55 それは、月の明るい夜でした。
居ないはずの、来れないはずの魔王は、何食わぬ顔で窓の縁から降りてくる。
そのまま縁に腰を下ろして、床にへたり込んだ私を優しく見下ろした。
「なんで、どうやって……?」
「ルディアが呼んだからだ。呼ばれたのなら、行くだろう」
そんなに簡単なことなのだろうか。
この国では魔法は使えないのだというのに、呼んだだけでここまで来られるなんて。
考えていたら、魔王が静かに口を開いた。
「ルディア、お主にはここで人と暮らす道もある。我と共にいれば、お主は人ではなくなるだろう。人の寿命を超え、人の力を超え、人としての在り方を無くして、我に近しいものになる日がいずれ来る。
それでも、また我と旅をするか?」
選んでいいのだと、魔王の声色が告げていた。
初めて聞いたその話が嘘ではないのだと、このままでは、私は人ではなくなるのだと。
認識はした。理解もした。だからこそ言おう。それが、どうした。
「ベルディがいいわ。私、貴方と旅がしたいの。他の誰でもなく、ベルディがいい。私が何になったとしても、別に構わないわ」
「そうか。……そうか。なら、行こう」
差し出された手に、迷うことなく自分の手を重ねる。
床に座り込んでいた私をいつものように軽々と抱えた魔王は、落ちていた私の魔杖も拾って窓の縁に足をかける。
窓から外に出ようとしたところで、扉が開いて複数の足音が駆け込んできた。
無視するかと思ったけれど、魔王は相手をしていくつもりらしい。
振り返って、私をここに連れてきた男に向き直る。
「貴様、どうやって……!」
「何事にも抜け道はあるという事だ、若造」
「……ベーゼルの姫君。貴女は人だ、人として生きるべきだ」
「だとしても、私はこの人と行きたいの。ここじゃあ食事の味も分からないわ」
旅をしていて楽しかったことはとても多いけれど、その中でも私の記憶に強く残っているのは景色と食事だ。
大きな楽しみでもあったその国の料理を楽しむ、という行為がここではきっと出来ない。
息が詰まって、身体が重くて、何の味も感じない。
それが人として生きるという事なら私はどうしたってここを出るだろう。
一度自由な世界を知ってしまったら、塔の上の小部屋にはもう戻れないのだ。
「ではな。もう二度と会うことは無かろう」
「待て!」
制止の声は無視して、今度こそ窓から外に出た。
普段はそのまま飛んでいくのだけれど、やはりここでは魔法は使えないのか飛ばずに地上を行くらしい。
「……ベルディ、足が凄く早かったのね」
「ここでは魔法が使えんからな。脱出用に筋力を上げておいた」
「そんなことが出来るの?」
「神故な」
神様だから出来ることらしい。
そうなると、やっぱり私の所に来れた理由が分からない。
もう一度聞いたら教えてくれるだろうか。
そんなことを考えながらベルディを見上げると、口を閉じておけと言われる。
言われた通り口を閉じて前を見ると、目の前に城壁が迫ってきていた。
どうするのだろうと不思議に思ったけれど、魔王は走ってきた勢いのまま一息に城門を飛び越える。
城門を超えて国を出るのと同時にいつものように宙に浮き、少し進んでから地上に降りた。
地面に降ろされるかと思ったけれど、まだ抱えたままのようだ。
「……リリア」
「はーい。ここに居りますよ魔王様」
「足止めをしておけ。殺すな」
「あらあら……久々に舞踏会が開けるかと思いましたのに。でもまあ、魔王様のご命令とあらば従いましょうとも。捕らえてそのまま逃がせばいいんですのね?」
キャッチアンドリリース、です!と元気よく拳を突き上げたリリアさんを残して魔王は再び空に上がった。
このままどこかへ行くらしい。
「リリアさんは、あそこで何をするの?」
「追っ手の足止めだ。リリアは夢の中に人を閉じ込められるからな」
「そうなの……舞踏会って?」
「リリアの悪癖だ」
「あくへき……」
あまり深く聞かない方がいいのかもしれない。
そのうち教えて貰えるだろうか、と考えながら前を見ると、いつの間にか海に出ていた。
「これからどこへ行くの?」
「ひとまずは島まで行く。その後のことは、着いてから考えよう」
それなりに長い時間移動することになるから、眠ければ寝ておけと言われて、そういえばまともに寝れていないことに気が付いた。
魔王に抱えられているから、飛んでいるのだという事を忘れてしまいそうなくらい安定感があるし、少し寝ておいてもいいかもしれない。
なんて考えている間に、いつの間にか眠ってしまっていたのか気が付けば見覚えのある景色が広がっていた。
魔王を見上げると、私が起きたことに気付いたのかこちらを見てふっと笑う。
「もう着くぞ」
「そうなのね。確かに見覚えがあるわ」
そう返事をした時には、既に島に到着していてそっと地面に降ろされる。
家の中からベルさんが出て来て、魔王にお辞儀をしてから扉を抑えて中に招き入れてくれた。
中からは甘い香りが漂ってきて、なんだか急にお腹が空いてくる。
「リリアももうすぐ戻ってくるそうです」
「そうか」
椅子に座り、差し出されたお茶を飲む。
リリアさんがいつも出してくれる、ほんのり甘いお茶の味が口の中に広がった。
ほうっと息を吐いてカップを置いたら、今度は焼き菓子を差し出された。それを手に取りつつ、魔王の方を向く。
「ねえ、ベルディ。どうやって私の所に来たのかは教えてくれないの?」
「いや、今は時間があるからな。宝石に魔法陣を刻んだだろう。あれが発動したのだ」
「魔法は使えない国なのに……?」
「それでも発動するように作った故な。発動の条件は、我がルディアの元へ行けない時にルディアがその宝石を持って我を呼ぶ事だ。条件を限定した分、発動は確実なものになる」
「だから、呼んだから来た、って言ったのね」
「ああ」
私の持っている宝石には転移場所を固定する陣が書いてあり、魔王が持っている物に転移の陣を書いてあるんだそうだ。
普通は出来ることではなく、魔王だから出来たのだとベルさんが教えてくれた。
そんな話をしていると、家の扉が開いてリリアさんが入ってきた。
私が焼き菓子を頬張っているのを見てにっこりと笑い、魔王の前に膝をつく。
「ご命令通り、誰一人殺さずに国内に送り返してまいりました。ここには来られないかと」
「ああ、よくやった」
「さてさて、報告は終わりましたので今度はルディア様のお話を聞かせてくださいね!」
「リリア、やめなさい」
「あらいいじゃないベルちゃん。私たちに関りがないわけじゃないんだし」
報告を終えると同時に立ち上がったリリアさんは、楽し気に開いている椅子に座る。
そしてニコニコと私と魔王を見比べ始めた。
その様子を見てため息を吐いたベルさんは、止めることを諦めたのかキッチンの方に去って行く。
「ルディア様は魔王様と共にいることにしたんですよね」
「ええ。ベルディと一緒じゃないと楽しくないんだもの」
「姿が変わっても、魂の在り方が変化しても?」
「私は別に気にならないわ」
「うん、うん!それはつまり、婚姻の儀をなさるという事ですね!」
「こんいん?」
目をキラキラと輝かせているリリアさんの言葉の意味が分からず魔王を見ると、魔王は持っていたカップを置いてこちらを見た。
そして、何か少し考えてから口を開く。
「夫婦になる、という事だな。人の言う婚姻は、同意のもとに結婚して法的にも夫婦になる事を言う。魔族が言う婚姻は、死するときを共にするという事だ」
「死するときを……」
「ええ!生ける時を共にあろう。死などに我らを引き裂かせはせぬ。という誓いです」
「魔族にとっては自らの命と相手の命を紐付けてでも共にあるという最大の誓いになる。が、我にとっては……そうだな。魔神の妃として、神の席の末端に存在を引き上げるという事になるだろう」
意味合いの違いが結構あるようだ。
私としてはそんなに色んな意味があるのか、と思うだけなのだけれど、リリアさんとベルさんが何やら顔を見合わせている。
「魔王様にその気があるのならいいのでは?」
「いやだが、そんなに気軽に……」
「……ルディア、異世界に行ってみる気はあるか?」
「異世界?」
「ほらベルちゃん、魔王様も乗り気だよ」
「……まあ、私たちが口を出すことではないか……」
ベルさんとリリアさんは何か話しているけれど、魔王は気にしていないらしい。
私も、気にしている余裕はなかった。
「別の世界があるの?」
「ああ。本来は知り得ないことであり、知り得たとしても行くことは出来ないが我は神故な。いくつかの世界には座を持っている」
「私も、行けるの?」
「神の座は末席程度なら容易に増やせる」
「魔王様ー、婚姻の事その程度に思っていらっしゃるんです?」
「その程度、ではない。少なくとも我はその席を作ろうなどと思った事はなかったぞ」
「あーなるほどルディア様が特別だと。うん、納得です。納得したので黙って聞いてますね」
そっと後ろに下がったリリアさんは、ベルさんの手を取って穏やかな笑顔でこちらを見ていた。
これは、つまり私の返事次第で私が神の末席に座ることになるという事だろうか。
そう考えるとちょっと頷きづらいけれど、そうすれば魔王と見たことも無い場所に行けるのだとすると難しい事は考えなくてもいいかな、なんて思ったりもする。
「行きたいわ。見たことも無い世界」
「ならば決まりだな。準備に少し時間がかかるが、ここならば安全だ」
「どんなところに行くの?」
「比較的安全な所を見繕っておこう。魔法の練習も出来るだろう」
そう言って、魔王が始めた準備は数日後に終わった。
初めて聞いた話なのだけれど、魔王は月が輝く夜の方が力が増すらしい。
そんなわけで私が魔神の妃として魂の在り方を変える儀式は満月の夜に行われ、そのままの勢いで異世界に出かけることになった。
魔王が言うには、その世界を一通り探索して戻ってくる頃にはこの世界の時間は大分流れて、ベーゼルの忌み子は過去のものになっているから、何に怯えることも邪魔されることも無く世界中を見て回れるようになるんだとか。
「まずはどんなところに行くの?」
「そうだな、雲の海でも見に行くか」
魔王に抱えられて、真っ暗な闇の中を進む。
ここが世界と世界の狭間らしい。
次に光が見えた時、そこは全く知らない世界だった。
次回最終回とか前回のあとがきで言ったせいで切るに切れず今までの二倍の長さになりました。
計画性のなさがにじみ出ていますね。
まあでもとりあえず、これにて完結となります。
最終的に異世界に遊びに行くのは結構初期に決めていたことな気がするので、自分的にはこれで満足です。
そんなわけで約三年間ダラダラダラダラ書いていたこの話もここで終わりです。
ここまで読んでいただいた方、お付き合いいただきありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけたなら幸いでございます。
では、またどこかでお会いできることを願って。瓶覗でした。




