9、嘘(上)
シンディはレンガの住宅に挟まれた人気のない路地裏に立ち、水晶で盗人の方角を確認した。それが済んだところで、日に照らされた石畳の表通りへと出ていく。そこでは三人――ケーリー、マリアン、イヴォンヌがシンディを待っていた。
「方角に変わりありませんでした」
「ふむ。では予定通り、行こうか」
マリアンの言葉で、一同はマリアンが知り合いから借りたという一頭だての小柄な幌馬車に乗り込んだ。マリアンとイヴォンヌが御者の位置に、ケーリーが幌に覆われた荷台に、それぞれ腰を下ろす。シンディは馬をなるべく視界に入れないようにして、ケーリーの後に続いた。
四人が今いるのは街の北のはずれだった。イヴォンヌの発明品が保管されているという研究所まで、ここから馬車で三時間ほどかかるらしい。着く頃には暗くなっているだろう。
「これの上に座っていなさい。かたい床にずっといたら尻が痛くなる」
マリアンが荷台と御者席を隔てる柵ごしに、くすんだ緑色のマットを差し出す。シンディは礼を述べて受け取ると、それを荷台の床に敷き、ケーリーと並んで座った。
自分が気づいて用意するべきだったと思ったのだろう。うっすらとではあるが、イヴォンヌの顔に気まずげな表情が浮かんでいる。
荷台の隅のイヴォンヌやシンディの荷物のわきには、ランタンが一つ置かれていた。
「あのね、ケーリー」
馬車が動き出すと、マリアンとイヴォンヌの耳に入らぬよう、シンディは声を低めた。
「聞きたいことがあるの」
「何ですか?」
同じように声を小さくして、ケーリーがこちらに耳を寄せる。
予感があった。
思い出すのは、ケーリーのいた村でシンディを村長宅まで案内してくれた男、ジョンのセリフだ。
『昨日の昼より前くらいに男が一人、山越えで疲れてるから休ませてほしいと言って、ウッドの家の世話になったって話ですよ。ああ、ウッドってのは、村の北西の端に住んでる木こりのことでしてね』
そしてこの子の名前は、ケーリー・ウッドだ。
さらにケーリーは、この前家で休んでいった旅の人に学院のことを教えてもらったと言っていた。
「あなたに学院のことを教えてくれた旅の人は、どんな人だったの?」
「どんな人って……」
訝しげな表情で首を傾げたケーリーは、迷うように目線を泳がせながらとぎれとぎれに言葉をつむぐ。
「言葉遣いが荒かったですけど、優しい感じがしました。男の人で、背が高くて。あと、香水かもしれないですけど、ほんのちょっとだけ、苦いような、甘いような匂いがしました。肌は、僕たちとそんなに変わらない色でした。髪は黒くて短めで、あと、黒い眼鏡をかけてました」
「黒い眼鏡?」
シンディは聞き返して眉を顰めた。眼鏡というのは透明なものではないだろうか。
「はい。アーデンの地でも、ちょっと珍しいものだそうです。目の弱い人がかけるものだって言ってました」
「それ以外、何か特徴はなかった? あと、どこまで行くとか言ってなかった?」
「うーん」
ケーリーは考える素振りを見せたが、やがて首を横に振った。
「……そう」
いつの間にか力んでいたシンディの肩から、力が抜ける。盗人がどこに向かっているのかわかるかもしれないという期待が、淡く弾けた。
――それにしても。
抱えた膝に、シンディは顔を埋める。
ケーリーはシンディが追っている人を、盗人を慕っているのか。
外の世界を教えてくれた人なのだ。その盗人のおかげでケーリーは、面倒を見てくれるという科学者に出会い、学院に入る希望を与えられた。慕うのが自然だろう。
――どんな人なのだろう。
里の大切なご神体を盗んだのだから、悪人に決まっていると思っていた。だがケーリーは、彼を優しい感じがしたという。
「あの、シンディさん」
はっとして隣を見ると、ケーリーがシンディをまっすぐ見上げていた。
「僕、シンディさんに、言わなきゃいけないことがあるんです。おばあちゃんから伝言があって」
「おばあちゃんって……イーニッドさん?」
ホワイトがいたわけがない、とかたくなな姿勢を崩さなかった老女の、鋭い灰色の瞳が脳裏に浮かぶ。 首を傾げて聞き返すと、ケーリーはうなずいた。
「嘘をついて、すまなかった。そう伝えてほしいと、言われました」
「嘘……?」
「僕もよくわからないんです」
ケーリーはうつむいた。
「ホワイトがいないか、シンディさんが調べた後、家でおばあちゃんが言ったんです。お前がホワイトを見たのは夢なんかじゃない。ホワイトは確かにいた。でも村のみんなにそれを知られちゃいけなかったから、嘘をついた。お前にも、村長にも、あの魔術師にも、悪いことをしたって、言ってました」
「え……?」
動揺を隠せなかった。どう反応すればいいのかわからない。情報の整理が追いつかなかった。
人食いといわれる魔物がそばにいたことをみなが知って、困ることなどあるのだろうか?
長い間を置いて、ようやくシンディは喉の奥から疑問を絞り出した。
「どうして……どうして、村の人に知られては、いけなかったの?」
「教えてくれませんでした。何度も教えてって頼んだんですけど。その時におばあちゃんが言ったのが、今のお前に話していいものかわからない、どうしても知りたければ、アーデンの地で偉い学者になって、ディーラゴン山脈の全てを調べろ。そして、人間という生き物をよく見て、いつも考えていろ、ってことでした。だから……」
「ちょっと待って」
引っかかるものを感じて、シンディは待ったをかけた。
「イーニッドさんがアーデンの地で学者になれって言ったってことは、あなたがグエンダ自治区を出ていくことを、イーニッドさんは……!」
「知ってました。というより、僕はおばあちゃんに言われて、ここまで来たようなものなんです。あの……シンディさんの荷物に僕をもぐり込ませたのも、おばあちゃんなんです。お前のような賢い子が、こんな小さな村で終わっちゃいけない。あの魔術師は川を越えて行く。死ぬ気でしがみついていけ、って」
シンディは言葉を失った。
イーニッドはいったい、何者なのだろう。
アーデンの地で学者となってディーラゴン山脈を調べろということは、おそらくその山脈はアーデンの地にあるのだ。
まるでアーデンの地理を知っているかのような口ぶりではないか。グエンダ自治区を一生出ることのないはずの一介の村人が。
それにイーニッドは、何を以てしてシンディは川を越えると確信していたのだろう。あの時点でシンディはまだ、川を越える気など全くなかったというのに。
だが結果的に、シンディはイーニッドの予期した通りアーデンの地に立っている。
今一度思い浮かべた老女の瞳に、シンディがふと違和感を覚えた刹那、馬車が大きく揺れた。興奮した馬のいななきと、それをなだめるマリアンの声とがシンディの耳に届く。
はっとして、シンディはケーリーの肩に右手をかけた。
「シンディさん?」
ケーリーの問いかけに答えようと思った。
だが、声が出なかった。
――息ができない。
異変に気づいたのか、ケーリーが慌てて御者席の方に叫ぶ。
「マリアンさん! あの、シンディさんが!」
「どうした?」
手綱を握ったまま振り向いたマリアンが表情を険しくする。
おろおろするイヴォンヌにマリアンが小声で何事かを言うと、イヴォンヌは柵を乗り越えて荷台に足を踏み入れた。
「大丈夫、落ち着いて、落ち着くのよ、シンディ、大丈夫。ゆっくり、息を吐きなさい」
さっきほど大きくはないが、馬車はまだ揺れている。マリアンが馬を鎮めようと、柔らかな声をかけ続けるのが聞こえた。
吸った息が肺に届いていない。遠ざかっていこうとする意識を引き戻すように、ケーリーの肩を握る手に力がこもった。ぎこちなく背をさするイヴォンヌの手が、温かい。
「ケー……リー」
激しい動悸が内側から胸を鞭打つのに耐えながら、絶え絶えに言葉を吐く。
「呪い……だけ……話して……」
驚いたように目を見開いたケーリーに、シンディは肩で息をしながらうなずいた。
これからシンディは、イヴォンヌと長旅をするのだ。知らせておく必要がある。
どこまでどのように話せばいいのか迷っているのだろう。ケーリーの青い目が揺らいだ。
「あの……イヴォンヌさん」
シンディの背をさする手を止めぬまま、イヴォンヌがケーリーを見る。ケーリーは一度つばを飲みこむと、口を開いた。
「シンディさんは、川を越えるためにある禁忌を犯したんです。その禁忌は、破ると呪いにかかると言われていて、僕は魔術師じゃないから詳しくないんですけど、シンディさんのこれは、その呪いだと思います」
眉間にしわを寄せたイヴォンヌは、シンディにじっと視線を注いだ。何かを考えている様子だ。
「ちょっと待ってなさいね」
イヴォンヌは立ち上がると、荷台のすみに置かれていた灰色の鞄を開けた。取り出したのは水筒と、折り目のついた正方形の白い紙、小さな木のさじ、それに握り拳二つぶんほどの大きさの、横にはばのある茶色い壺だ。
シンディの前にひざまずいたイヴォンヌは壺を開けると、右手のさじで中の狐色の粉をすくった。それを、左のてのひらで支えるようにして持った白い紙の真ん中に乗せる。
「私の父は名高い魔術師でね。この国の王家にも一目置かれているほどなのよ。これは父が作った呪い除けの薬。絶対に効くわ」
上を向くよう促されたシンディは、呼吸が苦しいのをこらえながら必死で顔を上げた。イヴォンヌが紙を傾け、シンディの喉に薬を注ぎ込む。間髪入れず水筒の蓋を開けると、中の水をゆっくりとシンディに飲ませた。
「気を楽にして、少し待ちなさい。十分もすれば効いてくるわ」
シンディの背を、イヴォンヌの温かな手が撫でる。ケーリーの肩をかたく握っていた手から力を抜くと、シンディは、深く、深く、息を吐いた。
✝
母から課された問題を、一通り解き終えると、私は母によく尋ねたものだった。
「どうして私だけ、こんなことしなきゃいけないの?」
母は私に、様々なことを教えた。算術、たくさんの種類の単位、地図の読み方。他にも、数えきれないほど多くを。周りの女の子たちも大人から学んではいたが、私が母から教わるものは、量も種類も、同年代の子どもたちをはるかに超えていた。里の者たちも、二桁までなら計算もできるし、魔法薬を作る時に使う「指先に一つまみ」というような単位なら知っていたが、私に与えられた課題は、三桁、四桁のかけ算や、答えを求めるのに何をどう計算すればいいのか考えなければならない問題だった。問題の答えはみな、「ジーイート(約一・六キロ)」や「ジオース(約一・一グラム)」など、誰も使っているのを見たことのない単位がつくものだった。
「私の娘だからよ、シンディ」
母の答えは、いつもそれだった。
「私も私の母から教わったのよ。私の家系では、母が娘に教えていくものなの」
「じゃあ、エイブはこれ、やらないの?」
「そうよ。だってあの子は、男の子だもの」
大きくなって、春と秋の市場で外の人間と関わるようになってから、私は知った。私だけが教わった複雑な計算や単位は、アーデンの地で使われているものだった。




