02 それは、とても美しく広大でした。
魔王に抱えられて、初めて塔の外に出て。
城の者達は気づいていないのか追っ手はなかった。
月が眩しくて、明るくて。
星がこんなに多いことを初めて知った。
「きれい」
「まだまだあるぞ。我の目には万を超えて見えておる」
「そんなにあるの?」
「ああ。宙は広いからな」
城から飛んで、城下町を見下ろして、進んでいるうちに森についた。
ここがどこなのかは分からない。なにせ、塔から出るのは初めてだ。
降ろされて、初めて土を踏んだ。
柔らかな土の感触を足裏に感じて、その場で足踏みする。
魔王はそれを見ていたが、しばらくして手招きした。
ついて行くと泉がある。
「ここで夜を明かすぞ。お主は寝なければいけまい」
「そう、ね。寝るわ」
木の根元に腰かけた魔王が、もう一度手招きする。
近づくと、何が起こったか分からないうちに横になっていた。
頭は魔王の足の上にあるようだ。
「人の身で地で寝るのは辛いからな。我の魔力で少しだけ和らげてやる」
「あ、りがとう?」
「うむ」
外に出た興奮からか、あまり眠気は感じなかった。それでも目を閉じれば頭の上から魔王の声が聞こえてくる。
少し低い声。その声が紡ぐのは、子守歌のようだ。
初めて聞くそれは耳に優しく、居なかったはずの眠気がやってくる。
そういえば、寝る直前で連れ出されたのだ。
眠くないはずはなく、抗うことなく意識を落とす。
優しい歌声が響いて、いつもより安らかな眠りだった。
日の光で目が覚めた。
身体を起こすと、魔王は夜と同じ体制でそこに居た。
「起きたか」
「ええ……」
「おはよう」
「おはよう……」
言葉を返して伸びをして、深呼吸すると森の香りが入ってくる。
初めての、さわやかな朝だ。
朝日に目を慣らそうとしていると、魔王が急に声を上げる。
「そう、そうだ、お主の名は?」
「え、名前?」
「ああ。これから旅をするのに、名が分からなくては不便だろう」
「名は、ないわ」
私は忌み子だ。名など付けられることはない。
つけたとして、一度も呼ばれないなら意味はないだろう。
「では、そうだな……ルディア。ルディアと呼ぶことにする」
「ルディア?」
「嫌か?」
「いいえ……自分に名があるのは、不思議なだけ」
悪い気は、しなかった。
自分を示す呼び名が、忌み子以外にあるというのは慣れないが、悪い気はしない。
「それとな、ルディア。その服では旅は出来まい。旅装束を作った故、着替えるといい」
「作ったの?」
「うむ」
「作れるの?」
「魔王故な。……着替えに手助けは居るか?」
「……そうね。初めて着る服だわ」
「そうか」
魔王は、パンッと手を叩いた。
少しして、木の陰から女の人が出てくる。
メイド服を着た、背の高い角の生えた人。
「お呼びですか?」
「その者の着替えを手伝ってくれ」
「かしこまりました」
背は高いが、魔王よりは低いらしい。
その人は私用であろう服を魔王から受けとり、私に振り返る。
「失礼いたします」
「え、ええ」
そのメイドは私のドレスを素早く脱がし、旅装束を手に取る。
そして、少しゆっくり着せる。
私が覚えられるように、だろうか。
着替えはそう時間もかからず終わり、メイドは魔王に声をかける。
魔王は泉の方で何かをしていたが、メイドに呼ばれて振り返った。
そしてメイドに何か言う。
メイドは魔王に礼をしてから去って行った。
「あの人は、魔族?」
「ああ。有能な部下だ」
「そう……」
「きつくはないか?」
「平気よ」
「そうか。ならば行こう」
魔王が手招きする。
近づきながら、靴を履くのも初めてであることに気付いた。
魔王に抱えられ、森を上に抜けて、眼下に広がるのは一面の緑。
「わあ……」
「ここは緑が深いが、赤や黄色に染まる木もあるぞ」
「そうなの?」
「ああ。そのうち見に行こう」
魔王は話しながら進む。
羽もないのに、空中を歩くように進む。
私の重さなど無いように。魔王に重さなど無いように。
「どこに行くの?」
「まずは、隣国に向かう」
「隣国」
「ああ。だがその前に、1つ見ていこう」
魔王は楽しそうに言って、速度を上げた。
途中食事にとパンを渡され、落とさぬよう気をつけながら食べる。
魔王に抱えられているので何をすることもなく、ただ通り過ぎる景色を目で追った。
「見えたぞ!」
「え?」
「向こうだ」
魔王が指す方向を見ると、広く青いものが広がっている。
それは白いものを混ぜ、光でキラキラと輝いていた。
「あれは、なに?」
「海だ」
「うみ」
「ああ。巨大な塩水のたまり場だ」
「終わりが見えないわ」
「終わりまで行くとな、世界の反対に出るのだ」
「……どうなっているの?」
「この塩水にな、世界が浮かんでいるのだ」
言われても、よく分からなかった。
だが、広がるそれは美しく、ずっと見ていられる気がした。
魔王は「うみ」の近くに降りた。
「触れてみるか?」
促され、その塩水に触れる。
思ったよりも冷たく、驚いて手を引っ込めた。
「はっはは。どうだ?」
「冷たいわ」
「そうか。海は広いからな。海にも、色々な景色があるのだ」
「青だけじゃないの?」
「ああ。緑もあるぞ」
得意げに言う魔王を見つつ、もう一度手を入れる。
恐る恐る触れているうちに楽しくなって、そこで昼まで居た。
突然発生する白いものは波というのだと。この地面は砂というのだと。
おそらく、幼子でも知っているのであろうことを教わった。
始まったばかりの旅は、もうすでに知らないもので溢れていた。