8、科学者(下)
✝
川の水面をすべる舟が、ゆるやかに速度を落としていく。間近に迫ってきた対岸の風景に、シンディはつかの間我を忘れて見入った。
土があまりにも少ない。川辺をのぞいて、街の地面には隙間なく石畳が敷かれている。道の両側には畑や丸太小屋の代わりにレンガの建物が軒を連ねていた。朝早い時間のためか、人影はまばらだ。
「川を一つ越えただけで、こんなに違うんだ」
土の道に木の家が並ぶ自分の里を思い浮かべ、シンディはつぶやいた。春と秋の市場の時期に川を越えて商売にやってくる人間から、アーデンの地の話を聞いたことはあった。だがやはり、自分の目でその姿を見る衝撃は大きい。
「というよりは」
それまで黙って舟を操っていたミネルヴァが、唐突に口を開く。
「私たちの土地が、グエンダ自治区が特殊なのですよ」
振り向いたミネルヴァは、シンディの隣で小さくなっているケーリーに目を向けた。
「苦労しますよ、あなたは。私たちの土地とは勝手が違いますから。まあ、あの西の国、ワコクは……グエンダ自治区とはまた別の意味で、アーデンの地と異なる、と聞きますが」
「……はい」
神妙な面持ちで、ケーリーはうなずいた。
やがて、ミネルヴァの魔法でひとりでに動くオールに操られた小舟は、川面に張り出した桟橋に横づけになり動きを止めた。
「ケーリー・ウッド」
シンディに続いて舟から桟橋に降り立ったケーリーを、ミネルヴァが呼び止める。
アーデンの桟橋に立つケーリーと、舟に揺られるミネルヴァが、向かい合った。
「何か、家族に言い残すことはありますか。望むのであれば、私が伝言しましょう」
腑を衝かれた顔で、ケーリーは目をぱちぱちさせた。そんなことが許されるとは思ってもみなかったのだろう。
だがしばしの沈黙の後、ケーリーはかぶりを振った。
「ありません」
「えっ」
シンディは思わずケーリーを見つめる。だがミネルヴァは、何かを察した表情でうなずいた。
「わかりました。それでは、私はこれで」
水のうねりに揺られるままだったオールが、それ自体が意思を持っているかのように動きだす。桟橋から離れた小舟は、西へと向かう水流の上を大きく迂回し、舳先を向こう岸の森に向けた。
「どうして」
小さくなっていく小舟を見つめるケーリーに、シンディは尋ねる。
「どうして伝言を頼まなかったの?」
もう二度とケーリーは、向こう岸に、故郷に行けないのだ。名目は禁忌を犯した罰としての追放だが、実際にケーリーが手を下したわけでもない。頼める伝言を頼まない意味がわからなかった。
「僕は」
言いかけ、一度ぐっと唇を噛むと、ケーリーは言葉を継いだ。
「村を出たことも、川を越えたことも、後悔してません。でもそのために、シンディさんにあんなことをさせた僕が、家族に伝言なんて、そんなの……〈川守り〉が許しても、僕が、許せない、です。ミネルヴァさんが、魔術師が本当のことを知ったら、シンディさんを、けがれてるって言うでしょうけど、けど、本当の意味で、けがれてるのは、僕、なんです」
歯を食いしばり拳を握るケーリーは、故郷の方向を、さっきまで自分たちがいた川の彼方の対岸をじっと見据えている。顔を見なくとも、泣いているのがわかった。
「ケーリー」
震えないよう左手でおさえた右手で、シンディはケーリーの肩を抱いた。
「あなたは、私に利用されただけ。私も川を越えなきゃいけなかった。私は、私の目的のために、あなたを利用したの。あなたが気に病むことはないの」
「でもそれなら……っ」
「黙って!」
怒鳴りつけたシンディはケーリーの正面に回ると、その細い肩を両腕でがしっとつかんだ。
魔術師でない者が犯せばワコクへの追放の刑に、魔術師が犯せば死罪になる禁忌を破ったことの証拠として、ミネルヴァに手渡した瓶の中身の、あの赤黒いかたまりが、脳裏に浮かぶ。
「もう、おしまい! その話はおしまい! 二度としないで! 私にもう、あれを……あれを思い出させないで」
その時、シンディの耳に音が飛び込んできた。街の方からだ。規則正しく石畳の床を叩く、乾いた蹄の音。
あの時の感覚が、戻ってくる。
右のてのひらに、金属が冷たかった。左手には、しっかりと脈を打つ、熱があった。
「シンディさん!」
つかんでいられず、両手がずるりとケーリーの肩から落ちる。そのまま崩れるように、シンディの身体は桟橋の木の床板に倒れた。
呼吸ができない。息を吸っても吸っても、息をしている感じがしない。胸を内側から破るような勢いで、心臓がばくばくと脈打っている。指の先から、足の先から、何かが抜けていく。じりじりと、じりじりと、意識が暗くなっていく。
バタバタと近づいてくる足音と、知らない男の声を最後に、シンディは気を失った。
✝
雲が去り、空には太陽が顔を出していた。地面はまだぬかるんでいる。朝方の山をがむしゃらに走りまわっていたために脚が重い。それでもレティは、ある場所に向かって斜面を駆け上がっていた。
今レティが登っているのは、里の北に横たわるバーバラ山だ。さほど高い山ではないが、里の長の家系にとっては重要な場所だった。
木漏れ日の踊る下で、レティは一度立ち止まる。目の前にはレティの身長の二倍あまりの崖がそびえたっていた。そのかたい土の壁では、洞がぽっかりと真っ黒な入り口を開けている。
親指と中指で輪を作った右手を口に差し込むと、ピイッ、ピッピッ、とリズムをつけて、レティは指笛を四回吹き鳴らした。まるで待ち構えていたかのような素早さで、いくつもの灰色の影が洞から飛び出す。
「よおし、よしよし、いい子、いい子」
彼らと目線を合わせるように屈みこんだレティは、じゃれついてきた五頭の獣の頭をクシャクシャと掻きまわした。
指笛にこたえて現れたのは、五頭の狼の群れだった。里の長の家は代々、この山で狼を飼い慣らしている。ある大切なものを守らせるために。
「ごめんな、ほとんど来なくて。あたし、不真面目だから」
自分を見つめる狼たちの瞳は、シンディとよく似た金色だった。胸がちくりと痛むのを感じながら、腰を上げる。
「兄さん、今いる?」
いっせいに首をたてに振った狼たちにうなずき返すと、レティは一番小柄な狼の耳に口を寄せた。
「あたしを連れてって、あたしの相棒、あたしのブレティ」
ブレティのとがった耳が、ぴん、と立ち上がる。ついてこいと言うように鼻を鳴らすと、ブレティはするりと群れから抜け、洞へと入っていった。追いかけたレティは、腰を少し曲げるようにしてブレティの背に左のてのひらを置き、横に並ぶ。
洞の中は真っ暗だった。人間の目ではどこに何があるのか全くわからない暗さだ。狼のように夜目のきく生き物でなければ、まともに歩くのも難しい。
ブレティの背から手を離さぬようにして歩き続けると、やがてその脚がぴたりと止まった。
何も見えないまま、レティは右手を前に伸ばす。指の先が、土の壁とはあきらかに違うつるつるとした平面に触れた。
長い時間をかけて手探りで探し当てた鍵穴に、家から持ち出してきた鍵を差し込む。手間取ったレティだったが、ガチャリ、と小気味いい音とともに石の扉が開き、暗闇に光が差した。
瞳を射抜く強い光に目を細めながら、相棒を残して、レティはドアの向こうへと足を踏み出す。
兄の力が、必要だ。
✝
最初に目にとまったのは、濃い褐色の肌だった。唇が少しぶ厚い横顔は女に見える。歳は三十に満たないくらいだろう。縮れた黒い髪を肩にかからない程度まで伸ばしている。木の机の上にじっと視線を落として何かに集中している様子だ。身にまとっているのは、ひざより高い位置の丈のベージュの上衣と、上衣と同じ色のすねが見えない長さのスカートで、黒い布の帯を腰の上あたりで結んでいる。椅子に腰かけるその姿は、見ているこちらの気分が良くなるほど姿勢が良い。
「……あの」
状況が呑み込めず、シンディはベッドに横たわったままおそるおそる声をかけた。
顔を上げてこちらに目を向けた女性の顔には、はじめ表情がなかった。少し遅れて、その眉が困ったように下がる。
「ちょっと待ってなさいね」
そう言うと、女性は静かに立ち上がり部屋を出ていった。
真っ白なシーツが敷かれたベッドから身を起こし、シンディは周囲を見まわす。
質素な部屋だった。あるのは机と椅子とベッド、窓、それに背の高い本棚が一つだけだ。本棚にはシンディの手の横はばほどもある厚さの本や書類の束がぎっしりと詰め込まれている。本棚のわきの壁には、ドードーの頭の柄の杖がたてかけられていた。
ベッドから降りて窓の外を確かめようと思ったちょうどその時、足音が近づいてくる気配がした。
部屋に入ってきたのはさきほどの女性と、眼鏡をかけた背の低い男性だった。シンディやケーリーと変わらない白い肌だ。白髪まじりの髪はぼさぼさで、整えられているとは言いがたい。男にしては小さめの筋張った右手には、湯気のたつティーカップを抱えている。
「や、目が覚めたか。良かった良かった。気分は悪くないかい?」
くたびれた茶色のスーツを来た男性はにこにことしてそう言うと、シンディにティーカップを差し出してきた。
「はちみつ入りのハーブティだ。飲みなさい。気が落ち着くよ」
「ありがとうございます」
受け取ると、ふわりと甘い香りが鼻をついた。やけどをしないようゆっくりと一口、口に含む。体がほぐれるような甘みと舌に心地の良い独特の風味が、腹の底に沁みわたるようだった。
「しかしあれだね、イヴォンヌ君。君も僕のように、目を覚ました病人にお茶を飲ませるくらいのことはできるようにならねばならんよ。研究者というのは大体、そういうことができんもんだが、甘えすぎはいかん」
「……はい」
穏やかに諭す老人に、女性は神妙な面持ちでうなずいた。それに対し、眼尻のしわが目立つ顔に笑みを浮かべた老人は朗らかな声で言う。
「まあ僕も、根っからの研究者だからね。若い頃は全く馬鹿みたいに気が利かなかった。君は今二十八だろう。三十までにお茶を出せるようになっていれば上々だよ。さて」
眼鏡の奥の空色の瞳が、シンディの方を向く。
「今朝早く研究所に行こうとして、イヴォンヌ君と馬車に乗っていたら、君が桟橋で倒れるのが遠目に見えてね。急いでここに運んで、医者に診せたというわけだよ。呼吸ができなくなっていたようだから、心臓か肺にでも病気があるのかと思ったけど、医者が言うには、体に異常はないそうだ。心労……心の疲れだね、それが原因だろうということだったよ」
――医者には、わからないだろうな。
心の中でつぶやくと、シンディはまぶたをぎゅっと閉じた。脳裏に、あの時の光景が――白と赤の光景が走る。
自分は、呪いをうけたのだ。
「どうした? 大丈夫かい?」
心配そうな男の声に、シンディは目を開けた。
「大丈夫です。ありがとうございました、助けていただいて。えっと……」
「ああ、名乗っていなかったね。僕はマリアン・フゥベー。こっちの彼女は弟子のイヴォンヌ・ジェファーソンだ」
男がそう紹介すると、かたわらに立つ女はどこかぎこちない微笑みを浮かべた。
「イヴォンヌよ。よろしく」
「シンディ・ゴールダーです。あの、私と一緒に、金髪の男の子がいたと思うんですが……?」
こちらの問いにマリアンはうなずいた。
「ああ、ケーリー君だね。さっき昼食を食べさせたんだが、今はソファで眠っているよ。彼も疲れているようだね。おや?」
マリアンが耳をそばだてたその時、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「シンディさん!」
駆け込んできたのは金髪に碧眼の少年、ケーリーだった。起き上がっているシンディをひとめ見るや否や、ぱっと顔を輝かせる。
「ああ、良かった! 大丈夫ですか? どこか痛かったり苦しかったりしないですか?」
「大丈夫、何ともないよ、ケーリー」
シンディが優しく言うと、ケーリーはほっとため息をついた。
「さてと」
マリアンは机のそばにあった椅子をベッドのわきへと引きずるように運ぶと、その上に腰を下ろした。
「聞きたいことがいくつかあってね。まず一つめなんだが、君たちはグエンダ自治区から来たのかい? ケーリー君はともかく、シンディ君の服装は僕たちのとは随分違うから、そうではないかと思ったんだけど」
「はい、そうです」
シンディが答えると、ふむ、とマリアンは腕を組んだ。
「だとすると、君とケーリー君は魔術師か。あそこは魔術師にしか外との行き来を許していないと聞いたことがある」
「いえ、ケーリーは魔術師ではありません。魔術師でも、外に出るちゃんとした理由があって、それを〈川守り〉という川の番人に認めてもらえなければ、川を越えることは許されません。私は……その、事情があって、人を追っていて。でもその事情は、人に話してはならぬものだったので、〈川守り〉の許しを得る方法に困っていました。それでケーリーを利用して、ある手段で、川を越える許可をもらったんです」
「ある手段というと?」
「それは……」
言いよどんで、シンディはマリアンから目をそらす。ぞっ、と鳥肌が立った。
「あの、すいません」
助け舟を出したのはケーリーだった。みなの視線がいっせいにケーリーを向く。それに怯みもせず、ケーリーは言葉を継いだ。
「その手段は秘密なんです。聞かないでください。それとさっきシンディさんは、川を越えるために僕を利用した、と言ってましたけど、僕も僕で川を越えなきゃいけなかったんです。僕は、学院に入りたいんです」
マリアンの顔が驚きの色に染まり、空色の目が面白そうに光った。
「そうか、グエンダ自治区には学院がないか。ケーリー君。君はなぜ学院に行きたいんだい?」
「たくさんのことを、色々なことを、学びたいんです」
ケーリーの瞳は真剣だった。
「ついこの前まで、学院なんて、僕は存在も知りませんでした。それを僕の家で休んでいった旅の人が教えてくれたんです。川の向こうのアーデンの地には、一生懸命勉強して、試験に受かれば誰でも入って勉強ができる、そういう場所がある。そして学院を出て、役人になる人もいるけど、さらにもっともっと勉強して深学院というものに入って、まだ誰も知らない真理を求める人々、科学者、研究者という人がいる。僕は、そういう人になりたいんです」
しばし沈黙が流れた。その沈黙を破ったのは、マリアンの笑い声だった。
あっけにとられる一同の前で、ヒッ、ヒッ、と苦しそうに、マリアンは必死で笑いをおさめようとする。
「いや失敬、失敬。そうか、真理を求める人々、か。うむ、その通りだ。科学者たる者、そうでなくてはいかんな。その旅の人にぜひとも会ってみたいものだ」
わずかではあるが、眼鏡の奥にじんわりと涙がにじむ。ただ笑いすぎて出ただけの涙には、見えなかった。
ようやくもとの穏やかな表情に戻ったマリアンが、ぽん、と己のひざを打つ。
「本題に戻らねばならんな。シンディ君。人を追っていると言ったが、その追う相手の居場所は分かっているのかい?」
「魔術で方角は分かります。距離も、ある程度近ければ分かります。川を越える前に確認した時は北西で、かなり……百二十五ジーイート(約二百キロメートル)以上、引き離されてしまっているようでした」
「北西に百二十五ジーイート以上?」
聞き返したマリアンは眉間にしわを寄せた。イヴォンヌが口をはさむ。
「直前で迂回するつもりなのではないですか?」
「まあそれなら、あり得なくはないが……」
「どういう意味ですか?」
シンディの問いに、イヴォンヌが答えた。
「ここから北西に……そうね、大体、百六十ジーイート(約二百五十六キロメートル)進むと、立ち入り禁止の険しい山岳地帯に出るの。国が管理する鉱脈でね。通り抜けるのは至難の業よ。山岳の向こうに行くとしたら迂回するしかないわ。……博士?」
怪訝な顔でイヴォンヌがマリアンの方を見る。シンディもつられて目をやると、マリアンはにやにやと笑っていた。
「ひらめいたぞ。これはいい機会だ。イヴォンヌ君、君、シンディ君の追いかけっこを手伝ってやりたまえ。無論ケーリー君も連れてな」
「なっ!」
鳩が豆鉄砲を食ったような表情で後ずさりしたイヴォンヌに、マリアンはたたみかける。
「ほら君、例の発明品の長距離走行実験をしたいと言っていたじゃないか。あれなら鉱脈までの平地も、険しい山岳地帯も突っ切れるぞ。発明家イヴォンヌの名で申請すれば、通行許可も降りるだろう。実験ができるうえに、子どもの手助けもできる。一石二鳥じゃないか」
「いえ、でもそんな、私、子どもを連れて旅だなんて……」
「子どもが苦手なのは知ってるさ。だがいい経験になるぞ。シンディ君の目的が達成されたら、都に向かいなさい。君がケーリー君の面倒を見て、学院に入学させてやるんだ。かつて私が君にそうしたようにな」
「いいんですか!?」
目を輝かせるケーリーの横で困惑の色を濃くしたイヴォンヌに、マリアンがさらに何か言いかける。シンディは慌ててそれを制した。
「待ってください。あの、気持ちはありがたいんです。でも私は、他人に話してはいけないと言われている事情で人を追っているんです。一緒に来られたら、イヴォンヌさんに知られてはいけない事情を知られてしまうかもしれません。申し訳ないですが、ケーリーを預かっていただけませんか。ここからは、私一人で行きます」
まくしたてるように一気に言ったシンディに、マリアンは眉を上げた。
「残念だが、君の願いは叶えてあげられないよ。君たちの土地ではどうなのか知らないが、アーデンの人間から見れば、君はまだ子どもだ。一人旅なんてしていい年齢じゃない。それに君は、ここの土地勘も、この社会の仕組みの知識もないじゃないか。はっきり言うが、君の考えは無謀としか言いようがないよ」
返す言葉もなく、シンディは唇を噛んで下を向いた。マリアンが慰めるようにシンディの肩に手を置く。
「イヴォンヌ君は、知られたくない事情を無理に聞き出すような人間じゃない。不器用ではあるが、誠実で、秘密を守る人だ。僕の愛弟子を、信用してはくれないかね」
「……はい」
深く息を吸って吐くと、シンディはうなずいた。
膝に重ねた両の拳が、ぎりり、と鳴った。




