えながら、声を絞り出す。
「しかし、この年になって、また学校に行くとはな。しかも、校長室だ。入るのは、初めてだよ。おまえのお陰だな」
直は愉快そうに笑う。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
境の目から、涙が頬を伝う。ただ、繰り返し謝る事しか出来なかった。
「もういい。泣くな」
と力強く、肩に手を置く。大きくて暖かな手。
「昼メシでも食いに行こう」
境は声が出す、頷くのが精一杯だった。
はしゃぎながら、廊下を走っていく。食堂へと向かい、ワイワイと列に並ぶ。教室では、お弁当を広げている。1人でいたり、後ろの人と喋りながら、机をくっつけたり。
昼休みの一時を楽しんでいる。
境は校舎の最上階の窓に、肘をかけていた。後ろには上がり階段があり、屋上へと続く。が、途中で扉が作られ、カギが掛けられている。
停学後の学校は、入学式以上に緊張した。
境の姿を見ると、生徒たちが顔をくっつけて話し始める。あからさまに、避けて通るものもいた。
どうやら、SNSで広まったらしい。教師が気付いて、すぐに削除されたが、すでに皆に知られていた後だ。
境はSNSをやらないので、そこに何が書き込まれていたのか知らない。まあ、どうせ碌なもんじゃない。皆の態度を見れば分かる。知りたいとも、思わなかった。もっと、大事なことがある。
2組は違っていた。誰がやったのか、明白だ。だが、境には何も言わなかったし、何もしなかった。以前のように、無視するなとは違い、様子を伺っている。
青山も、絡んだらしない。周りの取り巻きも手を出さなかった。
教室は静かなもので、皆もなんとなく小声で話している。
変わったのは、クラスの雰囲気だけでない。もう1人…1人と言うべきか。
窓の外を眺める境の後ろに、すっと影のように現れる。
「話す気になってくれたんだね」
境が振り向くと、同じ制服の男子生徒が立っていた。今どきという感じではなく、昔の流行りという格好。気まずそうにモジモジしている。
「僕が今までされた事は、君がされた事だ」
男子生徒は、首を縦に振る。
「それが耐えられなくなって、この屋上から飛び降りた」
境は、人差し指で上を指した。
「でも、どうして?」
いじめられる辛さは、知っているはずだ。
「誰かに分かって欲しかった。気付いて欲しかったんだ」
縦野路人が目をつけられたのは、入学して間もなくだった。
「中学校の時はお調子者で、結構友達もいたんだ。でも、高校では通じなかったんだろうなあ」
"いい気になってる" "なんかムカつく"で、いじめられ始めた。
殴られ、蹴られ、暴言を吐かれ。やられた方は、これでもかと追い詰められる。やってる奴は、楽しみの1つに過ぎない。それ以外の奴は、見て見ぬフリ。
先生も当たり障りのない事しか言わない。両親は「やり返せ」と檄を飛ばす。
2学期の始業式。ー限界だった。
「ぼくが死んでも、その時だけ。時が経つと、みな忘れてしまった」
ちっとも変わらない。屋上が立入禁止になっだけだ。そして、同じ事の繰り返し。違うやつらで続いていく。
「青山には、手伝ってもらっただけ」
上に立ちたい。他よりも優位になりたい。そう願ってる奴をちょっと刺激すると、すぐに順位をつけたがる。自分が上位であるために、あの手この手を使うのだ。
「でも…」
そうすると、いつも心が落ち着かない。…どうすればいい?
いい加減、やめた方がいいよな。気づいてくれた時に、やめればよかった」
結局、やってることは、自分を死に死に追いやった事と変わらない。
青山に路人が憑いているのは、見えていた。霊が人に憑くのは、何かしら理由がある。青山が面白がっているのに、路人はちっとも楽しくなさそうで、それがひどく気になった。
「気が済んだよ」
路人は境に微笑むが、すぐに眉をしかめた。
「でも、君の立場が悪くなっちゃって…」
「あぁ。今日、学校に来るのに、ものすごく勇気がいった」
と境は笑いかける。
「そんなつもりじゃなかったんだ」
路人は泣き出しそうになりながら、呟く。
「知ってるよ。大丈夫」
境は窓の外に目を向ける。
「君と話したかったから、学校に来ることが出来た」
空は晴れ渡り、雲ひとつない。マンションや家々の屋根は太陽の光をはね返し、キラキラと輝いていた。遠く霞んだ海の青、そして空が溶け込んでる。
「君が最後に見た景色は、どんなだっただろうな…」
嫌な思いしかない学校。最後くらいいいものなら…そう思うと自然と口にしていた。
「うん」
よく覚えている。
今は立入禁止の屋上のヘリに立った時。その日は、今日のように、気持ちくらい晴れていた。ぐるりと街を見渡し「結構広いんだ」と思った。上を見上げ「空は青いんだ」と改めて思った。
中学校の友達。親戚や近所の人たち。そして、お父さん、お母さん。次々と浮かんできた。意識することなく、一歩を踏み出す。地面に横たわる自分。これで終わった。終わったと思った。
「悔しかったんだ」
これで終わらせるのは、悔しかった。だから、みんなを試してきた。
「白川、君に気付かされたよ」
「じゃあ、もう十分だよな」
「うん」
路人は、大きく返事をする。
「あの時、君がいてくれたら、違ってただろうな」
いじめる奴、ただ見てる奴、恨んだりもした。だが、それは違う。恨んでいるのだから、嫌われても仕方ない。
境は何をしても、恨まなかった。青山ーその後ろにいる路人が、心を開くまで待っていてくれた。
「なあ、白川。友だちにならないか」
境はびっくりして、目を見張る。
「オレさ。高校に入って、友だちいないんだ。白川が友だちならいいな」
「……え!?」
呆気に取られる境をよそに、
「よろしくな」
と路人は手を握って、「んじゃ」と消えていった。境は握られた手を見る。
「友だちか…」
学校では、線のあちらでずっと1人だった。路人は「高校に入って」と言っていたが、
「僕にとっては、初めての友だちだな」
境はふと微笑み、空を見上げた。
「ピンクシャツデー」はイジメ反対の日です。2007年、カナダの学校でピンクのシャツを着てきた男子生徒が、クラスメートにイジメられたことから、始まります。そして、今、世界各国で運動が行われています。
その前にもイジメはあったし、今も何ら変わりはないのかな。
最後まで読んでいただき、感謝。何か心に残るものがあれば、これ幸いです。