不安
翌日。折原さんの家から戻り大きく深呼吸をした後に携帯を握った。
昨日、海人から貰った電話番号を瞬間的に抹消してしまったが、折原さんがシャワーを浴びている間に連絡先を素早く携帯に打ち込んだ。
呼び出し音が鳴る度に息が苦しくなる・・・
5回目のコールの後に聞き覚えのある声が耳に響いた。
「もしもし・・・」
「あのっ!風間です」
「真羽か?」
「はい」
数秒間が空いた後にさっきよりも優しい声で「よかった」と海人が呟いた。
「連絡来ないんじゃないかと思って和馬に・・・」
「そのことでお電話しました。折原さん、、和馬さんには私のことで電話をするのはやめて欲しいんです」
「すまない。どうしてもお前と連絡が取りたくて。和馬には悪いと思ったが、、」
「もう私に関わることはやめて欲しいんです」
キッパリと言い切る私に海人の声はさっきのトーンよりも少し低い声になっていた。
「会って話をすることはできないか?」
「もう会う気はありません」
「キチンと話を聞いて欲しいんだ。どうしてあの時にお前と連絡を絶ったのか」
「もういいです。終わったことですから」
「真羽!」
「私が言いたいことはそれだけです。もう昔のことなんです。だから、、、彼に二人のことを知られる訳にはいかないんです」
「一度でいいんだ。5分でもいい」
「もうやめてください!」
海人の言葉に平常心が保てない自分がいた。折原さんに知られたく無い。ただそれだけが頭にあり海人の言葉が頭に入ってこなかった。
「どうしたの?」
電話の向こうで女の人の声がした。
きっとレイさんだろう。ドキッとした胸を押さえ慌てて電話を切ろうとした。
「貴方には素敵な奥さんがいる。目の前の人を大事にしてください。私のことはもう忘れてください。さようなら・・・」
海人の返事を聞かずに電話を切ると手が小さく震えていた。
(これでいいんだ・・・)
もう過去のことだもの。冷たく関係を断ち切ることが私にも海人にも・・みんなにも良いことなんだ。
お風呂に入りながらさっきの電話のことを考えていた。
昔はあれほど彼からの連絡を待ち焦がれ、一日に1分でも声を聞けたら嬉しくて胸が高鳴ったのに。ずっと彼からの「今日会おうか」という言葉を待つことで私の毎日は成り立っていたように思える。
「都合の良い女だったのにね・・・」
手から零れる水を見ながら当時のことを思い返していた。
週末に一緒にいてくれたことなんか無かった。私はいつも一人きりの日曜日を過ごし、今頃彼と一緒にいる奥さんのことを想像しては胸が苦しくなった。
数ヶ月先の私の誕生日が日曜じゃないことを祈りながらめくったカレンダー。
クリスマスもバレンタインも平日であることを祈るような気持ちで曜日を確かめた。
段々と募る気持ちを抑えることができず、最後に別れた数日前のクリスマスの日は日曜日だった。土曜の夜からどこかに行きたいと彼にわがままを言い、そこまでのことを言ったことが無い私の希望を彼は初めて受け入れてくれた。
人目を気にしながらもレストランに行き、初めてクリスマスケーキのロウソクを吹き消し二人でプレゼントを交換して最高に楽しい日だったのに。
その数日後に何通かメールを送りあったのが最後で音信不通になった。
クローゼットの中にある彼のネクタイやYシャツを見ては悲しい気持ちが湧き上がった。
彼に何かあったのかと心配し会社の前を何度も通ったが、いつものように彼の車はあり胸を撫で下ろすと同時に、どうして連絡をくれないんだろうと気が狂いそうになった。
でも・・・
最後の最後に行動ができなかったのはきっと私の中に後ろめたい気持ちがあったからなのだろう。彼の会社に匿名で電話をして会話をすることだってできた。
会社から出てくる所を待ち伏せすることだってできた。
それをしなかったのは・・・最後の私のプライドと捨てられた現実を受け止めたくなかったから。
そしてどこかで彼はきっと最後に私を選んでくれるかもしれないという小さな希望。
「でも、これで本当に終わり!」
ザバーとお湯から出てタオルを巻き部屋のソファーに腰を下ろした。
「だからって都合が良いのは今も昔も変わらないか・・・」
ため息をつきながら今の状況を考えると折原さんとだって胸を張れるような付き合いでは無いのは確かだ。
ビールのプルを開けグイッと一口飲んだ時、携帯が鳴った。
「あ。和江だ。珍しい~」
久しぶりの友人の電話に落ち込んだ気持ちも一気に浮上し浮かれた声で電話にでた。
「もっしも~し」
「あら・・・すぐに電話に出れちゃうなんて、相変わらず暇なのぉ?」
「悪かったわね。で、どうしたの?珍しいね」
「うん。そろそろ時期も時期だからさ。みんなで忘年会でもしようかと思ってさ」
「忘年会?」
「うん。真紀や元気達とどうかなと思ってさ」
和江が「元気」と呼び捨てにしたのを聞いて二人は上手くいっているんだなって感じた。
素直に「良かったね」って言えない自分が嫌な人間に思えた。
「あ、、うん。分かった」
「折原さんも来るってさ。で、どうなの?二人は」
「どうって・・・仕事上の関係だけど」
「またまた~。元気が忘年会のこと言ったら何も言わなくても真羽を連れて行くって言ったって言ってたわよ。実は付き合ってるんでしょ?」
付き合っているという状況とは違うような・・・
「まぁ、、そこは想像にまかせるよ。で、いつ?」
それ以上突っ込まれると言葉に詰まりそうで話を違う方向に変えた。
場所と時間を確認し電話を切ったが、どこか折原さんが私を連れて行くと言ってくれたことに嬉しい気持ちになっていた。
数日後。原稿の話で折原さんの家に行くとその話をされた。
「聞いたか?忘年会のこと」
「あ、聞きました。みんな騒ぐの好きですからね~」
「みんなで会うのは久しぶりだな。あれ以来内田達とも会う機会が無かったからな」
「私も最近は友達に会うこと無かったから楽しみです。でも前は週末になると集まっていたのに、最近は全然だったからな~」
「他に会う人ができるとそんなもんだろう」
それは私達にも言える状況だった。ここ数週間、週末になれば私と折原さんは一緒にいる。
それが当たり前な予定になっているし、たぶん一緒にいなければ寂しいと感じてしまうかもしれない。
「最近・・・」
「え?」
「正也とは会っていないのか?」
「そうですねぇ。会ってないです」
「嘘は言わなくていいぞ」
「嘘じゃないですよ。本当に会ってないですもん」
冷めた言い方の折原さんとちょっとムキになって答える私は二人で変な空気のままお互いその場を離れ仕事に戻った。
(別に・・・あんな風にムキになって言うことじゃなかったのに)
何度か誘ってくれている柚木先生に私はアレコレと言い訳をしては誘いを断っていた。
柚木先生が優しく誘ってくれればくれるほど、こんな付き合いをしている自分が恥ずかしくなる。
シーンとした空気の中インターホンが鳴りモニターに写ったのはレイさんだった。
もう関係が無いと言われてもドキッとしてしまう。今となっては違う意味でもドキッとする。
「なんだろうな・・・」
「さ、、さぁ。なんでしょうね」
また妙な空気のままレイさんが部屋に来るまで二人はよそよそしい感じで仕事をしているフリをした。
「お邪魔しま~す」
「今日はどうした?」
「あら。私が来たら迷惑って感じね。最近冷たいな~和馬」
「そんなことは無い。用事があるから来たんだろう?」
「まぁ、、そうだけど。その、、ちょっと、、、」
チラッと私を見て言いづらそうな顔をしたのを察し「ちょっと買い物に行ってきます」と席をはずした。
やっぱりまだ二人を見ているとどうしても疑いがとれない。
エレベーターが1Fに着きドアが開くと目の前に人の影があった。
ちょっと落ち込んだ私はその人の顔を見ず横をすり抜けようとすると突然腕を捕まれた。
「えっ!」
パッと顔をあげるとその人は海人だった。
「どうしてここにいるの?」
「いや、、、ちょっと和馬に聞きたいことがあって」
「そ、、そう。今、レイさんが来てますけど。じゃあ、、私はここで」
急いでその場から離れようとしたが海人は腕を放してくれなかった。
「お前の連絡先を聞きたかったんだ」
「だからっ!そんなことするのはやめてって言ったじゃない」
「ちょっと来てくれ」
そのまま強引に外に引かれて行った。
「キチンと話を聞いて欲しいんだ」
「だからもういいんだってば!」
「俺が良く無いんだよ!」
強い口調の海人にちょっと驚き顔を見た。どんなにわがままを言っても怒ったり声を荒げたりしない人だった分、そんな彼にビックリした。
「分かった・・・」
「そんなに時間はとらせないから」
近くのカフェに入り目の前にした海人はなんだか疲れて見えた。
「疲れているみたいだね」
「ん?」
ちょっとだけ笑い顔を軽く覆う海人を黙ってみていた。
「昔から真羽はすぐ俺の体調が分かるんだな」
笑った顔をなんだか懐かしく「そんなこと無いよ」と小さく笑った。
「お前はいつもそうだったよな。自分のことより俺のことを心配してくれた。風邪をひいて具合が悪くても絶対俺には言わなかったもんな。いつでも元気で俺はお前から元気を貰っていたような気がするよ」
(それでも最後はレイさんを選んだくせに・・・)
何も答えずに目の前のミルクティーを口に運んだ。
お互い何も話さない時間がとても長く感じ腕時計を見るとそんな仕草を見て海人が声をかけてきた。
「いまさらこんなことを言っても仕方無いのかもしれないけれど、あの時はどうしても続けることができなかったんだ」
「もういいよ・・・」
「違うんだ。お前を嫌いになったとか、そんなんじゃないんだ」
あれほど会ったら聞きたいことが沢山あったのに、なんだかもう海人を目の前にしても気持ちが騒ぐことは無かった。
「あのクリスマスの翌日レイに別れようと言ったんだ」
「・・・・」
「けどそのショックだったのか流産して。俺、、妊娠していることを知らなくて。そんなアイツを置いていくことができなくて、時期を見てと思ったんだが、、、」
「子供・・・無事に生まれるといいね。私がこんなことを言うのもなんだけど、レイさんのこと大事にしてあげて。私ならもう大丈夫」
「真羽、、、」
「じゃ、私そろそろ戻らないといけないから」
席を立ちあがると海人は寂しそうな顔をして私を見上げた。
「和馬のこと、、、好きなのか?」
好きだけど・・・
彼はきっと私のことは好きじゃないだろう。
でも今、海人にそんなことを説明することは無い。そして、、こんな惨めな状況を知られることはやっぱり嫌だった。
「うん。好きよ。とっても優しいもの」
自分は今、なによりも幸せですという顔をしてそう答えた。
「そうか。なら良かった」
悲しそうな顔の下に少しだけホッとしたような表情が見えた。
「真羽。ごめんな」
小さく手を振りカフェを出た。心の中はさっきよりも曇っていた。私のせいでレイさんが流産したのかもしれない。誰かを傷つけたかった訳じゃないのに。
なんだかそのまま折原さんの部屋に戻り、何も知らないレイさんに会うのが心苦しくて私は適当に近くのコンビニで時間を潰し1時間ほどしてから戻った。
もう部屋にはレイさんの姿は無く折原さんがパソコンの前に座り仕事を進めていた。
「今、戻りました」
「遅かったな」
「はい。レイさん帰られたんですね」
「あぁ。お前が出てしばらくしてから帰った。なんだよ、、まだ気を使っているのか?」
「いいえ。そうじゃないです。なんだか私がいたら話にくい感じがしたんで」
ちょっと考えた後、折原さんは困ったような顔をして口を開いた。
「また兄貴がちょっとな・・・」
「ちょっと?」
「昔の女と連絡を取っているようだと言うんだ。俺は誤解じゃないのかって言ったんだが、、、時期が時期だけにちょっと心配でな」
「時期って?」
「昔、浮気が発覚した時に彼女妊娠していたんだ。兄貴を驚かせようと内緒にしていたのに、あまりにショックで流産してしまってな。また同じことにならなきゃいいなって思って」
「そうなんですか・・・」
その話にドキッとしながらも動揺がバレないように普通の顔をした。
罪悪感に顔が暗くなりそうなのを必死で堪え大きく息を吐き書類に目を戻した。
「お前だったらどう思う?」
「え?」
「今、その男が目の前に現れたらまた同じ気持ちになるか?」
「私は、、もう同じ過ちは繰り返しません」
「そうだよな」
ニコッと微笑みクルリと椅子を回転させまたパソコンに向かう背中を見ながらドキドキする心臓を押さえた。
「風間」
背中を向けたまま声をかける折原さんにビクッとしながら「はいっ!」と返事をした。
「嫌なこと思い出させて悪かったな。もう・・・聞かないから。昔のことは」
「あ、、はい」
「昔のことは昔のことだ。俺が知っているのは今のお前だ」
その言葉があまりに温かすぎて危なく目が潤みそうになった。
本当の私はそんな優しい言葉をかけてもらえる人間なんだろうか。
「週末、楽しみだな」
「はい・・・」
何も知らない折原さんにいつまでも言えない隠し事があることが苦しくなっていた。