7、科学者(上)
誰の手にも握られていないオールの先が、一定のリズムを守って川面に沈み、水を押しわけ、また浮かび上がるのを繰り返す。昨夜雨が降ったせいか、川の水は茶色く濁っていた。八、九人ほどまでなら乗せられそうな細長い小舟は、早朝の冷えた空気を浴びて、北北西の方角に舳先を向けている。
船首近くに立つ〈川守り〉は、丈の短い緋色のマントをまとい、じっと正面を見据えている。その細い背中を見つめながら、シンディは、オールが川を叩く音にひたすら耳を傾けていた。
何も考えてはいけない。考えてしまったら、この手はまた震え始めるだろう。
隣に座るケーリーがどんな表情でいるのか、わからなかった。
昨日、夜の帳が下りてまもなく、舟に乗せてもらおうと〈川守り〉の家の戸を叩いたシンディを出迎えてくれたのも、今船首に立っている女性だった。ドアを開けて現れたその人の、黄と青の紐で三つに編まれた髪がブロンドであることに、シンディは驚いた。
赤毛でない魔術師など、シンディは見たことがなかった。〈月刀ノ里〉の者はもちろん、時折訪れてくる他の里の魔術師や、グエンダの血を引く人間も、多少の色合いの違いはあってもみな赤毛なのだ。
それを察したのか、グエンダへの忠誠の証のトンビの刺青を額に入れた細面の女性は、口元にちらりと微笑みを浮かべた。
「数はまだ少ないですが、赤の髪をもたない魔術師も、今はいるのですよ。六年前、この地の政をとりしきる〈十三輝ノ星〉の任に就かれたお方が、赤毛でない者にも、力を発揮するチャンスがあるべきだと主張して、お働きになってくださったおかげで。時代は変わります。私たちの責務は、変わりませんが」
女はミネルヴァと名乗った。シンディが、西の島国にこの少年を連れていくから川を越えたいと申し出てケーリーの肩に手を置くと、ミネルヴァは表情を変えた。
「……〈トンビノ許し〉をお見せください」
さっきまでの穏やかな雰囲気とは打って変わった、不自然なほどに抑揚のない声だった。本当ならばシンディを咎めたいところを、〈川守り〉としておさえているのだろう。
ワコクと呼ばれる西の島国は、グエンダ自治区の魔術師たちと古くから交流のある国だ。その交流とは、見た目の良い少年を差し出すかわりに、ワコクにしか存在しない薬草や魔獣を譲ってもらう、というものだった。グエンダ自治区の魔術師なら誰でも自由にできる取り引きというわけではなく、グエンダの血族の者から〈トンビノ許し〉と呼ばれる許可証を得なければならない。
受け取った少年をワコクがどうしているのかは定かでなかった。彼らが信仰する神への生贄にしているのではないかという噂もあり、そのような取り引きを良く思わない魔術師は少なくない。おそらく、ミネルヴァもその一人であり、シンディをこれから取り引きに行く人間だと思っているのだろう。
シンディは静かに首を振った。
「そういう意味ではありません。禁を犯した、子どもなのです」
声を低めると、シンディは視線を伏せた。
「お察しください」
「証拠は?」
探るように瞳を小刻みに動かしながら、ミネルヴァはこちらを見つめている。肌が痛いような緊張を感じながら、シンディは懐から小瓶を取り出した。てのひらにすっぽり収まる大きさの瓶で、赤黒いかたまりが底にへばりつくように入っている。それを握る手の震えを、シンディは止められなかった。
手を震わせていたのは、目の前の女性に対する緊張ではなかった。この瓶を用意した時のことを思い出すだけで、足がすくむ恐怖が、喉元からせり上がってくる。
瓶を受け取ったミネルヴァはコルクの栓を抜くと、瓶の口に鼻を近づけた。表情の消されていた顔に、怖れと驚きの色が浮かぶ。
「……なんてことを」
つぶやいたミネルヴァは、暗いまなざしをケーリーに向けた。身をこわばらせたケーリーが、シンディの腰にしがみつく。
しばしの間を開けて、ミネルヴァは口を開いた。
「あなたは、どこの村の、何という名の者で、何歳ですか」
「……あ、アギソン村の、ケーリー・ウッドです。十歳、です」
「アギソン村の、ケーリー・ウッド、十歳」
復唱したミネルヴァの青の目に、毅然としながらも悲しい光が宿った。すっと背筋を伸ばし、姿勢を正す。淡々とした、それでいて張りのある声で、〈川守り〉は告げた。
「アギソン村のケーリー・ウッド。あなたを、禁忌を犯した罪で、ここグエンダ自治区から、ワコクへと追放します。あなたが再びこの地の土を踏むことを、〈川守り〉は許しません」
ケーリーの演技はなかなかのものだった。しがみつかれたシンディの腰に、その体の震えが伝わってくる。
そんなケーリーを、かたい面持ちで見下ろしていたミネルヴァは、すっと顔を上げてシンディと目を合わせた。
「早く舟を出して差し上げたい気持ちは山々ですが、夜に川を越えることは禁じられています。それに、今宵は一雨来るでしょう。出発は、明日の朝までお待ち下さい。……この子に、ケーリー・ウッドに降りかかる不幸が、大きすぎないことを、祈ります」
気を張っていなければその場にへたり込んでしまいそうで、シンディは両の足に力をこめた。
不幸になるとしたら、それはケーリーではなく、シンディだ。
✝
荒い息で、レティは無数の木々が繁る斜面を全力で駆け登る。胸が苦しい。鉛の玉をくくりつけられているかのように、持ち上げる脚が重い。
右のつま先が、何かにぶつかる感覚がした。
あっ、と思う間もなく体が前に傾く。とっさに両手を前に突き出し、頭から地面に突っこむ事態は避けたが、レティは転んだそのままの勢いで我が身を土に投げ出した。
昨夜雨が降ったせいだろう。横たわったレティの下にあるのはぬかるんだ泥だった。肩で息をして泥にまみれたまま、空を仰ぐ。風もなく、頭上を覆うどんよりとした灰色の雲は、動かない。
「くそっ!」
握った右の拳を地面に叩きつけ、レティは息も絶え絶えにうめいた。
どうしようもないいらだちや、怒りや、悲しみや、寂しさや、衝動を、山をがむしゃらに駆けまわって忘れようとするのが、昔からの癖だった。目の前の斜面を駆け上がること、崖をよじ登ること、岩を飛び越えること。それだけに集中していると、体が激しい疲労で動かなくなる頃には、不思議なほど気持ちがすっきりする。
だが今日は、そうはいかなかった。呼吸がつらく、起き上がる気力がわかないほど四肢がだるい。それにも関わらず、胸の内側で蛇がのたうち回っているかのような、言いようのない感情の波は、引く様子を一切見せなかった。
――何で。
シンディがあんな目に遭わなければならないのだろう。このタイミングで、レティやシンディの代で、この時がきてしまったのだろう。せめてシンディの母親が生きている間であれば、状況は変わっていただろうに。
昨晩、母から聞かされたゴールダー家の秘密を思い出し、歯を食いしばる。だがすぐにその考えの恐ろしさに気づくと、まぶたをぎゅっとかたく閉じた。
シンディの母親が生きていれば、と考えるのは、シンディではなく、その母が犠牲になっていれば良かったのにというのと、同じことだ。
光を閉ざした真っ暗な視界で、だんだんと、早鐘を打っていた心臓が歩をゆるめ、息が穏やかになっていく。
ひっそりと呼吸する暗闇で、レティは、音を聞いた。
何かが動いて、揺れた草の葉がざわめく。鳥の声が、競うようにせめぎあったかと思うと、ぴたりと止んだ。それに代わるように、さっきまで響いていたのより一段高いさえずりが、森の湿った空気を弾く。どこかで木の枝がしなり、大きく揺れた。
ゆっくりと目を開き、もう一度、レティは天を仰ぎ見る。
「……人は、人に、獣は、獣に、鳥は、鳥に」
唇から、自然と言葉が流れ出た。古い歌を聴かせるように、折にふれて、母が言っていた言葉。
「生まれてきた、意味がある。その人が、その人に生まれた、理由がある。その人が、その人に生まれたから、できることがある」
自分の心臓が、どくん、と大きく脈打った気がした。
生まれてきた体に、境遇に、意味があるのなら。
生まれてきた時代にも、意味が、あるのだろうか。
上を向いた頬を、一掴みの風が触れて去っていく。レティは、泥の中から身を起こした。




