始まる関係
彼と奥さんの本当の事情を知ることになったのは、彼がうちに来るようになって3ヶ月を過ぎた頃だった。
どれだけ冷めた家庭だと聞かされても、彼は休日には私の家には来ない。
その事実を目の当たりにしても、私はどこかでそれを認めたく無くて自分に都合の良いことを思って慰めていた。
朝、海人が来るようになってから私は彼に一本の合鍵を渡した。
それを見て驚きと嬉かが混じった顔をしたのを今も忘れない。照れた顔をしていつも持っている
バックの内ポケットに大事そうに入れる彼の仕草に一緒に笑った。
そして「もっと一緒にいたい」と素直な気持ちを口に表してくれた。
それだけで十分幸せだったのに、時間が経つとどんどん欲張りになっていった。
外で会うことは簡単だったけれど、誰がいつどこで見ているか分からないから
お互いフトした時に周囲の目を気にする行動をしてしまう。そんな自分が嫌でもあり、
そしてそんな彼を見ることが辛かった。
部屋の中ならば、お互い堂々としていられるし何の不安も無かった。
必然的に私達はこうして私の部屋で密会のような時間を過ごすことが普通になっていった。
別に体の関係がある訳じゃないから、今、私の存在が発覚してもなんの罪にもならない。
ただの仲の良いお友達ということで、私にも彼にも何か大きな被害がある訳じゃない。
日本の法律って難しいようで変だなって思う。不貞行為が無いだけで、どれほど一緒にいようと浮気とは認められないってなんだか変なのって思ってしまう。
けど一歩前に進んでしまうことに正直抵抗があるのは本当のことだった。彼のことをどんどんと好きになる自分を押さえることができるのは、まだ一歩前に進まず男と女の関係になっていないからかもしれない。
ある日の夜。私が家に帰ると部屋の電気が点いていた。
(あ・・来てる♪)
彼が来ていることに嬉しくなり、急いで部屋に入ろうとしたが、部屋の前まで来て悪戯心が浮かんだ。
(コッソリ入って驚かしてやろう)
ソ~と部屋のドアを開け、リビングに近づいて行くと、彼の声が聞こえた。誰かと電話をしているような、その声に終わるのを待ち、玄関で隠れていた。
「ごめん。今日も残業で遅くなる」
その言葉に電話の向こうの相手が奥さんだと感じた。
途端にドキッとして体が冷たくなるのが分かった。
「そうか・・・。今日はお前の誕生日だったな。じゃあ・・・できるだけ早く帰るから」
もしも本当に冷めている家庭なら、誕生日なんかどうでも良いはずだ。偶然聞いてしまった言葉に自分はなんて楽天的でバカなんだろうって思い知らされた。
どうしよう・・・このまま普通の顔をして家に入れるかな・・・
動揺を隠しきれない私は、このまま外に出て今日は会わないほうが良いと判断し、慌てて玄関で靴を履こうとしたが暗くてなかなか履けず、手に持っていた鍵を落としてしまった。
「ごめん。これから接待だから。じゃ、あとで」
私の気配を感じ、海人が慌てて玄関に顔を出した。そこには彼以上に、慌てて左右逆の靴を履き、落とした鍵を探す私の姿があった。
「おかえり。何してんの?」
「あ、、うん、、、。ちょっと会社に忘れ物しちゃって。これからまた戻るから、今日は遅くなるの。だから帰ったほうがいいと思う」
左右逆の靴は歩けるモノじゃなく、リビングの薄い明かりで私は靴を履きなおし慌てて外に出ようとした。
「本当に嘘が下手だよね・・・」
逃げようとする私の腕を掴み顔を見られた時には、、、もう私の目には涙が浮かんでいた。
「聞いちゃったんだろ。俺の電話」
「聞いてない、、、」
「じゃあどうして泣いてる訳?」
もう今にも零れそうな涙は瞬き一つでポツンと下に落ちてしまうだろう。泣いていることを認めたくなくて、必死に海人の腕を振り払おうとした。
その瞬間、ギュッと抱きしめられ、我慢していた涙は呆気無く頬を伝ってしまった。
リビングからは美味しそうな匂いがしていた。私が遅くなる時、海人はできないナリに頑張って料理をしてくれる。この匂いからして、きっと今日はカレーだなって思った。
「嘘はつきたく無いから正直に言う。俺は彼女には興味は無いけど、彼女は違う。でも、俺が好きなのは真羽だから。もう少し待ってくれたら、絶対なんとかするから」
浮気をしている男にありがちが台詞なんだろうなって思った。
けど、そうと分かっていても私はどこかで彼を信じたいって思っている。その言葉が本当であって欲しいと願っている。
「もういいから出て行って。これで終わりよ」と言えたら、どれほど楽になれるだろう。
抱きしめている彼の背中に黙って腕を回し胸に顔を埋めた。
どこかで思っていた・・・
(このまま私の香水の香りが彼に染み付いてしまえばいい・・・)と。
「ごめんな・・・」
抱きしめた腕を離し、ソファーにかけた上着を着ようとする彼を見て胸が熱くなった。
このまま彼はきっと家に戻り、「誕生日だから仕事を早く切り上げてきたよ」と奥さんに笑顔で言うのだろう。それを見て奥さんも「おかえりなさい」って微笑みあうのだろう。
人間は怖い生き物だなって思う。嫉妬という感情がこれほど顕わになるのは、どの動物よりも人間だろう。
上着を着る彼の背中にソッと頭をくっつけ上着の裾をギュッ・・・と握った。
「え・・・?」
「奥さんの誕生日って分かってる。早く帰らなきゃいけないのも分かってる・・・」
「・・・・・・・・・・」
「でも、、、」
「でも?」
好きな気持ちが大きいほうが恋愛は負けだ。いつの間にか私と海人の立場がスッカリ逆転をし、私は彼を引き止めることだけで頭がイッパイになっている。
「行かないで・・・ください」
顔を真っ赤にして上着を掴む手に力が入り、それだけ言って下を向くのが精一杯だった。
この時、私は最後の駒として、彼と寝ることを選んだ。引き止めるには十分な駒であり、そして自分が傷つくにはこれ以上無い駒だと知っていて。
海人はその誘いに簡単に引っかかった。どこかで私は計算をしていた。本当に究極な時に自分の体を使って彼を引きとめようって。そしてそのチャンスは今しか無いって思った。この数ヶ月、そんな雰囲気になることは何度もあったが、ギリギリの所でそれを止めた。
簡単に寝てしまう安い女だと思われたくないのもあったけれど、我慢をしてくれることで自分のことを大事に思ってくれているという実感もあった。
彼のキスを受けながら・・・(同じことを奥さんにもしているのだろう)と何度も頭を過ぎった。
同じように髪を触り、同じように囁き・・・考えれば考えるほど胸が熱くなり、なんとも言えない感情でイッパイになった。
初めて彼に抱かれたのに、気持ちは抱かれる前以上に複雑になっていた。大きな傷口が治ること無く痛み続けるスタートだった。
ベットの枕元にあった時計はもう夜中の1時を指していた。同じく時計を見ていた海人は、そろそろ帰ると私に切り出すのだろう。でも、嫉妬でどこか、いつもと違う私は彼をベットから出すことはしなかった。
彼女の元に彼を帰すことはしたくない。一年に一度しか無い誕生日に大事な旦那さんが他の女と一緒にいて、自分の存在を忘れてしまったのだと悲しめばいい。
何度も彼に抱かれながら、その時の私は本当にそう思っていた。
どんな人かも知らない。会ったことも無い彼の奥さんに私はこれ以上無いくらい嫉妬していた。
隣で眠ってしまった海人の髪を触りながら、起こすこともせず黙って朝まで顔を見ていた。
この寝顔をずっと見ていられる日が今後来るのだろうか・・・と思いながら。
結局、誕生日のその日。私は彼を家に帰すこと無く、いつものように二人で出勤した。
降りる駅で「またね」と笑顔で別れ、いつもなら振り返ることが無いのに、少し時間を置いてから振り返ると、彼は誰かに電話をしていた。
自分が虚しく、「何をしているんだろう・・・」って本気で思った。
その日を境に、海人と私は本当の不倫関係になってしまった。会う度にどこか寂しく、体を重ねれば重ねるほど、それだけの関係なんじゃないかって不安になった。
不安だから体を重ねる、そしてもっと不安になる。その繰り返しに疲れてきた頃、私達の関係が奥さんにバレてしまった。
決定的な証拠は無かったにしろ、緊急の用事で彼女が彼の会社に連絡を入れた時、海人は嘘をついて私の家にいた。普通は直接携帯に連絡を入れるのだろうけれど、きっと彼女の中でも浮気の確信があったのだろう。わざわざ直接会社に確認をする時点で十分彼女なりに、何かを握っていたのかもしれない。
困った顔をして私にその話をする海人を見て、どこか情けない気持ちになったのを覚えている。
結局私は彼にとって二番手の女であり、彼は家庭を壊すことはしないと宣言されたような気がした。
もっと私が強ければそんな態度の彼をその場でスパッと切り、このアヤフヤな関係に終止符を打てる良いチャンスだったのに、私ときたらこれで彼が自分の前から消えてしまうんじゃないかという不安が先に立ち、しばらくは二人で会う時間を減らし様子を見ようという提案に頷くしか無かった。
毎日会えていた時間は一週間に一度になり、我慢をする気持ちと同じくらい奥さんが憎くなっていった。
やっと会えた日に会えなかった分どんなに甘えても甘え足りなく、彼が帰る時間を思うだけで悲しくなっていった。そして・・・何度経験しても彼の帰る後ろ姿を見る度にこれ以上無いくらいの後悔をした。
奥さんの元に乗り込んで彼を奪ってやるというほど、私には勇気が無い。
このまま待っていたら、いつかこの気持ちが晴れる日が来るのだろうかと、ボンヤリと思う毎日だった。
友達が彼氏とどこかでデートしたという話を聞きながら、顔は笑っていたが、自分には関係の無い話だと思うとまた寂しさが募った。
いけないことだと思っていても、どうしても断ち切ることができない自分の弱さに嫌気が差していた頃。
世間はもうすぐクリスマスだと浮かれている時期に差し掛かっていた。どんな雑誌を見ても、どんなTVを見ても特集はクリスマスで、頭の中では海人と二人のクリスマスをシュミレーションするが、実際は叶わない願いだなってすぐに諦めた。
何か一つわがままを言えば、きっと彼は私じゃなくて奥さんを選ぶだろう。
好きという気持ちが二人の中で逆転をしてしまった時点から、気持ちの大きい方が負けなのかもしれない。
相手の顔色を伺い、刺激しないように気を使う。そんな日々にどこか疲れながらも、私の中にはこの人しかいないという錯覚に陥り、もう浮上はできなくなっていた。
人は依存をしすぎると、本来の自分を見失ってしまうのだろう。私はこんなに弱い人間だったんだなって彼と一緒にいるようになってからシミジミと感じていた。
もっと他に楽しくお互いが同じように好きになれる人がいるのかもしれないのに、そんな人は絶対いる訳が無いとどこかで思い込むほど海人のことが好きになっていた。
仕事柄、携帯はいつでも見られる状態だからこそ、ちょっとした時間に彼からの連絡が無いかと常に携帯を見てしまう。
最初の頃はあれほど連絡をくれたのに、最近は会える日の夕方に一本短いメールが届くだけになっていた。
<PM8時に>
たったそれだけの短いメールに胸をトキメかせる自分が愚かでもあり寂しくもあった。
そんなメールが届くと急ぎの仕事も翌日に回し、彼に会う為に時間を作り、自分のペースなんて無いも同然な生活だった。彼は何も変わっていないのに、私だけが彼に合わせて気持ちをグルグルと引っかき回されているのに、それでも私の気持ちは止めることができなくなっていた。
この悪い悪循環がいつまで続くのだろうと思いながらも、止めることもせず、そして止められることに恐怖を感じながら時間だけが過ぎていった。
恋人達が楽しそうに過ごすクリスマスの日。私は朝から何度か携帯を見ながら、何も光らないディスプレイを見ては仕事に気持ちを集中しようと寂しい気持ちを紛らわせた。
隣のデスクの人が柚木先生と同じくらい人気の立花先生の原稿があがらないと頭を抱え、何度も電話をして頼みこんでいるのを耳にしながら(頑張れ~)と心の中で小さく声援をしながらクリスマスの日が終わった。TVのニュースのイルミネーションもクリスマスの特番も私には酷は番組で、何も音の無い空間でその日を過ごした。こんな寂しい想いをするなら終わりにできたらいいのに・・・
どんどん心が卑屈になり、人の幸せが妬ましくなっていた。自分の嫌な部分が体の中に渦巻き、自分で自分が一番嫌いだと思う時期だった。
お正月が終わり、バレンタインが終わり・・・・
季節は夏になり秋になり・・・
何も進展が無いままにまた一年が過ぎようとしていた。
その頃にはもう私から奥さんの話をすることは無く、海人もまた同じように自分の家庭の話をすることは無かった。聞けば気持ちがザワつき、もっと色々知りたくなる。それなら何も聞かないほうが自分の為でもあり、たまにしか会えないのに、嫌な空気を作ることも無い。
諦めているくせに、いったいいつまでこんな関係を続けるのだろうと自分にイラだつ時もあるが、一人になることのほうがもっと怖く、結局私は世間でいう<都合の良い女>の代表みたいになっていた。
季節はまたクリスマスを迎える頃。家に来た海人が驚くような提案をした。
「今年のクリスマスはどこに行きたい?」
「えっ・・・?どこって・・・」
「去年はどこにも行けなかっただろ。今年はイヴもクリスマスも二人でいよう」
「二人でって・・・・」
「こんな風に言うと鬼の居ぬ間にって聞こえそうだけど、今年は家に誰もいないんだ。だから俺は自由の身って訳」
「そうなんだ・・・」
「あぁ。なんだか分からないけど、今年は実家で過ごしたいって言い出してさ。別に二人でいても楽しい訳でも無いし、なんなら毎年そうしてくれて良いんだけどさ」
(来年も・・・・同じ状態なんだなぁ・・・)
彼の口ぶりからして、私が今後笑顔になる展開なんか無いのだろうって感じた。
嬉しいはずの提案なのに、悲しくて寂しくて・・・・ポロポロと涙が零れていった。
「どうしたんだよ。そんなに嬉しいのか?」
「・・・・・・・」
嬉しくて泣いている訳じゃない。自分があまりに惨めで救いようが無いから涙が溢れているだけなのに。
「どこに行きたい?真羽が行きたい所、どこでも連れていってやるぞ」
「もう・・・終わりにしたい・・・」
「え?」
一緒にいられることが嬉しくて泣いていると思った海人は私の言葉を聞き返し、驚いた顔をした。
「こんな風に・・・ビクビクするのはもう嫌。会いたい時に会えなくて、寂しい時間をもうどれくらい重ねてると思う?どうせ寂しいなら一人になっても同じだもん・・・」
「真羽・・・・」
「海人は・・・もう少し、もう少しってそればっかりで・・・・」
「ごめん・・・」
彼ばかりを責める気は無い。こんな風になったのは自分のせいでもあり、罪悪感の中で苦しんでも彼と別れる選択をせずに自分の首を絞め続けていた事も分かっていたけれど、もう限界だった。
どうせ彼は私を選ぶことは無い。彼が離婚をして晴れて独身に戻ったら、その時は何をしようってアレコレ頭の中で描いた夢は、もう最近じゃ考えることも無かった。
考えることはいつ一人になるんだろう・・・
いつ別れることになるんだろう・・・
そればかりだった。
「俺・・・真羽に甘えていたよな。悪かった」
「・・・・・・」
きっと彼は別れの言葉を告げるだろう。遅かれ早かれそうなるならば、今ここでその言葉を聞くほうが良いのかもしれない。楽しいクリスマスの想い出なんか残ってしまったら、私は今以上に苦しくなるだろう。
期待も夢も・・・・もう見ることはしない方が良いのかもしれない。
「真羽・・・・。俺は・・・」
最後の言葉を聞くのが怖くて耳を塞ぎたくなる。心が壊れて動けなくなってしまうかもしれない。
足元に視線を移すと自分の足がガクガクしているのが分かる。
これで二人の関係が本当に終わってしまうんだと思うと、自分はなんてことを言ってしまったのだろうと
どこかで後悔していた。
けど、同時にこれで開放されるという変な安堵感もあるのは確かだった。
きっとこれからしばらくは死ぬほど辛い毎日なのかもしれない。
けど、その痛みは今がピークであり、それ以上私を苦しめることは無いのかもしれない。
そんなことをたった数秒の間に頭に浮かべながら、この変な沈黙を過ごしていた。
それでも次の言葉を聞くのが本当は怖い。。。
自分の足先が妙に白く、きっと冷たいだろうなって他人事のように自分の足を見つめていた。